野手城(のてじょう)
野手城の基本情報
通称・別名
- 野手館、野手塁、御城
所在地
- 千葉県匝瑳市野手字御城1652地先
旧国名
- 上総国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 野手胤知
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 野手氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板(場所:農村公園)
周辺の城
-
坂田城(千葉県山武郡)[9.4km]
多古城(千葉県香取郡)[12.2km]
桜井城(千葉県旭市)[14.2km]
飯櫃城(千葉県山武郡)[15.5km]
成東城(千葉県山武市)[17.2km]
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前林城(千葉県成田市)[19.9km]
小見川城(千葉県香取市)[21.3km]
西野城(千葉県山武郡)[22.6km]
東金城(千葉県東金市)[23.6km]
野手城の解説文
野手城の口コミ情報
2021年09月14日 国府左京大夫城介
八日市場城[野手城 周辺城郭]
源氏の末裔である押田氏の居城
【歴史】
築城年代は不明だが、千葉氏家臣である押田氏が居城としていた。
押田氏は、源頼隆(毛利冠者)の長男である押田頼広を祖としている。鎌倉時代初期は有力な御家人であったが、北条氏と三浦氏の争い(宝治合戦)では三浦氏に与したため没落し、千葉氏の庇護下に入った。戦国時代になると、押田輔吉が岩橋輔胤の娘を妻にすることで、千葉氏の一門衆に列せられる。江戸時代になると、徳川家に旗本として召し出されている。江戸時代後期には徳川家治・家斉に仕えた押田勝長がおり、その妹は家斉の側室となった香琳院で、12代将軍家慶の生母となっている。更に、勝長の娘は家慶の側室となった清涼院で、その子供が初之丞(後の一橋慶昌)で、幼き日の勝海舟が遊び相手として召し出されている。
【遺構】
八日市場駅の北西750mにあり、現在は天神山公園となっている比高40mの台地上にある。
主郭と思しき場所には現在櫓状の展望台があり、折れを伴った空堀が残っている。その東には広大な郭があるが、おそらくグラウンドを造成する際に複数の曲輪が合成されたと思われる。グラウンドの東には、深さ10mほどの空堀が残っている。南側は断崖になっており、北側には出丸のよう張り出した地形が存在している。
また、城内からは16世紀ころの土器が出土している。
【感想】
現在は天神山公園となってしまっているが、ある程度は城の形は残っているので、どのような城であったかは分かりやすいと思います。主郭部分にある櫓状の展望台は、戦国時代であればこんな感じかなといったもので、意外とマッチしています。そこからの眺望は、遠く太平洋まで見渡せることができ、往時もこのようにして周囲を監視していたと思われます。
正直、押田氏のことは全く知らなかったですけど、色々調べてみるとかなり面白い一族だと思います。一族滅亡の危機が何度かあったようですが、それを悉く乗り越え、千葉家の一門になり、徳川将軍を産み、幕末の有名な人物と繋がってくるなど、意外と重要な一族であることに驚きました!
【アクセス】
八日市場駅から徒歩10分で、西側にある天満宮が登城口。
天神山公園の駐車場を利用可。
【写真】
1:登城口(天満宮)
2:主郭にある展望台
3:標柱
4:主郭東側の空堀
5:東側の堀切
6:出丸(東側)
7:土塁
8:出丸(西側)の空堀?
2021年03月21日 ファン掃部助トム治郎
野手城
野手の集落そのものが城跡だったのでしょう。農村公園に駐車し、御殿があったという場所まで7分くらいでした。
2020年10月26日 【︎】左馬允結衣
野手城
跡地にはコミュニティセンターのみ。そのコミュニティセンターの裏側が天守にあたります
近くにある農村公園にて野手城の説明板あります
歴史
『千葉大系図』によると、千葉常胤の弟・椎名胤光の次男にあたる胤知が野手を領し、野手次郎胤知と称したとされる。野手城の築城に関する詳細は不明ながら、この胤知の系統が野手城を築き居城としたと伝わる。天文4年(1535)、野手城では古河公方足利晴氏と小弓公方足利義明の対立に端を発した「野手合戦」が起きた。これは、古河公方に味方した野手城主野手義長と、小弓公方を支持した野手城から北に約3.5kmに位置する八日市場城主押田氏の戦いである。押田氏が野手城に攻め寄せ、野手義長と子の義治らが討ち死にし、野手城は押田氏の城となった。この戦いに勝利した押田氏は、野手城をはじめ、横須賀城、東小笹城、堀川館など周辺の諸城を手に入れ、八日市場地域の覇権を掌握した。
また、詳細は不明ながらかつて市域に存在した恵光院に伝わる過去帳には、明応2年(1493)8月26日にも野手で合戦があったと記されており、戦国時代に野手城がたびたび緊迫した状況下にあったことが推察される。
戦国時代末期になると、押田氏は小田原北条氏に属していたため、天正18年(1590)の小田原北条氏滅亡をもって野手城も廃城になったと考えられる。
遺構
野手周辺は、九十九里浜と北側の丘陵部との間に位置する低湿地帯であり、野手城は砂州の微高地をうまく利用して築かれている。遺構はほとんど残っていないが、地元の伝承によると、内堀、中堀、外堀の3重の堀に囲まれた堅固で広大な城だったという。主郭は内堀に囲まれた正方形の区画であったと伝わり、「御城」という字名が残る。このエリアは今でも野手集落の中心にあたり、字「御城」の南側には街道が通り、それに沿ってかつては宿が形成されていたと考えられる。現在もこの街道沿いには人家が密集し、「宿」の字名が残っている。これらのことから、中世期における野手城と城下集落を推察することができる。
他にも周辺には、「東門」「上の馬場」「大門」「前古屋」などの字名が残っている。
交通
・JR八日市場駅から徒歩約1時間(約4.5km)参考文献
・『匝瑳の城』小高春雄、正文社、2017年。・『八日市場市史』八日市場市史編さん委員会、1982年。
・『東総の城郭と居館跡』高森良昌、椎名幸一、秀英社、2010年。