桜井城(さくらいじょう)
桜井城の基本情報
通称・別名
- 櫻井城、前掛城、前野城、舞掛城、前崖城
所在地
- 千葉県旭市桜井字御前577他
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 東(千葉)胤頼
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- 松平家忠
主な城主
- 東氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、井戸
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
森山城(千葉県香取市)[5.6km]
小見川城(千葉県香取市)[9.9km]
野手城(千葉県匝瑳市)[14.2km]
大崎城(千葉県香取市)[17.4km]
多古城(千葉県香取郡)[17.7km]
飯沼城(千葉県銚子市)[18.3km]
前林城(千葉県成田市)[19.8km]
鹿島城(茨城県鹿嶋市)[20.6km]
坂田城(千葉県山武郡)[20.7km]
飯櫃城(千葉県山武郡)[21.4km]
桜井城の解説文
[引用元:Wikipedia「桜井城」の項目]
桜井城(さくらいじょう)は、千葉県旭市櫻井にあった日本の城。
概要
桜井城は、前掛城、舞掛城、前野城、上代城などとも称され、城跡は旭市櫻井字御前を中心とする場所にある。畑の中に、旧干潟町の教育委員会が建てた案内標がある[1]。
千葉常胤の六男・東胤頼の最初の居城と言われる城である。胤頼は、鎌倉時代のはじめに東荘33郷を与えられて領有しており、この頃の居城が桜井城ということになる。胤頼はその後、文治6年(1190年)に須賀山城を築いて居城を移し、さらに隣接する森山城に移っていった。なお、桜井城には東胤頼以前に上代越後守がおり、この人は胤頼に桜井城を譲って同じ東荘の御代城に移っていったという話もある[2]。
戦国時代の永禄8年(1565年)、桜井城は里見義弘の軍勢に攻められた。この頃の城主は上代胤正という人で、奮戦したが、多くの郎党たちとともに討ち死にして落城した。
文禄元年(1592年)、徳川氏の家臣である松平家忠が再建して居城したが、のちに家忠は小見川城に封ぜられ、わずか3年で廃城となった[3](小見川藩を参照)。
構造
桜井城は多郭雑形式で、半島状の台地の先端部に要害郭がある。付近には、「大門」「家中内」「返堀」「馬洗」「馬場址」などの地名が残っている。「大門」が登城口と呼ばれ、大手口と考えられる。琴平神社が祀られている小高い場所が物見台の跡と推定される。
アクセス
- JR総武本線 干潟駅から旭市コミュニティバス まんざい保育所前下車
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桜井城の口コミ情報
2022年03月11日 国府左京大夫城介
沼闕城[桜井城 周辺城郭]
椿の海の北に位置する沼闕(ぬまかけ)東氏の居城
【歴史】
築城者は、沼闕東氏初代の東盛胤(?~1299?)。築城年は不明だが、鎌倉時代中期あたりか。
遺構からも戦国期も使用されていたようだが、詳細は不明。小田原征伐によって、北条氏が滅ぶと、それに従っていた東氏も滅んだと伝わっている。
徳川家康の関東入封の際、松平定勝がこの地に3,000石で入部している。
別名:小南城、沼掛城
【遺構】
桜井城の東2.5kmに位置する標高50mの台地上に築かれている。
現在は「東庄県民の森」となっており、福聚寺(ふくじゅじ)の境内が主郭であり、その周囲に土塁、空堀、腰曲輪、堀切、竪堀などの遺構が残っている。
福聚寺は、椿の海を開拓した鉄牛和尚が開山し、そのお墓もある。なお、墓石は伊達綱村、稲葉正往から寄進されたものです。
【感想】
沼闕城は、「東庄県民の森」という公園になっているため、遺構が改変されている箇所が見受けられる。特に、西側の尾根を切断する堀切は、遊歩道を作ったためか、かなり浅くなってしまっている。また、福聚寺の東側に空堀があるが、半分ほど埋められてしまっている。
しかし、北側の腰曲輪には、竪堀や横堀に加え、貯水池らしきものが綺麗に残っています。また、主郭部分の土塁は高くはないが、大部分は残っています。
公園ということで、しっかりと整備されているため、見学自体はしやすいお城だと思います。
【アクセス】
JR成田線下総豊里駅まで徒歩で1時間。
東庄県民の森第2駐車場が一番近い駐車場です。
【写真】
1:標柱
2:土塁
3:福聚寺脇の空堀(薮でかなり分かりにくいですが😅)
4:西尾根の堀切
5:腰曲輪につながる横堀
6:福聚寺(主郭)
7:鉄牛和尚の墓
8:干潟八万石(旧椿の海)を望む
2022年03月11日 国府左京大夫城介
大友城[桜井城 周辺城郭]
千葉氏の祖である平良文の居城
【歴史】
千葉氏の祖である平良文が天慶3年(940)に、相模の村岡からこの地に来て築城したと伝わる。
平良文の孫である忠常が起こした長元の乱では、忠常はここを拠点にしていたとも伝わる。
その後、忠常の曾孫である常兼(千葉氏初代)が、大椎城に移るまで居城としてたという。
廃城となった年代は不明だが、遺構の形状から戦国時代には利用されていなかったと推測される。
【遺構】
桜井城から北西2.1kmに比高30mの舌状台地に築かれている連郭式の城郭。
政所台と遠所台と呼ばれる二つの大きな曲輪で成り立っており、その急斜面には腰曲輪や、井戸の代わりとなる金明水・銀明水と呼ばれる湧水がある。遠見台の南東には兵岬と呼ばれる小さな物見台がある。麓には小姑屋敷、鍛治屋敷と呼ばれる場所がある。
また、政所台には、大正9年に地主が建てた石碑(政所台墳墓供養之塔)がある。
【感想】
平良文の居城と伝わるだけあり、かなり古い形態のお城です。そのまま地形を活かして、大きな曲輪として利用しており、明確な土塁や堀などの防御機構は見当たりませんでした。もしかするとあったのかもしれませんが、城内は完全に畑となっているため、その際に壊された可能性も否定できません。
金明水や銀明水、腰曲輪に関しては、急斜面な上、藪によって足元がよく分からないので、未確認です。
実際にここに平良文がいたかどうかは不明ですが、かなり古い感じのする地名として残っている政所台や遠見台などからそれなりの人物が在城していた可能性は高そうです。
【アクセス】
下総橘駅から徒歩で1時間。
桜井城から徒歩で30分。
駐車スペースはないので、路駐するしかないと思われる。
【写真】
1:遠景(南側)
2:政所台
3:政所台にある石碑
4:遠見台
5:鍛治屋敷
2022年02月18日 国府左京大夫城介
長部城[桜井城 周辺城郭]
江戸後期に大原幽学が庵を構えた地
【歴史】
松沢光胤(千葉六党の国分一族)が築城したと伝わる。築城年代は不明だが、鎌倉時代後期と考えられる。
松沢氏が9代に渡り居城としていたが、天正年間に里見義康に攻め滅ぼされたと伝わる。
天保6年(1835)、大原幽学(1797~1858)が長部城の跡地に庵を築いて、農村振興の活動拠点とした。
大原幽学は、尾張大道寺氏(大道寺政繁の次男の家系)の出身で、「先祖株組合」と呼ばれる農業協同組合を世界で最初に創設した人物です。しかし、農村の人の行き来を幕府に疑われ、先祖株組合の解散を命じられるなど、失意の内に自害してしまった。
【遺構】
桜井城から西2.6kmに位置し、標高40mの台地上に築かれている。現在は、大原幽学遺跡史跡公園として整備されている。
遺構は多少の改変はあると思われるが、土塁、空堀、櫓台、方形の曲輪が残っている。
また、大原幽学の旧宅、旧林家住宅などがある。
【感想】
大原幽学の里として整備されていますが、国の史跡となっているため、城址としてはかなり綺麗に整備されています。
この長部城の周囲は、西側を除き水田となっていることから、往時は湿地帯だったと推測できます。長部城の南側には喰い違い虎口が、東側は尾根を利用した高土塁と眼下を通る街道を監視するための櫓台が設けられています。また、西側には要害が訛った龍ヶ谷(ゆうがい)という地名もあり、方形の曲輪と西側を切断する空堀が残っています。
ここを治めていた松沢氏は府馬氏の一族であり、府馬城の南側を守る役目に加え、椿の海の北側にも位置し、府馬氏にとって重要な拠点であったと考えられます。
【アクセス】
小見川駅または旭駅からバス(千葉交通の府馬線)に乗車し、中和で下車し、徒歩18分。
車の場合は、大原幽学遺跡史跡公園の駐車場が利用できる。
【写真】
1:遠景(北側)
2:喰い違い虎口
3:櫓台
4:標柱
5:龍ヶ谷
6:空堀
7:大原幽学旧宅
8:旧林家住宅
2022年02月18日 国府左京大夫城介
桜井城
桜井城を公共交通機関でリア攻めする場合、3つの手段があります。
①小見川駅(成田線)または旭駅(総武本線)からバス(千葉交通の府馬線)に乗車し、「中和」で下車します。バス停から東へ進み、県道74号線をひたすら歩いて、約40分程で、桜井城の東側麓にある金毘羅大神に着きます。
②干潟駅または旭駅から旭市のコミュニティバス(干潟~中和~旭中央病院)に乗車し、「まんざい保育所前」で下車し、徒歩1分で金毘羅大神に着きます。ただし、本数は極めて少ないので、旭市のHPで時刻を確認してください。
③笹川駅にある東庄町観光会館でレンタサイクルを借りる方法もあります。ただし、前日までに電話で事前予約する必要がありますので、注意してください。
貸出時間 9:00~16:00(ただし、月・木は休業日)
先人の口コミにもありますが、明確な登城口が西側に存在しますが、人様の家の庭を横切るものとなっています。そのため、取りつきやすい斜面から登っていく必要があります。自分の場合は、金毘羅大神のやや北側にある畦道から突入する方法を取りました。一応、国土地理院の地図を見ると傾斜が緩やかな箇所があるので、そこから登っていくこともできます。藪を抜ける必要があるので、行きは全く気付かず、帰りに気付くようなルートです。
2022年02月16日 国府左京大夫城介
府馬城[桜井城 周辺城郭]
正木氏の下総侵攻に与した府馬氏の居城
【歴史】
築城年代は不明だが、築城者は千葉六党の一つ国分氏の一族である国分胤時または府馬(賦馬)時常が築城したと伝わる。
府馬時常の子孫である時持は、永禄8年(1565)に正木氏の下総侵攻に呼応し、木内氏の米野井城を攻め落とすが、木内氏や大須賀氏の反撃により戦死している。
【遺構】
桜井城から北西4.7kmに位置し、標高40mの台地上に南北500mの連郭式の城郭。
畑などに利用されたため、地形は改変された可能性があるが、曲輪、土塁、堀切が残っている。
曲輪は大きく分けて、三つの曲輪群に分かれており、南の曲輪群の地名は要害と呼ばれている。
府馬城から東に350m程行った所には、国の天然記念物である「府馬の大クス」がある大クス展望公園があり、そこは府馬城の出城と言われる山ノ下城となります。残念ながら、遺構は残っていません。
【感想】
北と中央の曲輪群に向かう登城口は複数ありますが、一番南側の登城口から攻めるのが分かりやすいです。その途中にある岩盤を掘削して造られた堀切(切通)はかなり見事なものです。城内は全般的に藪で覆われていますが、土塁や堀切を確認できます。また、畑として改変された箇所もありますが、中心の曲輪を守るかのように段曲輪が配置されていることも確認できます。
南の曲輪群(要害)の登城口は別になっています。他の曲輪群と違い、綺麗に削平された様子を確認することができます。
大クス展望公園にある樹齢1,300年以上と言われている大クスは、クスノキではなく、その仲間のタブノキだそうです。しかし、見るものを圧倒する巨樹なので、府馬城を訪れることがあれば、この大クスも是非見てください。本当に大きいです!
【アクセス】
小見川駅または旭駅からバス(千葉交通の府馬線)に乗車し、茶畑で下車し、徒歩8分。
車の場合は、近くにある大クス展望公園の駐車場から徒歩4分。
【写真】
1:北側の切通
2:主郭?
3:北曲輪群の虎口
4:中央の曲輪群の城塁
5:岩盤堀切
6:南の曲輪群(要害)
7:山ノ下城跡(大クス展望公園)
8:府馬の大クス
2021年09月23日 国府左京大夫城介
江ヶ崎城[桜井城 周辺城郭]
椿の海の南側にある方形居館
【歴史】
築城者、築城年代ともに不明。
【遺構】
阿知戸城から北西に1.4kmにある子安神社境内が江ヶ崎城となる。東西90m、南北50mほどの方形居館であり、東側には土塁と空堀が明瞭に残っている。また、南側の水路は水堀の名残となっている。
【感想】
阿知戸城を訪れた後、次の電車が来るまでの待ち時間として訪れたお城です。実は、江ヶ崎城の南にも仲島城というお城があり、どちらに行くか迷った末、こちらにしました。もう少し時間があれば、両方行ったのですが、流石に乗り遅れると次の電車は一時間待たないといけないのは辛いので(汗)
この城は神社が建てられたことである程度遺構が残っています。特に東側から北側に掛けて空堀と土塁は綺麗に残っています。また、南側の水堀とは繋がっていることから、かつては水堀に囲まれたお城だったのではないかと想像しています。
かつては椿の海の南側に面していることから、それに関連するお城若しくは陣屋みたいな場所だったのではないでしょうか。更に江ヶ崎城から南西に僅か400mほどの所にある仲島城と何らかの関りはあったと考えるのが妥当かと。なお、この仲島城は大須賀八左衛門なる人物が城主をしており、戦国時代末期には大須賀氏家臣の加瀬肥後守が城主になっていることから、この辺りは大須賀氏の勢力圏だったと推測されます。
【アクセス】
総武本線旭駅から徒歩で約20分。
子安神社の南側にある江ヶ崎農村公園に駐車可能。
【写真】
1:遠景(南東側から)
2:水堀跡
3:主郭にある子安神社
4:東側の土塁
5:土塁と空堀
2021年09月07日 国府左京大夫城介
見廣城[桜井城 周辺城郭]
下総では珍しい高低差を利用した連郭式の城
【歴史】
築城年代や築城者は不明だが、嶋田三河守義広の居城と伝わっている。永禄年間(1558~1570)に、正木時忠による東総侵攻により、落城し、城主の嶋田三河守は利根川方面へ落ち延びる途中に捕らえられ殺された。また、嶋田三河守は、常陸の島崎城主の娘を妻としている。
【遺構】
旭市見広にある標高50m舌状台地の先端に築かれており、かつては椿の海の東側湖畔に存在する要害の地であった。下総では珍しく段曲輪が複数存在する連郭式の城郭で、規模は南北約300m、東西約80m、高低差40mである。
主な遺構として、主郭北側の深さ10mほどの空堀、主郭の縁には土塁、二の丸には物見台、主郭・二の丸を中心に複数の段曲輪が残っている。
城の北側にある雷神社は、景行天皇が123年に創建し、千葉氏・源氏・松平氏といった多くの領主からの崇敬が篤い神社です。
【感想】
見廣城を登城する前に、必ず雷神社に立ち寄ってください。神社には見廣城の資料があり、リア攻めの一助となります。宮司さんはお話好きなので、色々な話をしれくれます。自分は聞くことが出来ませんでしたが、もしかすると見廣城の話もあるかもしれません。
雷神社駐車場の南側にある小道から見廣城へ行くことができます。しばらくすると、大きな空堀が出迎えてくれます。空堀を降りると、浅間神社の鳥居がありますので、そこを登ると主郭部分に到達することができます。
主郭と二の丸は地元の方々によって整備されているので、基本的には歩きやすいです。ただし、主郭の中央部分は笹薮となっており、その部分の遺構は分かりません。主郭から二の丸に降りていく途中に複数の段曲輪があり、物見台脇を通っていくと麓に行けますが、個人宅っぽい場所だったので最後まで行っていませんが。
切り立った舌状台地に築かれているので、両脇は断崖のため、北側の台地か南側の麓から攻めれません。守備側としても北に空堀、南は段曲輪による防御を固めたといったところでしょう。
宮司さんからお城の話を聞くことを含め、もう一度再訪してみたいお城です。
【アクセス】
総武本線倉橋駅から徒歩15分または飯岡駅から徒歩25分。
雷神社駐車場、利用可。
【写真】
1:登城口
2:空堀
3:浅間神社鳥居
4:主郭西側の土塁
5:石碑
6:段曲輪
7:物見台脇
8:雷神社
2021年08月28日 国府左京大夫城介
阿知戸城[桜井城 周辺城郭]
信濃から下総に移封された木曽義昌の居城
【歴史】
天正18年(1590)に、徳川家康の関東移封により、その麾下であった木曽義昌も、信濃木曽から下総阿知戸(現・網戸)に1万石で移封された際に、築城された。義昌が没すると、嫡男の義利が跡を継ぐが、粗暴な振る舞いが多く、慶長5年(1600)に改易され、それに伴い、阿知戸城も廃城となった。
【遺構】
木曽義昌公の墓所がある東漸寺の境内が、阿知戸城の跡となっており、北から西にかけて、堀の跡が残っている。
境内には、木曽義昌・夫人(武田信玄の三女・真理姫)・木曽家代々の供養塔がある。
また、東漸寺から北西に、木曽義昌史跡公園があり、木曽義昌の水葬跡石塔がある。
【感想】
山国から海の近くに移封された木曽義昌が築いた城ですが、どちらかというと陣屋に近いです。遺構の多くは、土地の開発に伴い、消滅しており、唯一の遺構である堀の跡も激藪状態になっており、よく分からない状態です。しかし、周囲の道には折れがあるなど、城の形状を推測できる箇所は所々あります。
木曽義昌が移封された頃は、椿の海(江戸時代初期に干拓された)と呼ばれる湖があり、浮城みたいな状態だったようです。
地元では、木曽義昌をかなり信奉され、今でも「木曽さま」と呼ばれているようです。事実、阿知戸城がある、旭市の市名は、木曽義昌の祖先である「朝日(旭)将軍・木曽義仲」が由来になっています。しかし、木曽氏自体は、上野沼田氏(藤原秀郷流)だそうです。全く関係ないですね(笑) 武田家を裏切ったイメージが強い人物ですが、僅か5年ほどの統治だけで、後世まで慕われており、木曽義昌という武将のイメージがだいぶ変わりました。
【アクセス】
総武本線旭駅から徒歩で15分。
【写真】
1:東漸寺入口
2:木曽義昌・夫人・木曽家代々の供養塔
3:北側の堀
4:堀(やや藪が薄く辛うじて堀の深さがわかる?)
5:水葬跡石塔
6:木曽義昌公石像
2021年01月17日 愛甲太閤【相模の狂人】
桜井城
この城の口コミ、書くのヤバいような…🤣
何しろ城に登る入口がありません。大手道はどうやら城の西側から登っていて、堀底道が主郭虎口正面まで続いていますが、何しろ民家の庭を突っ切って行かないと入れません。
他に、城域の南から西側へ入ってくる車道が西に折れ曲がる付近の畑を突っ切り、荒れた竹やぶの急斜面に取り付くルートが考えられます。が、正面はとても登れない垂直の土壁なので、少し張り出した支尾根に取り付き、登れそうなところを探りながら上ると堀切のある帯曲輪に出ます。あと少し登れば尾根に出られます。ルートファインディングの能力が問われます。
遺構は尾根筋を中心にあちこちに見られます。
主郭の南は、上総国にいくつか見られる山稜を城壁に仕立てたような構造で、登ってきた場所の荒れっぷりが信じられないほどヤブがありません。尾根上に浅い堀切跡で仕切られた細長い曲輪が続いています。
主郭付近は土木遺構が固まっているところで、西側を固める土塁と北側に開口した虎口そして登ってくる堀底道が見ものです。
立派な遺構を持ちながら登城口が無く、社会的に難攻不落な城と言えるでしょう。千葉県は城跡の整備に相当気合を入れているようなので、今後ちょっとだけ入りやすくしてくれる事を期待したいです。
2011年08月02日 さくら主膳佑にゃ〜
桜井城
別称前掛城、前野城、舞掛城、前崖城。
鎌倉時代初頭、源頼朝より東ノ荘、三崎郷を与えられた千葉常胤六男東六郎胤頼によって築城されたという。
後に千葉氏一族上代氏が居城したが、永禄八年(1565)掃部助胤正の代に里見義弘の侵攻を受け落城した。
文禄元年(1592)には徳川氏家臣松平家忠が再建、居城したが、その後家忠が小見川城へ移った為僅か3年で廃城となった。
2011年07月31日 半日皇帝下野守
桜井城
城への入口が分からなかったので、遠景のみですm(__)m