多古城(たこじょう)

多古城の基本情報

通称・別名

多胡城

所在地

千葉県香取郡多古町多古

旧国名

下総国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

千葉氏、飯土井氏、牛尾氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

飯櫃城(千葉県山武郡)[3.9km]
坂田城(千葉県山武郡)[7.5km]
前林城(千葉県成田市)[8.7km]
野手城(千葉県匝瑳市)[12.2km]
中沢城(千葉県富里市)[13.0km]
寺台城(千葉県成田市)[13.9km]
成東城(千葉県山武市)[15.1km]
大崎城(千葉県香取市)[15.8km]
桜井城(千葉県旭市)[17.7km]
長沼城(千葉県成田市)[18.4km]

多古城の解説文

※この城郭は2022年4月6日に名称と位置が変更となりました。



多古城(たこじょう)は、千葉県香取郡多古町にあった日本の城。

歴史 

栗山川中流の多古地方は、かつて千田庄に属し、鎌倉時代以降千葉本宗家の地盤であった。1455年(享徳4年)の享徳の乱では、千葉本宗家十六代千葉胤直ら一族は千葉城を追われ、多古城と志摩城に逃れた[1]

多古城には、胤直の子の千葉胤宣が立てこもったが、すぐに原氏・馬加氏の連合軍が迫った。馬加康胤は、城を遠巻きにして兵糧を止める長期包囲の作戦をとった。籠城の兵は日に日に困窮し、逃亡するものが相次ぎ、8月には胤宣以下20人あまりになってしまったと言われている。胤宣はついに降伏を申し出て、城外の阿弥陀堂に入り、念仏を唱えながら切腹した[2]

また、遺構として残る畝堀は北条氏が拠点とする城郭に好んで用いられたもので、その勢力がこの地に及んでいた証左としてあげられる[3]

構造 

多古城跡は、多古台と呼ばれるニュータウン付近の高さ十数メートルの台地上にあり、南北約1000メートル、東西の幅は最大のところで約400メートルである。南端部の「古城」と呼ばれているあたりには、遺構が残っている。多古台通りから案内板に従って700メートルほど細道を入ると空堀の跡があり、多古町教育委員会が立てた案内板がある。

それ以外の台地上は多古台バスターミナルやこども園などが建つなど、開発が進んでいる。城の北部にも大少数郭があったらしいが、はっきり残っていない。

城の東北には、千葉氏の信仰する妙見社を祀った小郭があり、鬼門にあたることから、城の守護神として祀られたものである。

また、台地から切通(横芝へ向かうバス通り)を挟んで、町民が「城山」と呼んでいるところがある。東西約100メートル、幅20メールほどの小島のようなもので、もとは前記の「古城」と呼ばれる広い郭につながっていたところである。この中にも空堀や土塁が複数残されている[4]

アクセス 

  • 東京駅から八日市場行き高速バス、または成田空港から多古町シャトルバス、「多古台バスターミナル」下車。

参考文献 

  • 多古町教育委員会 2006「指定文化財一覧(https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1234705100/1234705100100020/takohyakusen/?p=110)」『多古町名所百選』p.109(多古町公式HP・多古町デジタルアーカイブ(https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/1234705100))
  • 大多和晃紀『関東百城』有峰書店新社

多古城の口コミ情報

2022年04月21日 国府右京大夫城介
物見台城[多古城  周辺城郭]



中城の南東に位置する大城郭

【歴史】
築城年代、築城者共に不明。中城を築いた千葉胤貞が築いた可能性がある。

【遺構】
多古城から北北東2.9kmに位置し、比高40mの台地上に築かれている。諏訪神社の西側に土塁や虎口、竪堀が、南西側には、物見台城の名称の元となった物見台や土塁、腰曲輪が残っている。

【感想】
以前訪れた際はかなり藪が酷かったですが、地元の方々によって物凄く綺麗に整備されています。本来は台地全体が城郭だったようですが、大部分が畑になっていますが、一部残っている遺構は見事なものだと思います。諏訪神社の西側にある土塁に囲まれた方形状の郭(枡形虎口か?)がよく残っています。郭の北側に台地下へと落ちていく竪堀(切通)もあります。また、ここから南西にある物見台に向けて、台地の縁沿いに100m近い腰曲輪があることから、かなり大規模な城郭だったと推測されているようです。

多古町では、物見台城と土やぐら城は別の城扱いになっていますが、なんとなく一つの城であるような感じを見受けることができます。同じ台地上にあり、対角線上で約300mほど離れているだけなので、わざわざ別の城として造る意味合いがないと思っています。

【アクセス】
道の駅多古から自転車で約15分。諏訪神社脇に駐車スペースあり。

【写真】
1:物見台
2:腰曲輪
3:虎口1
4:虎口2
5:藪だらけの頃の虎口2
6:蛇行するように落ちる竪堀(切通)

2022年04月11日 昌幸近江守野面積み♡
多古城

【周辺城郭について】
中城・土橋城は、まだ移行前の飯櫃城に情報が残っています。訪問される方はそちらを参考になさってください。

2021年10月12日 昌幸近江守野面積み♡
次浦城[多古城  周辺城郭]



平安時代末期、千葉氏一族の常盛が次浦(つぎうら)を領した。そして次浦氏を名乗り、築城した。
付近一帯の台地が城域とされるが、集落になってしまっているため、詳細は不明。現在は方形居館と周りの削平された曲輪が確認できる。
方形居館内は千葉氏お馴染みの妙見様が祀られている。
堀から見上げる土塁は、500年以上経った今でも立派な高さがあり、遺構の状態は良好ではないか。

駐車場なし。地域の墓地があるので停められそうなスペースあり。

【写真の説明】
①いざ次浦城へ。道路はかつての堀と考えられる。
②主郭虎口。坂虎口だった。
③主郭内部より土塁。
④妙見様。
⑤北東部の谷へ落ちていく堀。曲線を描いていたので堀底道のようなものか?
⑥堀底道を挟み、向こうには櫓が建っていたと思わせる凸部がある。
⑦谷側を守る腰郭。
⑧西側にも竪堀(もしくは堀底道)から主郭周りの堀のぶつかった箇所。

2021年10月12日 昌幸近江守野面積み♡
分城(飯土井城)[多古城  周辺城郭]



千葉宗家の千葉胤貞が築いたと伝わる分(わけ)城。別名:飯土井城。城内には妙見社が建てられていて、千葉氏ゆかりの城の証となっています。
戦国期に向けて改修整備され、並木城と同じ台地にあることから、連動して戦事にあたっていたと思われます。
小ぶりの方形居館ですが、横矢が掛かるよう工夫されています。

駐車場はありません。道の駅多古でレンタサイクルで訪れましょう。

【写真の説明】
①妙見社への参道(登城口)
②参道は主郭を囲む空堀を改修したもののようですね。
③社殿と土塁。一番高さのある土塁で櫓が設置されていた事でしょう。
④主郭空堀。
⑤主郭と隣の郭を遮る堀切。
⑥隣の郭には高くなっている土塁があります。物見台か?

2021年10月09日 昌幸近江守野面積み♡
多古城



1455年、享徳の乱が起き、千葉氏当主胤直とその子の宣胤(のぶたね)の居城であった猪鼻城(千葉市)が、叔父の馬加(まくわり)康胤に攻撃されました。胤直、宣胤父子は脱出し、多古へと逃れてきました。そのときに宣胤が籠もったといわれるのが多古城です。必死に防戦するも力及ばず、宣胤は城を出て、付近の阿弥陀堂で自刃しました。

台地に築かれた多古城。開発により崩されましたが、空堀と南端に遺構が残っています。(南端の遺構は気づかず行けませんでした)戦国時代、千葉氏は北条氏に属し、多古城は千葉氏一族の牛尾胤仲が城主でした。空堀はその証拠である障子堀になっていたことが分かっています。

分譲地と畑の中を進み、道は少々狭いですが、近くまで車でアクセスすることは可能です。

2021年10月07日 昌幸近江守野面積み♡
並木城[多古城  周辺城郭]



鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏、後醍醐天皇、足利直義などの様々な勢力争いが起き、下総にも波及。その時に並木城は築かれた。
並木城は栗山川、借当川の水運の要衝として、水運権利確保の拠点としての役割を担ったとされ、城下の「並木のふけ」にて舟いくさがあったことが分かっている。
その後改修整備されながら、戦国時代の城として残っていった。

現在、主郭のみ遺構が残るが、非常に明瞭で、特に二重堀は一見の価値がある。
崖側に桝形虎口が2箇所確認できる。おそらく湖面が下まできていて、船着場からの入口ではないか。

最近、南側からもアクセスできるよう看板がついた。防火水槽があり、その脇道から登城可能。
駐車場なし、道の駅多古でレンタサイクルを使うのがベスト。

【写真の説明】
①南側から城を眺める。
②切通しのような登城路。当時からのものだったら、埋門があったのかな?
③二重堀
④二重堀の内の一条
⑤二重堀の内のもう一条
⑥大分浅くなっているけど、二重堀は南側まで続いていた。
⑦主郭物見台
⑧桝形虎口。写真右上から右下が導線。

2021年05月16日 国府右京大夫城介
多古出城[多古城  周辺城郭]



城山の地名が残る多古城の出城

【歴史】
多古城が築城された時期と同じと考えられる。
築城者は多古城と同じく千葉氏。

【遺構】
多古城とは道を挟んで東側にあり、地名は城山となっている。神社や農地になっているところがあり、かなり改変されているが曲輪や土塁らしき跡を確認することが出来る。

【感想】
出城と呼ばれるだけ、あまり面積は広くなく、畑が大部分を占めるが、曲輪や土塁の跡は確認できます。ただし、城内には畑があるのでそこに踏み入らないように注意してください。
多古城と多古出城の間の地名は「切通」と呼ばれていることから、本来はほぼ地続きの形状であったことが推測できます。つまり、この2城は一つの城だったのかなと思います。出城側の方がやや斜面が緩やかなのでこちらが大手にあたるような気がします。そして、切通には木橋が掛かっており、緊急時には落とすことで本城に入らせないようにしたのかなと想像しています。

【アクセス】
道の駅多古から自転車で3分。
たこらぼ(多古町魅力発信交流館)の側にある石碑の脇にある道が登城口になります。

【写真】
1:切通バス停(多古城と多古出城の中間に位置する)
2:登城口
3:曲輪の跡
4:土塁跡

2021年02月04日 国府右京大夫城介
分城(飯土井城)[多古城  周辺城郭]



北朝に与した千葉胤貞の城

【歴史】
鎌倉時代末期から南北朝時代にこの地を治めていた千葉胤貞が築いたと伝わっている。

【遺構】
道の駅多古から北東800mに位置し、栗山川の東側にある比高20mの舌状台地に築かれている。
主郭には、文政年間に移行された千葉氏が信仰した妙見神社が祀られている。その周囲を、土塁、空堀、物見台が良好に残っている。主郭の東側は農地となって、遺構は全く残っていないが、「一の屋敷」「二の屋敷」があったと伝えられている。

【感想】
現在は、妙見神社を中心に空堀・土塁でがっつりと囲まれた単郭になっているが、地元の伝承にある一の屋敷、二の屋敷が東側にあることから、実際はもう少し大きな城であったのではないかと推測します。妙見神社の背後にある物見台は、妙見社より高く往時は多古の地をかなり見渡せたと思います。
妙見社もあるので、地元の方が整備されているので、空堀もほぼ自由に歩くことができます。南東側の空堀だけは、倒竹で全く進むことができませんが…

【アクセス】
道の駅多古から自転車で5,6分程度。
付近に駐車するスペースはありません。

【写真】
1:登城口
2:標柱
3:妙見神社
4:東側の土塁と空堀
5:物見台
6:空堀
7:分城の東側、一の屋敷・二の屋敷があったと伝わる

2021年01月24日 国府右京大夫城介
志摩城[多古城  周辺城郭]



千葉宗家滅亡の城

【歴史】
築城年等は不明。
享徳の乱において、古河公方派の宗家・千葉胤直が叔父の馬加康胤により攻められ、千葉宗家が滅亡した城となっている。この際に、廃城となった可能性がある。

【遺構】
道の駅多古の南1kmほどにある標高18mほどの独立上台地に築かれている。現在、周囲は水田となっているが、当時は沼地であり、それを天然の要害としていた。
塙台(東側)と二ノ台(西側)といわれる2つの独立した郭から構成されている。それぞれ広大な単郭であり、兵力は多く置けるが、防御的な遺構は乏しいが、塙台には枡形虎口が残っている。
現在は農林公園となっており、塙台・二ノ台ともほぼ農地となっている。

【感想】
道の駅多古からも島状の台地がはっきりと見え、当時は浮城であったことが伺えます。
城内はほぼ農地となっているが、地形自体はそのままの状態で残っており、城の大きさを伺い知ることができます。極めてシンプルな造りで、見所も枡形虎口くらいなので、見学自体は10分もかからずに見終えることができます。
ただ、この城で千葉宗家が滅亡したということで、千葉氏としての歴史を語る上では重要な城だと思います。

【アクセス】
道の駅多古から自転車で8分。
多古町で数少ない駐車場が完備されているお城です。

【写真】
1:説明板
2:塙台の枡形虎口
3:塙台の腰曲輪若しくは船着き場跡
4:標柱
5:八幡神社
6:二ノ台

2021年01月17日 国府右京大夫城介
多古藩陣屋[多古城  周辺城郭]



久松松平氏が治めた多古藩1万2千石の陣屋

【歴史】
多古藩は、江戸時代前期には保科正光や土方雄久などが藩主になっていた時期もあるが、直ぐに移封され廃藩となっている。その後、正徳3年(1713)に、久松松平氏である松平勝以によって立藩され、幕末まで松平氏が統治していた。
多古藩陣屋は、多古藩が立藩された正徳3年に築城され、明治維新後は多古藩県庁となり、明治6年に多古県廃止に伴い、競売に掛けられた。

【遺構】
多古藩陣屋は、現在の多古第一小学校の校庭にあった。
往時は、御殿、長屋、石垣、堀、朱塗りの橋などがあったが、現在は天神社の背後にある石垣のみが残っている。

【感想】
多古町にある城郭で唯一石垣がある城郭ではあるが、多古第一小学校正門脇にある天神社にしか遺構が残っていないのが残念で仕方がない。

【アクセス】
道の駅多古から自転車で5分。
多古第一小学校内にはトイレもあり、校庭まで行かなければ普通に入ることができる。

【写真】
1:多古藩陣屋の説明板
2:天神社
3:天神社背後の石垣
4:多古第一小学校正門脇にある石垣

2021年01月12日 国府右京大夫城介
並木城[多古城  周辺城郭]



水運の地・多古の要衝を守る城

【歴史】
南北朝代から戦国時代まで利用されていたとのこと。
築城者不明も、南北朝時代に北朝方に与した千葉(千田)胤貞が築城か。

【遺構】
道の駅多古の東側にある比高30mほどの台地の南端にある。
多古町にある城の中で、最も遺構の保存状態が良く空堀、土塁、枡形虎口、腰曲輪が残っている。
城は1郭から3郭の構造となっているが、見学できるのは1郭の部分となり、2郭・3郭は個人宅や畑となっています。
1郭の北側(現在の入口付近)から東側に掛けて、高い土塁と空堀で守られている。また、南東には二重の枡形虎口があり、本来はそこから南側の腰曲輪に降りていくことができたようではあるが、崩落があったのか、急傾斜となっており、腰曲輪へは立入禁止となっている。

【感想】
多古城郭保存活用会によって、綺麗に整備されており、遺構が非常に見やすく、随所に案内板もあるので分かりやすいです。
空堀や土塁の上を自由に歩くことができ、土の城を満喫することができます。
ただし、並木城は私有地のため、城内の畑や立入禁止となっている腰曲輪には入らないように気を付けてください。

【アクセス】
道の駅多古より自転車で10分程度。
南側からの登城口はないので、ぐるっと回って光明寺のある北側が入口となります。

【写真】
1:標柱
2:入口付近の二重土塁
3:守り側の視点からの1郭の虎口
4:東側の空堀
5:物見台付近の空堀
6:枡形虎口
7:腰曲輪
8:北西側の空堀

2021年01月12日 国府右京大夫城介
道の駅 多古[多古城  その他]



多古町周辺の城郭をリア攻めするのであれば、此処を拠点にすると便利です。

レンタサイクル(500円/日)は、電動で坂が多い多古町を移動するには楽だと思います。
貸出時間は、9時から16時(返却は17時まで)となっています。

あじさい館では、御城印も売られており、毎月新たな御城印が増えています。
(12月末で、多古城、志摩城、並木城、土橋城、玉造城、分城が販売)

公共交通機関でアクセスするのであれば、成田空港第2ターミナルビルからシャトルバスが出ています。それに乗って、終点の「道の駅多古」まで、約25分ほどで、運賃は300円(現金のみ)となっています。また、東京駅から高速バスもあります(令和3年1月現在、コロナの関係で運休している便が多いようです)

2020年12月26日 愛甲太閤【相模の狂人】
多古城



曲輪部分は北総ならどこにでも広がっているような丘の上の畑です。近年地元では町内の城郭整備に力を入れているようで、多古城も整備されて遺構が見やすくなりました。道の駅では御城印が手に入るようです。

目を惹く遺構は北端のL字に折れた広い箱堀と、南端の古墳を転用したらしい物見台と虎口、そして南西の端に抉られ北に登る空堀も忘れてはなりません。それぞれ離れていますが農道のような平坦な道を歩いて往来できます。全部見て歩いても30分くらいでしょうか。

多古城の周辺スポット情報

 多古陣屋説明板(碑・説明板)

 志摩城標柱、説明板(碑・説明板)

 並木城(周辺城郭)

 多古藩陣屋(周辺城郭)

 志摩城(周辺城郭)

 分城(飯土井城)(周辺城郭)

 水戸谷城(周辺城郭)

 多古出城(周辺城郭)

 次浦城(周辺城郭)

 土やぐら城(周辺城郭)

 物見台城(周辺城郭)

 松崎城(周辺城郭)

 久保城(周辺城郭)

 玉造城(南玉造砦)(周辺城郭)

 次浦八郎常盛館(周辺城郭)

 檜木城(周辺城郭)

 三倉城(周辺城郭)

 道の駅 多古(その他)

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