長沼城(ながぬまじょう)

長沼城の基本情報

通称・別名

所在地

千葉県成田市長沼字城ノ内499他

旧国名

下総国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

結城朝教

築城年

不明

主な改修者

主な城主

長沼氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

寺台城(千葉県成田市)[5.8km]
大台城(千葉県印旛郡)[6.4km]
松虫城(千葉県印西市)[10.1km]
前林城(千葉県成田市)[11.6km]
本佐倉城(千葉県印旛郡)[12.8km]
中沢城(千葉県富里市)[12.8km]
江戸崎城(茨城県稲敷市)[13.1km]
龍ケ崎城(茨城県龍ケ崎市)[13.2km]
神宮寺城(茨城県稲敷市)[14.3km]
師戸城(千葉県印西市)[14.6km]

長沼城の解説文

長沼城(ながぬまじょう)は、千葉県成田市長沼にあった日本の城。結城氏の一族長沼氏の居城であった。

概要
詳細な築城時期は不明だが、長沼朝教によって室町時代に築かれたとされる。

戦国時代にも長沼氏の居城として続いていたようである。近世以後については不明。

嘗ては、長沼という沼に半島状に突き出した台地であったが、現在、長沼は干拓され周辺は水田地帯となっている。

構造
天然の丘を生かした平山城で、単郭の中世城郭である。

遺構
主郭部分は現在城址公園となっており、碑が建てられている。周囲の藪にかすかに堀状の構造物や土塁の跡などが見られる。

長沼城の口コミ情報

2021年03月13日 国府左京亮城介
東和泉城[長沼城  周辺城郭]



大須賀氏一族の成毛氏の居城

【歴史】
築城年代は不明だが、戦国期に築城されたと推定されている。
築城者は不明ではあるが、戦国期にこの地を治めていた大須賀氏が築城か。
「東国闘戦見聞私記」によると、天正9年(1581)に滑川城の織田左京太夫に攻められ、時の城主・成毛八郎教胤は城に火を放ち自害している。
別名:日の出城

【遺構】
助崎城の南西2.6kmに位置し、荒海川の南にある比高20mほどの細長い台地にあります。
成田市内にあるお城では珍しい連郭式で、4つの郭で構成されています。土塁や土橋、各郭を区切る空堀など遺構はしっかりと残っている。また、Ⅲ郭には、千葉氏の城郭ではお馴染みの星神社があります。

【感想】
空堀等の遺構はかなり綺麗に残ってはいるのだが、Ⅲ郭を除き、ほぼ藪となっています。空堀内も藪になっており、一見郭間の移動が出来ないように見えますが、土橋があるので、それを利用して郭間を移動することができます。Ⅰ郭-Ⅱ郭間は両端に、Ⅱ郭-Ⅲ郭は中央に土橋があります。Ⅳ郭は、日暮れ間際で時間もなく全く探索していない。この周辺にあるいくつかの城郭を探索する際に、改めて探索してみようと思っています。
それまでに、少しは藪がなくなっているとありがたいです。改めて写真を見ると、藪で遺構がよく分からない状態になっているorz
また、成田市内の城郭では珍しく縄張り図付きの説明板があります。

【アクセス】
成田線・久住駅から徒歩25分。
東側と西側からそれぞれ登城することができるが、案内板があるのは県道64号線の東側だけです。

【写真】
1:東側の登城口
2:Ⅲ郭(右)-Ⅳ郭(左)間の堀切
3:説明板
4:Ⅲ郭にある星神社
5:Ⅱ郭-Ⅲ郭間の空堀にある土橋
6:Ⅰ郭-Ⅱ郭間にある空堀
7:西側の登城口

2021年03月12日 国府左京亮城介
名古屋城[長沼城  周辺城郭]



下総にもあります名古屋城

【歴史】
築城年代、築城者とも不明。
位置的に助崎城の支城で、大須賀氏が築城したと考えられる。
別名:城山

【遺構】
助崎城から北北東1.4kmの広大な台地が城域で、大部分は農地となっているが、曲輪、土塁、空堀などの遺構は一部残っている。
台地南東部にある1郭は空堀と土塁で区切られている。2郭はほぼ耕作地となっているが、所々不自然な段差が存在しているが、遺構かは不明である。1郭と2郭の間には、幅30mほどの空堀の跡らしきものがある。また、1郭に向かう途中にも、土塁と横堀で囲まれた曲輪が残っている。

【感想】
千葉にも名古屋城があります(笑) これは、「根古屋」がなまって「名古屋」になったようです。
さて、この名古屋城は台地全体がお城というかなり広大な城域ですが、ほぼ農地になっており、台地の南側部分に遺構が残っている状態です。
この城の見所は、1郭に向かう途中にある郭で、深さが5m程の横堀で囲まれており、その下には腰曲輪らしき場所もあったのですが、倒木・倒竹によって人の侵入を完全に拒んだ状態になっています。個人的な見解になりますが、この曲輪の土塁や横堀から、独立した3郭とも言える曲輪だったのではないかと推測したりしています。
余湖さんのHPでも書かれていますが、本当にアクセスの仕方が分かりにくいお城です。小御門神社のある西側からしか登城することができません。アプリの国土地理院の地図には、Google mapには表示されない道も表示されていますので、それを見ながら、登城することを推奨します。

【アクセス】
成田線・久住駅から徒歩で60分。
車の場合は小御門神社に駐車し、徒歩15分程度。

【写真】
1:3郭の土塁
2:3郭の空堀
3:2郭
4:1郭と2郭の間にある空堀跡
5:1郭の虎口
6:1郭

2021年03月12日 国府左京亮城介
小御門城[長沼城  周辺城郭]



藤原(花山院)師賢卿が配流された地

【歴史】
元弘2年(1332)頃か?
元弘の変において、後醍醐天皇が笠置山に入るため、身代わりとして比叡山に入った藤原(花山院)師賢公が下総に配流時の屋敷跡(十日屋敷)と伝わる。十日屋敷の由来は、師賢公がこの地に配流され、十日後に薨去されたからです。また、地名の由来である小御門(小帝)は、前述した後醍醐天皇の身代わりで比叡山で鎌倉幕府軍と戦った藤原師賢公のことを指しています。
その後の歴史は不明だが、現在の遺構からして戦国時代に改良され、大須賀氏の砦として用いられたと思われる。

【遺構】
助崎城の北北西1.3kmほどに位置し、小御門神社の南にある山林の中にあります。
台地の南端部にある三角おにぎり状の単郭で、土塁と空堀が明瞭に残っている。また、主郭内には藤原師賢公の記念碑があります
城の遺構ではありませんが、小御門神社(明治15年建立)は、建武中興十五社の一つで藤原師賢公が祀られています。神社内には、師賢公の墓と伝わる公家塚があります。

【感想】
土塁や主郭を囲う空堀など遺構の状態はよく、大須賀氏の居城である助崎城を守る出城の一つであることは十分に伺うことはできます。特に、南西側の空堀は薬研堀となっており、幅広な上、かなり深く、一番の見所だと思います。ただ、主郭の状態から推測すると、全く整備されていない訳ではないようだが、主郭の南側や空堀内は藪や倒木があり、藪漕ぎに慣れてない人にはやや厳しいかもしれません。
また、城の北側にある小御門神社は、それほど大きな神社ではありませんが、御祭神は災いから護ってくれる「身代わりの神様」なので、是非お参りしてみてください。

【アクセス】
成田線・久住駅から徒歩で60分。
車の場合は、小御門神社の駐車場を利用可。

【写真】
1:北側の土塁
2:主郭にある藤原師賢公の記念碑
3:北側の空堀
4:南西側の空堀
5:小御門神社
6:藤原師賢公の墓と伝わる公家塚

2021年03月04日 国府左京亮城介
荒海城[長沼城  周辺城郭]



大須賀氏の一族・荒見氏の居城

【歴史】
築城年代は不明(鎌倉時代初期か?)。
大須賀胤信(大須賀氏初代)の三男・胤村が荒海の地を領し、荒見氏と称した。

【遺構】
長沼城の南東1.6kmに位置し、荒海川と根名木川に挟まれた比高30mほどの台地に築かれている。
城の構造としては、方形単郭であり、周囲を腰曲輪で囲んでいる。主郭の南西部には、クランク状の虎口が明瞭に残されている。また、北と東の尾根を切断するように堀切があり、その東尾根上には物見台があります。
なお、地名は「あらうみ」だが、城名は「あらみ」と呼びます。

【感想】
主郭は完全に竹藪となっており、内部をほとんど確認することはできなかった。一方で、主郭部以外は里山としてある程度管理されており、多少の倒竹はあるが、歩きにくくはない。南西部の虎口をはじめ、2つの堀切など遺構はきっちりと残っています。
大須賀氏の本拠地である助崎城と比べると、あまり戦闘を意識した城の造りにはなっておらず、中世の居館の延長線上にあるお城というイメージを受けます。

【アクセス】
成田線・久住駅から徒歩20分。
登城口は子安神社の背後を直登するか、成田市荒海共生プラザの背後からとなります。共生プラザからのルートが登りやすいと思います。子安神社側は民家の脇にあるので、若干入りにくい感があります。

【写真】
1:登城口(子安神社側)
2:共生プラザの裏手に登城口があります
3:主郭南西部の虎口
4:堀切(東側)
5:堀切(北側)
6:東尾根上にある物見台

2021年03月02日 国府左京亮城介
幡谷城(要害城)[長沼城  周辺城郭]



助崎城の西を守る出城

【歴史】
築城年は不明だが、戦国時代には築城されている。
築城者は、大須賀(多部多)胤秀の子・幡谷民部胤盛。

【遺構】
助崎城の西・1.2kmにある比高30mの舌状台地に築かれている。単郭の構造ではあるが、台地自体が極めて急峻な地形になっており、天然の要害である。やや南側が緩やかなため、南側に堀切や土塁の跡らしきものが見受けられる。

【感想】
台地自体が天然の要害であるため、あまり手が加えられていない。しかし、登城口にあたる南側には堀切や土塁の跡と思われる場所があったが、道を造る際に改変や藪によって、はっきりとは分からなかった。また、主郭は完全に畑となっているが、かなり広いので、それなりの兵力は常駐でき、助崎城の出城としては十分だと考えられる。

【アクセス】
久住駅から徒歩で20分。
登城口は南側になり、道幅は狭いが城内に通じる舗装された道はあります。おそらく城内の畑仕事用に造られたものだと思います。

【写真】
1:標柱
2:登城口(右側が城内への道)
3:主郭の虎口
4:主郭
5:幡谷城遠景(南東側から)

2021年03月02日 国府左京亮城介
助崎城[長沼城  周辺城郭]



千葉六党の一つ助崎大須賀氏の居城

【歴史】
築城年代は諸説あり不明。小田原征伐後に廃城になったと思われる。
築城者は、千葉六党の一つ大須賀氏で、後に松子大須賀氏(本家)と助崎大須賀氏(分家)に分裂している。

【遺構】
尾羽根川の北にある比高20mほどの台地に築城されており、3つの郭から構成されている。
南端にある1郭は元々方形居館を戦国期に改良したのか、周囲を横堀で囲み、更に外側の土塁を高くすることで、深いところで10mほどの高さがある。また、北側は二重の空堀となっている。
1郭と2郭の間は、5,6mほどの切通(現在は道路)となっており、2郭自体はほぼ畑となっているが、西側には腰曲輪がある。3郭は、ほぼ藪と化しているが、高台に入るあたりに人一人が通れるほど虎口が残っている。北側にある乗願寺が大手門にあたる。
また、ここから南東1.4kmほどにある圓通寺には、助崎城が廃城時に東表門と大手門が移築されたと伝わっている。

【感想】
1郭を囲う横堀が圧巻で見応えがあります。深く幅広な横堀は戦国期の房総の城では、かなり珍しいと思います。史料等によると、大須賀氏は北条氏にかなりこき使われていたようで、結果として北条領内の城を見る機会には恵まれたようです。その成果が助崎城の横堀となったのかと思います。ただし、あまり整備されていなく横堀は藪や倒木で一周するのはほぼ不可能なのが残念でたまりません。1郭の南東部には、千葉氏ゆかりの妙見石仏がありますが、石灯篭が倒れっぱなしになっているのは…
助崎城の大手門にあたる場所にある乗願寺の住職は、国定忠治の子分である板割の浅太郎の養子の子孫にあたるとのことです。住職によると、昔は大須賀氏の法名が刻まれた梵鐘があったようですが、太平洋戦争時に供出してしまったそうです。 

【アクセス】
成田線・久住駅から徒歩で45~55分。
東表門と大手門がある圓通寺は助崎城から徒歩20分。

【写真】
1:標柱
2:1郭と2郭間の切通
3:1郭の横堀
4:1郭の妙見石仏
5:2郭の腰曲輪
6:3郭の虎口
7:伝東表門
8:伝大手門

2012年08月10日 *勘解由長官えぶぅ*
長沼城

なお、このサイトには登場しないものの、近くには『広の台城址』や『子の神城址』などもある(どちらも遺構はほとんど見られない模様)。

2012年08月10日 *勘解由長官えぶぅ*
長沼城

国道408号を利根川から南に向かうと出会う。成田方面からだと豊住の工業団地より少し先。城跡は公園になっているが、人もいないため心おきなく散策できる。城跡はとしてより明治時代の『長沼事件』についてを推しているようで少し残念であった。案内板に「眺望がなんちゃら」とあるのに主郭部の展望台からは枝で何も見えないのが残念でならない!もう少し整備して欲しいものである。

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