大台城(おおだいじょう)
大台城の基本情報
通称・別名
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所在地
- 千葉県印旛郡栄町安食大台地先
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
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築城主
- 依田因幡守
築城年
- 弘治2年(1556)
主な改修者
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主な城主
- 依田兵助
廃城年
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遺構
- 土塁、横堀(空堀)
指定文化財
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再建造物
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周辺の城
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長沼城(千葉県成田市)[6.4km]
松虫城(千葉県印西市)[7.1km]
龍ケ崎城(茨城県龍ケ崎市)[8.0km]
布川城(茨城県北相馬郡)[8.9km]
馴馬城(茨城県龍ケ崎市)[9.7km]
寺台城(千葉県成田市)[10.4km]
師戸城(千葉県印西市)[11.6km]
臼井城(千葉県佐倉市)[13.2km]
本佐倉城(千葉県印旛郡)[13.3km]
小坂城(茨城県牛久市)[13.8km]
大台城の口コミ情報
2024年07月25日 マグロ常陸介祐平
笠神城[大台城 周辺城郭]
小林城から南東に1㎞、南陽院が城址です。小林城主原肥前守の子の原豊前守が城主で、南陽院には備前守の位牌が伝わるようです。天正3年に布川の豊島氏に笠神城を攻められた仕返しに近隣の武士二千騎で布川城を攻めるも江戸崎城の土岐氏や小金城の高城氏に逆襲され、笠神城に退却、さらに攻められ龍腹寺に逃げるも寺は焼け、草深の要害でくい止めるも父の原肥後守は討死しています。
お城は、東側に山を削ったような切り通し風の虎口(写真2枚目)があり、本堂のある曲輪の北西部には虎口北側上部にあたる本丸があるようですが、入りづらい感じでした(写真1枚目)。本堂の南側の壇上には小さな曲輪があり、背後には深い堀切が見られます(写真5枚目)。お寺の正面はお城の搦手側になりますが、防衛的な構造は見られず、後世お寺のために改変されたものと思われます。
一旦、お寺を出て、南側にまわり、蘇羽鷹神社の石段を登った先の鳥居の場所は虎口(写真8枚目)になっており、その上段の神社付近は、見張り台のように感じられます。
2024年07月23日 マグロ常陸介祐平
城山城[大台城 周辺城郭]
原氏の居城である小林城から西に500mに位置するお城です。とにかく情報量が少なく、来歴等は不明ですが位置からして、小林城の出城でしょうか。千葉県の埋蔵文化財包蔵地地図では、中世・近世の城館とされているので、江戸時代の史跡でもあるようです。江戸時代初期、旗本永井氏・三宅氏・佐橋氏の相給地のようですので陣屋でも置かれたのでしょうか。
お城は、墓地となっており、土塁に囲まれ(写真1,2枚目)、北側に虎口が開口(写真4枚目)、虎口の土塁東側は見張り台のような高さで(写真5枚目)現在は小さな祠が建っています。南側の土塁の先には、高さがあり、手前は途切れて奥まで伸びる土塁(写真6枚目)が墓地を囲む土塁とは垂直方向に見られますが、すぐ先に鉄条網があり、探索できる雰囲気ではありません。縄張りは、つかみづらい感じです。
お城から500mほど北西の所には、巴塚と呼ばれる巴御前の墓があります(写真7,8枚目)。義仲の死後和田義盛の愛妾となり、和田合戦で義盛が敗死すると巴御前は尼となり、この地に隠れ住んだと伝わっています。伝承では、義盛と巴御前の子の朝比奈義秀もこの地に移り住み、8年間巴御前と暮らしましたが、追っ手を逃れて去っていき、残った義秀の次男川村秀景に養われてこの地で生涯を閉じたとされています。
2024年07月22日 マグロ常陸介祐平
平岡城[大台城 周辺城郭]
城主や歴史については不明のようですが、江戸時代に書かれた「常総軍記」に天正十三年(1585年)に牛久の岡見氏の家臣栗林氏と布川の豊島氏の家臣根本氏と遠藤氏が竹袋・平岡・小林・笠神・松虫の順に攻撃、印西勢は五百余騎で応戦して退けたとあることから、周辺の城同様に千葉氏方のお城だったようです。
成田線の踏切から東大寺に向う坂道の途中の左手に高さのあるコンクリートの土台があるところが、お城の入口です(わかりづらい)。少し進むと左側には曲輪と思われる広い削平地があり、その先は竪堀状の道(写真1,3枚目)となります。登りきると右側(南)は開けた畑、左側(北)は曲輪とがあり、その先に高さのある土塁(写真6枚目)が見られます。その奥は、コの字形の土塁に囲まれた八幡神社の鎮座する本丸(写真2,4,5枚目)となります。土塁の周りに横堀は見られません。本丸の東側にも連続して曲輪が並ぶようですが、薮化しており入りませんでした。
また、さらに西には浅間神社が鎮座する独立した砦とも思える曲輪があり、虎口風の構造(写真8枚目)や竪堀のような参道(写真7枚目)が見られます。
小さなお城ですが、遺構の状態は、比較的良好です。
2024年05月20日 マグロ常陸介祐平
大台城
弘治2年(1556年)依田因幡守により築かれ、天正2年(1574年)に落城したとされるお城です。出典は印旛郡誌(大正元年発刊、城の記述は僅か1行で出典の記載なし)以外に見当たらないように思われます。
お城は独立した台地で、大台城という名称の意味がよく分かります。
お城の大部分は中学校になっており、南西には駒形神社(写真4,5,6枚目)、南東と北東部分が畑で、南側の道路の縁に土塁状の土盛り(写真2,3枚目)が見られますが、遺構のようには思えません。駒形神社周辺もそれらしい雰囲気はありますが、明確な遺構は見ることができません。
城域の南東にある畑で作業をされていた方にお城について尋ねたところ、
・城主の依田氏に関しては聞いたことも無く、周辺に依田姓を名乗る者はいない。
・東側には小台と呼ばれる小山があったが今は消滅している。
・城の北東部には武者塚と呼ばれる塚(写真1枚目の奥、写っている土盛りはごみ捨て用の穴の残土)がありそばには下から登れる道もあったが竹林に飲み込まれ今は見ることが出来ない。
・大台には勝田氏、小台には大塚氏という昔からの有力者がいる。
といった話を聞くことが出来ました。
お話の内容を調べたところ、
・大台城周辺の寺院の由緒は全て不詳で依田氏に関するものは見当たらない(印旛郡誌で調べました)。
・武者塚は、戦死者を供養したものと伝承(駒形神社に石碑あり)があるものの実際は古墳、小台にも2基の古墳があった。
・小台の大塚氏はわかりませんでしたが、大台の勝田氏は応仁元年(1467年)に近江源氏佐々木氏流の勝田惣右衛門房清が上総国夷隅郡からこの地に入ったとされているようで(勝田・かつまた氏の歴史サイトを参照させていただきました)お城と関わりがあったかも知れません。
という感じでした。
大台城から100m程南には独立した小山(写真枚目7,8)に安食稲荷神社が祀られており、お城に関連するもののように感じましたが、調べても出てきませんでした。
2022年11月02日 FUKU
大台城
駒形神社と学校が跡地となっているようです🎵神社には生徒さん作成の物等飾られ地域密着を感じました。