前林城(まえばやしじょう)
前林城の基本情報
通称・別名
- 前林砦
所在地
- 千葉県成田市前林字城山
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 前林氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
飯櫃城(千葉県山武郡)[8.4km]
多古城(千葉県香取郡)[8.7km]
大崎城(千葉県香取市)[9.1km]
寺台城(千葉県成田市)[9.5km]
長沼城(千葉県成田市)[11.7km]
中沢城(千葉県富里市)[13.5km]
小見川城(千葉県香取市)[16.0km]
坂田城(千葉県山武郡)[16.1km]
阿波崎城(茨城県稲敷市)[16.4km]
本佐倉城(千葉県印旛郡)[17.5km]
前林城の口コミ情報
2023年02月09日 国府左京大夫城介
伊能城[前林城 周辺城郭]
矢作国分氏の重臣である伊能氏の拠城
【歴史】
室町時代中頃に伊能朝辰が築いた。
伊能朝辰の3代後の伊能景信(信月入道)は矢作城主の国分氏の後見人を務めていたが、永禄8年(1565)に正木時忠の下総侵攻により大崎城(矢作城)は落城した。その際に、主君である国分胤政と自身の息子らを逃して討ち死にした。
正木氏が下総から撤退すると、国分氏は大崎城を取り返しており、その頃に伊能景久(景信の子)は佐原郷を国分氏から賜っている。しかし、景久の跡を継いだ景常は国分氏に請い、佐原郷に帰農し、佐原村を発展させた。そして、景常の子孫である長由の娘婿となるのが、大日本沿海輿地全図を作製した「伊能忠敬」である。
【遺構】
前林城の北に約3.8kmに位置する舌状台地に築かれている。
南北300m・東西150mとこの地域ではかなり広く、複数の曲輪が配置されている。台地の北側の先端部分は国道造成に伴い削られていたり、畑や墓などがあるが、遺構の残存具合は良好で、曲輪群、横堀、虎口、土塁、櫓台、連続阻塁などがある。主郭は一番北側の曲輪で、現在は畑となっている。
【感想】
北総方面のお城では、以前から訪れてみたかった城の一つで、ようやく訪れることが出来ました。特段、城として整備されている訳ではないですが、畑やお墓があるため、通路はある程度整備されています。しかし、通路から外れると倒木や藪がありますが、それほど激しいものではないので、探索自体は容易です。
城の規模は、この地域ではかなり大きな部類に入り、近くに松子城(松子大須賀氏の居城)があることから、国分氏と大須賀氏の境目の城の役割を担っていた可能性もあります。当初は主郭部分だけであったが、状況に応じて南側へ増築していったらしく、曲輪が複雑に配置されるという状態になっています。
見所としては、南側の登城口近くにある整えられた曲輪群や、南西端にある横堀、西側にある連続阻塁がお薦めです。
【アクセス】
成田駅からバスで「佐原粉名口車庫」行きに乗り、「伊能東」で下車し、徒歩5分。
【写真】
①遠景
②南側の曲輪群
③大手道
④横堀と櫓台(右側)
⑤連続阻塁
⑥郭Ⅲ脇の堀切道
⑦主郭
⑧主郭の切岸
2018年02月10日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
前林城
前林氏
前林氏については調べても詳しいことは分からなかった。妙見神社の存在と、前林の北には大須賀氏の本城松子城があったということから、前林氏は千葉氏、特に大須賀氏の一族であったのではないかとみられている。前林氏の内、唯一、個人について分かったのが、前林志摩守である。戦国末期の人物で医王院の大檀那を務めた。後北条氏に属していた為、小田原の役の際に北条方として参戦、前林城は落城し、志摩守は自害したという。しかし、医王院の牌によれば、医王院の大檀那である志摩守が没したのは1578年で小田原の役の12年前であるので、自害したというのは間違いか、次代の前林氏当主(志摩守?)が自害したものと思われる。松子城主大須賀弥六常安が小田原に参陣し、そこで没しているため、仮に自害が事実であったとしたら、前林氏当主の自害は大須賀常安に殉じたものであった可能性が考えられる。
2018年02月10日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
前林城
前林の集落
前林館は台地の北端にある。館の南の台地上は住宅地となっているが、ここは古くからの前林の集落があったらしい。前林の地名は、すでに南北朝初期に「金沢文庫古文書」中に見られるそうで、その頃から集落があったと考えられる。南には諏訪神社がある。ここの拝殿は拝殿を兼ねた舞台であったそうで、戦後もしばらくの間、芸能大会、映画会、地方巡業の買芝居などに使用されていたという。「房総のむら」に復元建設されているので、いつか見に行きたいと思う。大須賀川西対岸には大永二年(1522)開山の医王院がある。前林志摩守が大檀那であったことから、前林城主の前林氏と深い関係があったことが伺える。「大栄町史 通史編」によれば、妙見神社の妙見菩薩像台座框裏には明治期の施人に関わる銘があり、医王院十九世と書かれているそうで、医王院と妙見神社の関係が見える。医王院の南には愛宕神社があるが、ここも寺域であったそうだ。
2018年02月10日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
前林城
前林城について調べてみると、前林城のあった場所付近には城が二つあったということが分かった。一つはマップ上にある前林館(字ミジョウ)、もう一つは前林館の台地を北側に降りた先の台地上にあった前林城(字城山)である。しかし、前林城があった台地は成田空港建設時に土取りにあったらしく、今は跡形もない。国土地理院地図の61~64年空中写真を見ると、台地が確認できる。悲しい事だが、これもまた歴史。気を取り直して前林館を見る。妙見神社と道を挟んだ向かい側が、館のあった場所とされる。台地の斜面に切岸を設けただけの2郭の城館であったと見られるが、更に北側の斜面や妙見神社部分にも遺構のようなものが見られるため、もっと複雑な城郭だったのかも知れない。そうだとすると、前林城と前林館の関係が気になる。城郭絵図を多数描いている余湖氏は前林館が本来の居館で戦国期に籠城のために築いたのが前林城ではないかと見ている。
2016年10月30日 まー刑部卿
前林城
先人も云われているように道幅狭くなおかつ妙見社過ぎるとUターンも出来ません。駐車場なし。そのため愛宕神社向かいの空き地に駐車して歩いて行かれると良いです。愛宕神社境内は鎖がしてあり駐車は出来ません。
2016年02月13日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
前林城
妙見社までの道筋には民家もあるが、周辺の道はかなり狭い。
妙見社の鳥居が目印となり、鎮座する場所も曲輪と言える。
鳥居前の道を下りていく切通しのような鬱蒼とした道筋の左右には土塁や堀址と思われる竹林が残る。
妙見社が祀ってあることから千葉氏の一族に由来する城と思われる。