前林城(まえばやしじょう)
前林城の基本情報
通称・別名
- 前林砦
所在地
- 千葉県成田市前林字城山
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 前林氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
飯櫃城(千葉県山武郡)[8.4km]
多古城(千葉県香取郡)[8.7km]
大崎城(千葉県香取市)[9.1km]
寺台城(千葉県成田市)[9.5km]
長沼城(千葉県成田市)[11.7km]
中沢城(千葉県富里市)[13.5km]
小見川城(千葉県香取市)[16.0km]
坂田城(千葉県山武郡)[16.1km]
阿波崎城(茨城県稲敷市)[16.4km]
本佐倉城(千葉県印旛郡)[17.5km]



































前林城の口コミ情報
2025年04月06日 マグロ常陸介祐平
伊能城[前林城 周辺城郭]
伊能忠敬(養子ですが)の先祖、伊能朝辰が築城したと伝わるようです。伊能家の先祖書によると、先祖の出身地は大和高市郡西田庄で(藤原姓)、大同2年(807年)に平城天皇の勅命により大須賀に下向、頼朝が幕府を開くと大須賀胤信が大須賀の地に入った為、所領は僅かとなり、戦国時代になると伊能の地に砦城を築き、伊能壱岐の代に佐原に移ったとしています。伊能城は、大須賀氏の本城松子城から2kmも離れていませんが、伊能氏は5キロkm以上離れた国分氏の重臣でした。 廃城時期は分かりませんが、伊能氏は天正期には重臣として矢作城に詰めていたようです。国分氏も大須賀氏も後北条氏の傘下であり、境目の城としての意味は無くなっていたのかもしれません。伊能氏のその後については、先人様が口コミが詳しいです。
城域は広さがあり、3つの郭をメインとして、周りを複数の細かい郭で構成しています。郭間の移動は狭い堀底や切通しとなっており(1郭と2郭は結構離れています)、大軍で攻めづらい構造となっています。
南西部には、畝状竪堀が見られるようですが(先人様が写真を投稿)、見落としてしまいました。
2025年04月04日 マグロ常陸介祐平
南敷城[前林城 周辺城郭]
「なじきじょう」と読みます。城主や来歴は不明のようです。松子城から東に2km強、伊能城から僅か500m程の距離に位置します。矢作(大崎)城からは約5km離れていますが、伊能城同様に国分氏の傘下と思われます。お城の麓に建つ観音堂(写真2枚目)の裏には、国分氏の支族と思われる府馬氏のお墓がありますが(江戸時代以降)、関係するのでしょうか。
お城は南東側に郭内が民家となっているやや広めの2郭があり、西側は空堀(写真6,7枚目)や空堀から上がる虎口(写真8枚目)が見られます。東側にも空堀があるようですが、民家の裏のため確認出来ていません。北西側が主郭で、五所神社(写真5枚目)が鎮座しています。参道の石段から登った鳥居付近が虎口状(写真4枚目)になっていますが、後世のものかもしれません。主郭の北側は薮ですが、西側には空堀(写真3枚目)が見られます。また、北側の車道から城域に入る部分も虎口状の形状(写真1枚目)が見られます。
観音堂と公民館のある石段の入り口付近には切通しの痕跡が見られますが、2郭に向かう古道の跡かもしれません。
2025年04月02日 マグロ常陸介祐平
塙城[前林城 周辺城郭]
大須賀氏の本城である松子城を囲む支城群の1つで、松子城から北東に僅か500mに位置します。城主は塙丹波守の可能性があるようです。麓にある宝応寺(写真4枚目)は大須賀宗家歴代の墓がある菩提寺で、20代当主の大須賀政氏は、江戸時代になるとこのお寺に居住したとされているようです(千葉一族のサイト参照)。
お城には、宝応寺すぐ北から切通しを登ります(写真2,6,7枚目)。登りきった所から細い平坦な道(写真3枚目,倒木多い)を北に進むと耕作放棄地のようなやや広い削平地となります。途中に堀切などはありませんが、この削平地が本丸のようです。本丸を囲む土塁などは見られませんが、北側には塚(写真8枚目,古墳?)があり、2つの小さな石の祠が祀られています。右側の祠には「塙丹波神 八幡宮」(写真1枚目)と彫られており、城主とされる塙丹後守が祭神として祀られてることがわかります。
余呉さんの縄張り図を見ると、さらに奥には複数の曲輪があるようですが、激薮(写真7枚目)の為断念しました。
宝応寺には、大須賀氏の墓、中野城主木内壱岐守の墓の他にも神保氏張と子の氏長のお墓があるようです。氏張は能登七尾城主畠山義隆の子とされ、越中の豪族神保氏の養子に入ったとされており、織田信長の妹を妻とし、戦場で早世した子の氏則は佐々成政の娘が妻で、氏張の妹は長連龍に嫁いでいます。主君の佐々成政切腹後は浪人するも、後に家康に仕え、周辺に二千石を与えられたことから宝応寺を墓所としたようです。当日は墓地を探索しましたが、神保氏の墓があることを知らず、スルーしてしまいました。再訪したいお寺です。
2025年04月01日 マグロ常陸介祐平
奈土城[前林城 周辺城郭]
大須賀氏の本城である松子城を囲む支城群の1つで、松子城から北に約1km、久井崎城から東に約400mに位置します。江戸時代に書かれた戦記物には、大須賀氏の一族荒海左右衛門(荒海城主、ライバルの助崎大須賀氏の家臣?)が立てこもり、栗林義長に攻められ落城したされいるようです。
お城には、共同墓地脇のかなりの急斜面の愛宕大権現の参道を登って入城します(写真7,3枚目)。先の尖った台地の先端で、左右は崖となっています(写真6枚目)。神社の奥の本丸はかなりの竹薮で(写真4,5,8枚目)、竹薮を抜けるとかなり薄めの溝が見られます(写真2枚目)。この辺まで進むと、付近の傾斜は、崖という感じではない状態となっており、溝は堀切の痕跡とは思えないものですが、台地の削平地は続いていますが、ここまでが城域なのかもしれません。明確な城郭的な構造は、見られませんでした。
お城というよりは、簡易的な砦のような感じでした。
2025年03月31日 マグロ常陸介祐平
久井崎城[前林城 周辺城郭]
大須賀氏の本城である松子城を囲む支城群の1つで、松子城から北に約1km、中野城から約800m東に位置します。城主は、大須賀氏の一族成毛氏とされています。
お城は250×150m程の範囲に4つの曲輪で構成されていたようですが、土取りの為、消滅しています。跡地には、お城の守護神だったとされる宇迦神社(稲荷系)が鎮座し、周囲には土塁の痕跡のような土盛りも見られますが(写真4,6,7枚目,紛らわしい)、削られた台地に建つようです。
発掘調査では、40棟以上の掘立柱建物が検出され、灯明皿として使用されたカワラケなどが出土していることから、大須賀氏の家臣が日常的に詰めていたと考えられているようです。
2025年03月30日 マグロ常陸介祐平
中野城[前林城 周辺城郭]
大須賀氏の本城である松子城を囲む支城群の1つと思われます。軍記物では木内壱岐守が城主で、栗林義長の家臣の菅谷左衛門に攻められ降伏したと書かれているようです。城域には星宮神社(写真1,4枚目,同名の神社は妙見関係のものが多い)が鎮座しており、大須賀氏同様に千葉氏の一族が関係していたのがわかります。
お城は、複数の小さめの曲輪で構成されており、神社東側の5郭には虎口が付き(写真2,5枚目)、神社の西から北の上段の2郭の西側には土塁が見られます(写真8枚目)。2郭と堀切(写真6枚目,現状車道)で仕切られた一段高台の主郭(写真7枚目)に、土塁は見られません。2郭の西側には林道の北側に小く飛び出した場所があり、どうやら馬出のようです。
中野城から300m程南には、葛生氏が城主とされる津富浦城がありますが、周りをうろつくも入り口が見つからず、断念しました。
2023年02月09日 国府左京大夫城介
伊能城[前林城 周辺城郭]
矢作国分氏の重臣である伊能氏の拠城
【歴史】
室町時代中頃に伊能朝辰が築いた。
伊能朝辰の3代後の伊能景信(信月入道)は矢作城主の国分氏の後見人を務めていたが、永禄8年(1565)に正木時忠の下総侵攻により大崎城(矢作城)は落城した。その際に、主君である国分胤政と自身の息子らを逃して討ち死にした。
正木氏が下総から撤退すると、国分氏は大崎城を取り返しており、その頃に伊能景久(景信の子)は佐原郷を国分氏から賜っている。しかし、景久の跡を継いだ景常は国分氏に請い、佐原郷に帰農し、佐原村を発展させた。そして、景常の子孫である長由の娘婿となるのが、大日本沿海輿地全図を作製した「伊能忠敬」である。
【遺構】
前林城の北に約3.8kmに位置する舌状台地に築かれている。
南北300m・東西150mとこの地域ではかなり広く、複数の曲輪が配置されている。台地の北側の先端部分は国道造成に伴い削られていたり、畑や墓などがあるが、遺構の残存具合は良好で、曲輪群、横堀、虎口、土塁、櫓台、連続阻塁などがある。主郭は一番北側の曲輪で、現在は畑となっている。
【感想】
北総方面のお城では、以前から訪れてみたかった城の一つで、ようやく訪れることが出来ました。特段、城として整備されている訳ではないですが、畑やお墓があるため、通路はある程度整備されています。しかし、通路から外れると倒木や藪がありますが、それほど激しいものではないので、探索自体は容易です。
城の規模は、この地域ではかなり大きな部類に入り、近くに松子城(松子大須賀氏の居城)があることから、国分氏と大須賀氏の境目の城の役割を担っていた可能性もあります。当初は主郭部分だけであったが、状況に応じて南側へ増築していったらしく、曲輪が複雑に配置されるという状態になっています。
見所としては、南側の登城口近くにある整えられた曲輪群や、南西端にある横堀、西側にある連続阻塁がお薦めです。
【アクセス】
成田駅からバスで「佐原粉名口車庫」行きに乗り、「伊能東」で下車し、徒歩5分。
【写真】
①遠景
②南側の曲輪群
③大手道
④横堀と櫓台(右側)
⑤連続阻塁
⑥郭Ⅲ脇の堀切道
⑦主郭
⑧主郭の切岸
2018年02月10日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
前林城
前林氏
前林氏については調べても詳しいことは分からなかった。妙見神社の存在と、前林の北には大須賀氏の本城松子城があったということから、前林氏は千葉氏、特に大須賀氏の一族であったのではないかとみられている。前林氏の内、唯一、個人について分かったのが、前林志摩守である。戦国末期の人物で医王院の大檀那を務めた。後北条氏に属していた為、小田原の役の際に北条方として参戦、前林城は落城し、志摩守は自害したという。しかし、医王院の牌によれば、医王院の大檀那である志摩守が没したのは1578年で小田原の役の12年前であるので、自害したというのは間違いか、次代の前林氏当主(志摩守?)が自害したものと思われる。松子城主大須賀弥六常安が小田原に参陣し、そこで没しているため、仮に自害が事実であったとしたら、前林氏当主の自害は大須賀常安に殉じたものであった可能性が考えられる。
2018年02月10日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
前林城
前林の集落
前林館は台地の北端にある。館の南の台地上は住宅地となっているが、ここは古くからの前林の集落があったらしい。前林の地名は、すでに南北朝初期に「金沢文庫古文書」中に見られるそうで、その頃から集落があったと考えられる。南には諏訪神社がある。ここの拝殿は拝殿を兼ねた舞台であったそうで、戦後もしばらくの間、芸能大会、映画会、地方巡業の買芝居などに使用されていたという。「房総のむら」に復元建設されているので、いつか見に行きたいと思う。大須賀川西対岸には大永二年(1522)開山の医王院がある。前林志摩守が大檀那であったことから、前林城主の前林氏と深い関係があったことが伺える。「大栄町史 通史編」によれば、妙見神社の妙見菩薩像台座框裏には明治期の施人に関わる銘があり、医王院十九世と書かれているそうで、医王院と妙見神社の関係が見える。医王院の南には愛宕神社があるが、ここも寺域であったそうだ。
2018年02月10日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
前林城
前林城について調べてみると、前林城のあった場所付近には城が二つあったということが分かった。一つはマップ上にある前林館(字ミジョウ)、もう一つは前林館の台地を北側に降りた先の台地上にあった前林城(字城山)である。しかし、前林城があった台地は成田空港建設時に土取りにあったらしく、今は跡形もない。国土地理院地図の61~64年空中写真を見ると、台地が確認できる。悲しい事だが、これもまた歴史。気を取り直して前林館を見る。妙見神社と道を挟んだ向かい側が、館のあった場所とされる。台地の斜面に切岸を設けただけの2郭の城館であったと見られるが、更に北側の斜面や妙見神社部分にも遺構のようなものが見られるため、もっと複雑な城郭だったのかも知れない。そうだとすると、前林城と前林館の関係が気になる。城郭絵図を多数描いている余湖氏は前林館が本来の居館で戦国期に籠城のために築いたのが前林城ではないかと見ている。
2016年10月30日 まー刑部卿
前林城
先人も云われているように道幅狭くなおかつ妙見社過ぎるとUターンも出来ません。駐車場なし。そのため愛宕神社向かいの空き地に駐車して歩いて行かれると良いです。愛宕神社境内は鎖がしてあり駐車は出来ません。
2016年02月13日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
前林城
妙見社までの道筋には民家もあるが、周辺の道はかなり狭い。
妙見社の鳥居が目印となり、鎮座する場所も曲輪と言える。
鳥居前の道を下りていく切通しのような鬱蒼とした道筋の左右には土塁や堀址と思われる竹林が残る。
妙見社が祀ってあることから千葉氏の一族に由来する城と思われる。