伊能城

伊能城([前林城  周辺城郭])

前林城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「伊能城」の地図・口コミがご覧頂けます。

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伊能城の口コミ情報

2025年04月06日 マグロ常陸介祐平


伊能忠敬(養子ですが)の先祖、伊能朝辰が築城したと伝わるようです。伊能家の先祖書によると、先祖の出身地は大和高市郡西田庄で(藤原姓)、大同2年(807年)に平城天皇の勅命により大須賀に下向、頼朝が幕府を開くと大須賀胤信が大須賀の地に入った為、所領は僅かとなり、戦国時代になると伊能の地に砦城を築き、伊能壱岐の代に佐原に移ったとしています。伊能城は、大須賀氏の本城松子城から2kmも離れていませんが、伊能氏は5キロkm以上離れた国分氏の重臣でした。 廃城時期は分かりませんが、伊能氏は天正期には重臣として矢作城に詰めていたようです。国分氏も大須賀氏も後北条氏の傘下であり、境目の城としての意味は無くなっていたのかもしれません。伊能氏のその後については、先人様が口コミが詳しいです。

城域は広さがあり、3つの郭をメインとして、周りを複数の細かい郭で構成しています。郭間の移動は狭い堀底や切通しとなっており(1郭と2郭は結構離れています)、大軍で攻めづらい構造となっています。

南西部には、畝状竪堀が見られるようですが(先人様が写真を投稿)、見落としてしまいました。

2023年02月09日 国府左京大夫城介


矢作国分氏の重臣である伊能氏の拠城

【歴史】
室町時代中頃に伊能朝辰が築いた。

伊能朝辰の3代後の伊能景信(信月入道)は矢作城主の国分氏の後見人を務めていたが、永禄8年(1565)に正木時忠の下総侵攻により大崎城(矢作城)は落城した。その際に、主君である国分胤政と自身の息子らを逃して討ち死にした。
正木氏が下総から撤退すると、国分氏は大崎城を取り返しており、その頃に伊能景久(景信の子)は佐原郷を国分氏から賜っている。しかし、景久の跡を継いだ景常は国分氏に請い、佐原郷に帰農し、佐原村を発展させた。そして、景常の子孫である長由の娘婿となるのが、大日本沿海輿地全図を作製した「伊能忠敬」である。

【遺構】
前林城の北に約3.8kmに位置する舌状台地に築かれている。
南北300m・東西150mとこの地域ではかなり広く、複数の曲輪が配置されている。台地の北側の先端部分は国道造成に伴い削られていたり、畑や墓などがあるが、遺構の残存具合は良好で、曲輪群、横堀、虎口、土塁、櫓台、連続阻塁などがある。主郭は一番北側の曲輪で、現在は畑となっている。

【感想】
北総方面のお城では、以前から訪れてみたかった城の一つで、ようやく訪れることが出来ました。特段、城として整備されている訳ではないですが、畑やお墓があるため、通路はある程度整備されています。しかし、通路から外れると倒木や藪がありますが、それほど激しいものではないので、探索自体は容易です。

城の規模は、この地域ではかなり大きな部類に入り、近くに松子城(松子大須賀氏の居城)があることから、国分氏と大須賀氏の境目の城の役割を担っていた可能性もあります。当初は主郭部分だけであったが、状況に応じて南側へ増築していったらしく、曲輪が複雑に配置されるという状態になっています。

見所としては、南側の登城口近くにある整えられた曲輪群や、南西端にある横堀、西側にある連続阻塁がお薦めです。

【アクセス】
成田駅からバスで「佐原粉名口車庫」行きに乗り、「伊能東」で下車し、徒歩5分。

【写真】
①遠景
②南側の曲輪群
③大手道
④横堀と櫓台(右側)
⑤連続阻塁
⑥郭Ⅲ脇の堀切道
⑦主郭
⑧主郭の切岸

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