中居城(なかいじょう)
中居城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 茨城県鉾田市中居字城の内1273他
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 中居(鹿島)時幹
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 中居氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(中居城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
津賀城(茨城県鹿嶋市)[5.3km]
小高城(茨城県行方市)[9.7km]
徳宿城(茨城県鉾田市)[11.9km]
鹿島城(茨城県鹿嶋市)[13.7km]
島崎城(茨城県潮来市)[13.9km]
芹沢城(茨城県行方市)[14.2km]
阿波崎城(茨城県稲敷市)[20.0km]
宍倉城(茨城県かすみがうら市)[21.5km]
松川陣屋(茨城県東茨城郡)[22.3km]
神宮寺城(茨城県稲敷市)[22.8km]
中居城の口コミ情報
2026年04月11日 里のシロクマ木工頭
相賀城[中居城 周辺城郭]
3月30日 訪城
竜翔寺を目指していたが、八幡神社の前の道路脇にスペースがあったので農作業をしていたご婦人に車を止めていても大丈夫か聞いて駐車。参道の石段を登る。参道が途中から竪堀の堀底道を登るような感じになる。登りきると参道は横移動(腰曲輪のように感じられる)その先には竪堀が降っている。竪堀を過ぎると今度は横堀となり主郭を回り神社の裏手まで続く。この堀は主郭と二の廓の間で竪堀となり竜翔寺へ降って行く、堀は倒木に埋まりながらも規模は大きい。
主郭へ登ると目の前に行く手を難む様に土塁が現れる。境内に入り八幡神社へ参拝し、主郭を見て回る。主郭南側の下に曲輪があり降りると曲輪の中に竪堀があった。
二の郭に入る。郭内は凹凸があり浅いへこみかあり、何の跡なのか?この郭はどの様に使われていたのか、不思議な郭だ。もっと不思議なのが二の郭と三の郭間に、二の郭に対して虎口が土塁により造られている、二の郭にたいして横に続く土塁は東に降りて続いている、竪堀もまた降りて続いている、途中で蛇行しながら続いている。この郭は三角形の形の狭い空間だ。三の郭へ進む、三の郭は左右に道が分かれている。右手の道を進む。三の郭と四の郭の間の堀が現れる、この先の四の郭は草に覆われている。堀は浅いが草に行く手を遮られて断念する。
分岐に戻り左手の道を進む、三の郭に入ると御堂が現れる、神社の裏には土塁が郭の東端まである。
三の郭を出ると浅い堀がありその先には四の郭がある、四の郭は下草に覆われているが踏み跡をたどり、案内板にたどり着いた。
相賀城は、堀土塁を多様し、山城の雰囲気、謎の多い、私の好きな土の城でした。地理院地図に郭、土塁、堀を落とし込み、2日目の城巡りは終了。
2026年04月10日 里のシロクマ木工頭
札城[中居城 周辺城郭]
3月29日訪城
安福寺にナビを設定、公民館脇に駐車。ちょうど墓参に来られたご婦人にご挨拶する。東側の山がお城だ!
墓地の間の堀底道を進む。分岐になり、右手に見える普門寺側の崖が気になり堀底道を直進する、堀底道がと切れ下草に覆われ広場に出る。
分岐に戻り、松尾神社を目指す台状の郭を右手に左手下には、公民館が見える。右手の郭が途切れ、次の郭との間に堀が現れ、さらに進むと郭が途切れ土塁との間にまた堀が現れる。そして目の前に松尾神社がある郭が現れる。この城も崖端を利用し、大土木工事にて造られいるのだろう。松尾神社に参拝。
2026年04月09日 里のシロクマ木工頭
山田城[中居城 周辺城郭]
3月29日 訪城
ナビを八坂神社に設定。住宅街の中に公園があり駐車。公園の北側には鬱蒼とした丘。その丘が城郭跡。八坂神社と住宅の間に羽黒神社や三峯神社の参道がある。参道は途中から堀底道の様になりさらに進む。右手、東に小径があり登ると上は墓地になっている。何か小さな郭の様にも見える。
参道に戻りさらに進むと前方に廃屋が見える。廃屋の後ろは藪状態。参道は左に折れ登ると削平された場所になる、北側は藪状態。中央に櫓台の様な土盛りがあり神社がある。藪が払われているのはここまで他は、藪に覆われている、西側の竹藪はどうにか進入でき堀を確認。北側にある、この城の見どころの堀切と土塁が見られず残念。この後は札城を目指します。
2026年04月09日 里のシロクマ木工頭
内宿館[中居城 周辺城郭]
3月29日訪城
木崎城の後、内宿館(自性寺)にナビを設定。県道184号線から自性寺へ、切り通しの道を進むと前方に土橋状の道、その先には、土の壁を切り取った様な道が続く。この内宿館も台地の先端を巧みに利用している。
道の右手は平場があり、左手は土塁の土の壁が続く、土塁の切れ目が境内の入り口(虎口)を進み駐車。此処も大変広い、周りを土塁に囲まれていて館ではなく城の造りですね!駐車場から本堂、鐘撞堂、山門が見える。よくぞ残っていたものですね!お寺さんなので早々に退散。この後は山田城へ向かいます。
2026年04月08日 里のシロクマ木工頭
木崎城[中居城 周辺城郭]
3月29日 訪城 国道354号線から香取神社への参道を中心に城構えされている、舌状台地を利用した土の城。国道入り口に標識がある。参道の道を進むと両側に土塁が見える、香取神社鳥居まで来ると鳥居の横に説明板があるが、先ずは参拝。
説明板によると甲斐の武田氏の一族、武田通信が築城。東、西、北が深田に囲まれて、水壕の役割を果たしその中央を武田川が北浦に向かってながれる。南は台地より舌状に張り出した高台で自然を利用した要害地となっている、連郭式の平丘である。築城完成とともに城内に守護神として香取神社を建立したとある。
国道から入って来る時見た土塁まで歩き土塁を見上げる、高さもありどっしりとした土塁と堀が仕切り板の向かうに垣間見える。国道に出て東側を歩き城の南端を見るが民家と林により確認できない。
香取神社へ戻ろうと城内へ進む、東側には工場の建物が見える、神社手前の西側には廃屋が見える、西側の一段下がった所で農作業をしている人がいたので声をかけると「城を見に来たんかい、それなら案内してやるよ!」と付いて行くと土塁と堀のあった、仕切り板の所に行き「ここは俺の土地だから好きに見てくれば良い!」と言い案内してくれた。
堀底を東に行くにつれ深くなってくる、すると堀を遮ぎるように土塁(土橋)が現れて階段がある、階段を降りてさらに進むと左手の土塁に出っ張りがある、横矢掛けの造りだ!堀の端にも土塁があり階段がある、登って下を見ると崖端となっていた。地主の方感謝しつつ、香取神社に戻る。
説明板の所から堀底を西に進むも倒木があり神社側に登る境内に土盛が二つ、堀は神社を取り囲む様になっているが東南の部分が埋まっていて消えている。
神社の東側の堀や郭は竹藪に覆われていて断念。
今回は規模の大きい堀や土塁が見られて感謝です。
この後は、内宿館へ向かいます。
2026年01月06日 昌幸近江守更に吉
相賀城[中居城 周辺城郭]
行方(なめがた)市の相賀(おうが)城。
東に北浦、西に雁通川に囲まれた高台にあります。平安末期に逢賀(おうが)太郎幹元が逢賀城を築いたのが最初で、荒廃した城を戦国末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建してから相賀城と呼ばれるようになりました。
北条方についた近隣の小高氏と争い、相賀入道の婿の彦四郎詮秀が討死したりと常に佐竹方に組していましたが、佐竹氏のいわゆる“南方三十三館誅殺事件”で手賀三郎四郎も巻き込まれ手賀(相賀)氏は滅亡してしまいます。
縄張りは4つの郭が深い堀で隔てられており、ともすれば一城別郭と思えるほど大きな城です。I郭には八幡神社、Ⅲ郭には祠があります。II郭は土塁が確認できるが薮化、Ⅳ郭は土塁で区切られていましたが畑化のため破砕、さらに現在は耕作放棄地となっており、多少荒れているところもあります。
麓に相賀氏の菩提寺である龍翔寺があり、そちらに車を停めさせてもらいました。
【写真の説明】
①I郭横堀
②I郭の横堀同士が交わり竪堀となる
③I郭は坂虎口を設ける
④I郭-II郭間の堀切
⑤II郭-Ⅲ郭間の二重堀切
⑥Ⅲ郭横堀もしくは段郭の遺構
⑦Ⅲ郭-Ⅳ郭間の堀切。竪堀となり下った所から
⑧耕作放棄地となったⅣ郭
2025年12月20日 昌幸近江守更に吉
山田城[中居城 周辺城郭]
行方(なめがた)市の山田城。
北浦東岸の山田の津を守るため、比高30mの台地に築かれました。
室町時代、山田一帯は小高氏の知行地でしたが、後に一族の山田氏に受け継がれ支配していました。天正12(1584)年の沼尻の戦いには、鉄砲隊として佐竹陣営に参加しています。佐竹氏は天正19(1591)年、南方三十三館の城主たちを滅ぼしましたが、山田氏もその中の一人とされています。
縄張りですが郭は2つで、主郭は五角形で南東に天守台があり、現在は神社が祀られています。副郭は主郭の南側を守ります。
主郭の北側は傾斜が緩やかだったため、3重の堀を張り巡らせ守りを厳重にしています。また堀同士を繋ぐため虎口を造り、堀底を通り往来できるようになっているのも面白い点です。
車は円満寺を目指し、右隣の保育園跡地に駐車可能、約5分ほどで主郭に着きます。
この城はやはり堀を見なければ始まらない!
倒竹を潜りながら堀底探索をしてみたい方、是非山田城へお越しを。
【写真の説明】
①副郭から主郭の天守台を見る
②副郭西の堀
③主郭周りの堀(北西)
④虎口により繋がった2つの堀
⑤主郭北東の堀1
⑥北東尾根に繋がるところに謎の窪み。これが7つ連なる
⑦主郭北東の堀2。土橋が架かる
⑧主郭北の堀
2025年12月01日 千葉相模守早雲
相賀城[中居城 周辺城郭]
白浜ふるさと自然のみちに案内版があります。平安末期に逢賀太郎親幹が築いた逢賀城を室町末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになったそうです。
Ⅰ郭には八幡神社があり、その参道の階段脇に竪堀があり、そこからⅠ郭外側を西から北へかけて土塁と空堀を配しています。一部土塁が切れて竪堀の様な箇所がありますが、その先は私有地なので踏み込まず、折れて空堀を進むとⅠ郭とⅡ郭間の空堀へと繋がります。
Ⅰ郭虎口は折れを伴う坂虎口となっていて、Ⅰ郭土塁から横矢が掛かります。虎口からはⅣ郭までの城内道と繋がり、上記の空堀と交差します。
Ⅱ郭の南東部は竪堀が竜翔寺に向かって幾筋も落ちています。Ⅱ郭とⅢ郭の間には小規模の郭が並び、二重堀切は東西の両端で竪堀へと変化します。城内道はⅢ郭でT字路となり、右へ折れるとⅣ郭へ、左へ折れるとⅢ郭内部へ向かう。Ⅲ郭内部は藪だらけで見通しが悪い。
右へ折れてⅣ郭に向かうと竪堀とぶつかり左へ折れるとⅣ郭。Ⅳ郭の北半分は耕作地となっていますが、南半分は放棄地?となっていて藪がかなり生い茂っています。
周辺と比較して竪堀が多く用いられた城郭です。
1.案内板。Ⅳ郭北側にあります。
2.Ⅰ郭空堀脇にある竪堀。
3.Ⅰ郭空堀。
4.背後は土塁が切れて竪堀が私有地へと続く。右手から左手へ折れて進む。
5.空堀が交差する地点。
6.左はⅣ郭への道。右は竪堀となって落ちる。
7.Ⅱ郭とⅢ郭の間にある二重堀切の一条。
8.竪堀。
2025年11月27日 千葉相模守早雲
中居城
Ⅰ郭と一段低いⅡ郭を土塁で囲み、中央部分にある社を囲うようにも土塁が残っています。この主郭部分の北、西、南側を土塁が囲み、東側にⅢ郭があります。Ⅲ郭の北に大きな郭(仮にⅣ郭とします)があったようですが、南側の大半を削り取られています。
城郭南側の登城口を上ると、Ⅲ郭下の腰郭部分に竪堀があります。Ⅰ郭とⅢ郭の高低差は大きく、高い切岸がお出迎え。空堀を横目にⅢ郭土塁を北へ向かうと、Ⅳ郭西から北にかけても土塁があり、北側では二重土塁になっている個所や土塁が90度折れるなど技巧に富んでいます。
主郭部へ戻り、主郭を取り巻く空堀とⅣ郭空堀の合流地点を西へ向かいましょう。Ⅰ郭とⅡ郭から成る主郭切岸はとても高く登ることは不可能。外側の土塁も高く、堀底を歩くとその高低差がよく分かります。
南側に主郭の虎口があり、坂虎口になっています。坂虎口の目の前には竪堀があり、銅線は東のⅢ郭へ向かう城内道と西の土塁方面と二手に分かれる変わった構造です。見どころが多く再訪したい城。
1.Ⅲ郭下の竪堀。
2.Ⅰ郭空堀とⅢ郭土塁。左手はⅠ郭。
3.Ⅳ郭西側の空堀。
4.Ⅳ郭北側の二重土塁。
5.主郭北側の空堀とⅣ郭西側の空堀の合流地点。
6.主郭北西部の空堀。左へ右へとクランク。
7.堀底から見上げる土塁。
8.坂虎口前の竪堀。
2025年11月26日 千葉相模守早雲
山田城[中居城 周辺城郭]
Ⅰ郭の東から南にかけてⅡ郭が囲み、Ⅰ郭北側に2つの帯郭が東西に並ぶ作り。Ⅱ郭虎口とⅠ郭虎口は喰い違いになっておらず、Ⅰ郭虎口の脇の櫓台から横矢が掛かります。
Ⅰ郭西から北へかけて幅広の横堀があり、外側を土塁で囲んでいます。下から見上げても兵の移動が見えないように土塁を高く、堀幅は広くしているように思います。Ⅰ郭北の腰郭との接続部分に堀切を設け、竪堀となって落ちます。
腰郭の外側に更に土塁を設け、二重堀になっています。この横堀は腰郭の東端でもう一つの腰郭との堀切となり、土橋が両腰郭を結びます。土塁は真っ直ぐ伸びて東の腰郭に繋がるものと、東の腰郭の外側に張り出すものとが二重土塁になっています。
東の腰郭から北東に伸びる尾根にも郭があり、堀切で2ヶ所切られています。この郭には方形の窪みが7つ並んでいますが、当時の遺構なのか、後世のものなのかは不明。縄張りは単純に見えますが、この張り巡らされた横堀が見どころです。
1.Ⅱ郭。
2.Ⅰ郭虎口。左手に櫓台。
3.Ⅰ郭西側の横堀。
4.Ⅰ郭の外側の土塁。
5.腰郭の外側の横堀と土塁。
6.7.東の腰郭の横堀。
8.北東へ伸びる尾根筋の堀切。
2024年08月25日 マグロ常陸介祐平
札城[中居城 周辺城郭]
大掾氏の一族の馬場繁幹が築いたお城で、子の幹高から札を名乗っています。南方三十三館の仕置では、当主の札幹繁は難を逃れ、15年後に郷里に戻り亡くなっています。幹繁の死により札氏は滅亡したとされますが、札地区には今も札さんが少なからず存在しています。
お城は、台地の先端に南北に曲輪が並びます。小さなお堂の安福寺の脇の道の先は、道路となっている堀切、左側の松尾神社参道の先に曲輪が3つ並びます。
北側松尾神社の曲輪には、階段上西側に高さのある土塁、その手前の本丸は参道となった西側を除き空堀が囲みます。
道は細く入りづらいですが、安福寺の墓地に駐車可能で(先陣様の口コミ通り公民館が無難かも、近いです)、目の前がお城です。遺構はよく残っており、気軽に土のお城を楽しめます。
2024年06月26日 ᴿᴱᴰ副将軍
木崎城[中居城 周辺城郭]
南方三十三館の仕置により謀殺された武田氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
1533年に武田通信により築城。
常陸武田氏は甲斐武田氏の系譜であり、甲斐武田氏九代当主である武田信春の子の武田信久が上杉禅秀の乱に敗れ、甲斐を追放。千葉氏を頼った後、常陸に移り武田川沿いに土着したことが始まりとされます。
常陸武田氏八代当主の武田通信が手狭となった神明城から新たに築いて移ったのが木崎城です。
しかし、1591年に当主の武田信房は佐竹義宣による「南方三十三館仕置き」によって常陸太田城にて謀殺。武田氏は滅亡しました。
その後の木崎城は佐竹氏の属城となりましたが、1602年に佐竹氏が出羽国に転封となると廃城となりました。
見所
行方台地の東部に位置し、武田川右側の舌状台地上に築かれた連郭式平丘城。
舌状台地の先端部に本郭と東郭、中央部に二郭、基部に三郭と馬出、西側に四郭を配した縄張りです。
本郭は香取神社の境内となり周囲を土塁と空堀が巡ります。
二郭は耕作地となり、三郭は工場の敷地となっていますが、三郭南側は巨大な空堀で区切られ長い土橋が架かります。しかし私有地であり立入禁止で中に入ることは出来ませんでした。
深さ10m、幅20mの空堀と言われ、再訪してみたい城跡です。
2024年04月14日 ᴿᴱᴰ副将軍
烟田城[中居城 周辺城郭]
南方三十三館の仕置により謀殺された烟田氏の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
烟田城(かまたじょう)と読みます
築城年代は不詳。烟田氏によって築かれたと云われるその居城です。
烟田氏は常陸大掾氏の庶流である鹿島氏の分流とされます。鹿島氏の祖である鹿島成幹の子である鹿島親幹が徳宿郷を本拠とし徳宿権守と称します。1234年に徳宿親幹の子の徳宿秀幹が、子の徳宿朝秀に烟田・富田・大和田・生江沢を譲り、朝秀が烟田氏を称したのが始まりです。以降、鹿島郡北部の有力豪族として約360年もの間、当地を支配しました。
1591年、当主の烟田通幹の兄弟は佐竹義宣による「南方三十三館仕置き」によって常陸太田城にて謀殺。烟田氏は滅亡し、廃城となりました。
見所
烟田集落の上部台地上に築かれており、旧新宮小学校跡の脇にある氷川神社に土塁と空堀が残り案内板が立ちます。
また近隣の西光院には東側の駐車場脇に土塁が、北側背後には空堀が残っています。
写真
①氷川神社の空堀
②③氷川神社の土塁
④西光院の土塁
⑤西光院背後の空堀
⑥案内板
2024年03月06日 マグロ常陸介祐平
木崎城[中居城 周辺城郭]
常陸武田氏8代通信が、天文二年(1533年)に築城したと伝わるお城です。2km西にある神明城から移ってきました。天正十九年(1591年)に南方三十三館の仕置で佐竹氏により通信の子の信房が誅殺されますが、城自体は佐竹氏の秋田移封の慶長七年(1602年)まで存続したようです。
四つの曲輪と馬出で構成されており、香取神社のある一の曲輪は遺構の保存状態が良好です。土塁と空堀に囲まれ、神社の手前左側には見張り台のような土盛りが見られます。一の曲輪の右並びに二の曲輪がありますが、薮になっています。三の曲輪は一の曲輪と二の曲輪の手前にあり、広さはありますが、畑と工場になっていて遺構は目立ちません。三の曲輪の手前には馬出がありますが、立ち入り禁止の看板があり、虎口の外から覗く感じです(写真8枚目)。四の曲輪は東側の奥のようですが、工場の敷地の先にあるため未確認です。
行方市は、大変お城の多いところですが、木崎城だけが市の文化財に指定されています。神明城、内宿館、木崎城と三つのお城が並んでおり、それぞれ違った顔つきをしています。合わせて訪れてはいかがでしょうか。
2024年03月05日 マグロ常陸介祐平
内宿館[中居城 周辺城郭]
武田氏による神明城と木崎城の中間にある城で、現在は2022年に火災で本堂が全焼した自性寺となっています。城主や年代など、城の詳細はよくわかっていないようですが、余呉さんのサイトで紹介されている、関ヶ原の戦い後にこの地に5000石で入部した仁賀保氏(元出羽の大名)によるものというのが説得力を感じます。
寺のある本丸は高いところで4~5mもある土塁で囲まれ、南に山門のある虎口(写真3枚目、枡形風)、東に土塁を崩したようにも見える虎口(写真5枚目、出た先に小さな平地がある)、西に現在は車道となっている坂虎口(写真1枚目)と三つの虎口が見られます。曲輪内にも低い土塁(写真4枚目)があり、少々変わった構造となっています。
また、西の坂虎口を下ったところにある二の丸には、本丸のものとはマッチしない土塁(写真6枚目)が見られます。
自性寺は、仁賀保氏の次の領主の皆川氏によるもので、二の丸北側にある墓地には開基の皆川広隆(広照の曾孫)の供養塔や幕末の動乱期に幕府に逆らい処刑された守山藩士七名の墓(勤王七士之墓、写真7枚目)があります。この墓地も曲輪のような雰囲気があり、入口には枡形のような低い土塁の痕跡(写真8枚目)が見られます。
Googleマップにも城の写真が投稿されていない無名なお城ですが、高い土塁など一見の価値ありです!
2024年03月04日 マグロ常陸介祐平
神明城[中居城 周辺城郭]
甲斐武田氏12代信春の子、武田信久がこの地に移り神明城を築城したとされています。8代後の通信が木崎城に移るまで、常陸武田氏の本城だったようです。
国道から城域に入ると畑になっており、入りづらい雰囲気でしたが、農作業中の方に声をかけ見学させていただきました。女性の方でしたが、簡単な縄張りの説明もしていただき助かりました。
曲輪は南から三の丸、二の丸、本丸と並び、曲輪の間は広めの空堀(二の丸の周囲は箱堀?)で仕切られています。切岸は横矢掛かりも見られ、本丸付近は高さのある土塁が部分的に残っています。
常陸に落ち着いた信久ですが、「茨城県の中世城館」においても上杉禅秀の乱のおり、甲斐武田氏当主信満が自害し、弟の信久は下総に逃れ、常陸国行方郡武井郷に匿われたのが入部したきっかけとしていますが、甲斐武田氏の系図には無く、この地の地名が武田であることから、在地名を名乗った別系統の可能性もあるようです。南方三十三館主謀殺事件で生き残った子孫は、水戸藩で剣術指南役を勤めているようです。
2024年02月04日 ᴿᴱᴰ副将軍
山田城[中居城 周辺城郭]
主郭北側の三重横堀が見事な竹ヤブ城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。鹿行衆のひとつ山田氏の居城。
山田氏は大掾氏一族とされますが、敵対する佐竹氏の陣営として沼尻合戦等に参陣していた様です。
しかし、1591年の南方三十三館の仕置きにおいて他の鹿行諸将と同様に謀殺された様です。和光院過去帳には山田氏の名は記載ありませんが、巻き込まれて滅亡したと見られています。
見所
北浦西岸の比高35m程の丘陵上に築かれています。
頂部に主郭を置き、主郭の南側と東側を囲むL字型に二郭が配されています。
主郭は南東隅に櫓台があり、御嶽神社が鎮座しています。神社までは整備されていますが、それ以外はヤブに覆われています。
最大の見所は主郭北側を巡る横堀。傾斜が緩やかな主郭北側は三重の横堀を配備し防御線を堅めており土橋も認められます。酷い竹藪ですが遺構は素晴らしいです。
2024年01月16日 ᴿᴱᴰ副将軍
札城[中居城 周辺城郭]
南方三十三館の仕置きにおいて逃げ切ったとされる札氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。常陸大掾氏の庶流である馬場繁幹がこの地を拝領し札城を築き、子の幹高が札氏を称したと云われます。
1591年、佐竹義宣が独立性の強かった鹿行の国人衆を粛正した「南方三十三館仕置き」が起こります。佐竹義宣は梅見の宴と称して常陸太田に呼び出し鹿島城の鹿島清秀など9氏16人が謀殺。
城主の札幹繁は道中でこの事を知り逃げ切って小里村に蟄居するも小里村で病死。札氏は滅亡し札城も廃城となった様です。
見所
北浦東岸の鹿島台地に伸びた半島状台地の先端に築かれています。
南北に伸びた台地上に郭が連なり、北端の郭が現在は松尾神社となっており、その南側の西を除く三方を大規模な横堀が巡る方形の郭が最も厳重な防御であり主郭とされます。
主郭の南はエトク屋敷と呼ばれる郭で現在は畑となっており、通路となった堀切を挟んで南端に普門寺があります。
神社造営による改変はありますが主郭を巡る空堀はヤブってますが大規模です。
行き方は札公民館を目標に設定。駐車場をお借りして西麓の安福寺に向かうと背後に北端の郭である松尾神社に続く参道が続いています。
安福寺前の道は狭いので公民館から歩いた方が無難です。
2022年04月29日 坂東のダイ
中居城
小田原征伐後の南方三十三回館の仕置きにより城主が誘殺された時、中居城では佐竹氏の南下に備えて堀を拡充していました 掘削作業中の領民はそれを聞き念仏を唱えて弔ったという それが念仏堀と呼ばれ山の中に眠っています 到達するには堀底の倒竹をかき分けて行かなければいけません
2022年02月24日 ️…
相賀城の跡 解説板[中居城 碑・説明板]
たかが解説板、されど解説板😌
解説板や石碑、標柱等があれば、その土地で城跡として認知され、愛されていることを実感できて「お前、よかったな」と城に声を掛けてあげたくなります🥰
Googleマップに掲載のある「相賀城跡案内板」の位置はビミョーに違います😔
Ⅲ郭からⅣ郭に入ったら北西に歩けば、解説板の裏側が見えてくるはずです😚
2022年02月06日 大膳大夫しろし
中居城
大手道から本丸の入口のところに行くと深い空堀が有りますが空堀の外側の土塁の上を藪を気にせずにどんどん奥に行くと左は切岸右は深い空堀が見事です。
2022年01月24日 南方館衆木工頭和侍
中居城
入口が分かりにくいのと登城していくと赤い建物が建っています。堀跡は深いです。
2021年04月10日 龍馬備中守【】
山田城[中居城 周辺城郭]
茨城県の行方市の山田城♪山田の津を抑える為に築かれた城郭だったと考えられてます☆山田の津は元々は小高知行分となっていて小高城の小高氏が支配します☆山田城の山田氏は小高氏に関連した大掾氏一族だったと考えられています☆佐竹陣営として沼尻合戦などに参加☆が!!結果的に山田氏も【南方三十三館の仕置き】に巻き込まれたと思われます☆遺構としては抜群で良く造り込んでいるな〜と言った印象です☆特に主郭、副郭の北側に築かれた二重横堀は場所によっては三重になっていて北側からの寄せ手の動きを最大限に警戒♪南側は主郭、副郭と主要部を構えているのですが往時は北浦に面していたと思われ侵入ルートは北側の限定された部分からだったと感じました☆大手も北側かな?搦手は北浦に面した南側か?ヤバい!ってなったら北浦に舟を浮かべ退却してたのかもしれません☆※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏(鹿行衆)を主家として緩やかな主従関係にありそこの居館を南方三十三館と呼びました☆鹿行衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられます☆但し佐竹氏の戦に出たり出なかったり…中々言う事を聞かなかった様です☆時は流れ天下を治めた豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵☆更に領地を拡げたい思いの強い佐竹氏の勢力は日に日に増す…最初に退去通告を無視した水戸城の江戸氏を滅ぼします☆勢いのままに鹿行衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺☆コレが世に言う『南方三十三館の仕置き』です。梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆酒も入り宴もたけなわの時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたと伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀城主を指すのでしょうが名は不詳「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…この中には山田氏の名前はありませんが山田氏もこの時犠牲に。城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦!も、落城☆鹿島城に関しては大砲をブッ込まれました☆
2020年10月19日 龍馬備中守【】
野友城[中居城 周辺城郭]
茨城県の鉾田市にある野友城☆地元の方に怪しまれ無い様w声を掛ける様にしてるんですが地元の方曰く『のども』とも呼ぶ様です☆常陸木崎城の武田氏の支城となります☆野友城は武田信房が築城しました☆佐竹氏にの『南方三十三館の仕置き』により武田氏は滅亡してしまいました☆同時に廃城となってしまいました☆城としては一段と高まった主郭を中心にして三面に深い横堀をグルリと回します☆主郭下の西側の部分のみ切岸で防御☆
こちら側はわりかし広い削平地になっていて副郭部分☆主要な郭は大きくはこの二つとなります☆登城道から行くと最初に出くわす虎口の土塁は侵入者を防ぐ様、横に二重、三重に築かれていて横堀を造ります☆
鋭い切岸に深い横堀、高い土塁は必見です☆
※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏を主家として緩やかな主従関係にありそこに居館を『南方三十三館』と呼びました☆鹿島衆・行方衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられて行きます☆
豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵します☆中々言う事を聞かない鹿行衆…でも共に戦った豪族達…更に領地を拡げたい佐竹氏の勢力は増し水戸城の江戸氏を滅ぼします☆
その勢いのままに鹿島衆・行方衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺します☆
梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆酒も入り宴もたけなわとなった時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたとも伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆
※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀(おうが)城主を指すのでしょうが名は不詳☆「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦はしたものの落城☆悲しい歴史を持つ南方三十三館の仕置きでした☆
リア攻めマップはギリギリ入るか入らないかの所だった為山裾にポイント合わせてます♪Googleマップで入れたら直ぐに出るので是非是非行かれてみて下さいね♪
2020年10月16日 龍馬備中守【】
相賀城[中居城 周辺城郭]
茨城県の行方市にある相賀城♪最初に築かれたのは古く平安時代となります☆逢賀三郎親幹が築城したと伝わります☆戦国時代には手賀氏によって再建され相賀城と呼ばれる様になりました☆がしかし佐竹氏によって攻め落とされたと思われます☆
南方三十三の仕置きの中にも手賀氏、相賀氏の名前らしきものが残ります…☆アウガ氏が恐らく相賀氏☆この辺りの歴史はあまり分かっていません☆いつの世も勝者の歴史は明確に残りますが敗者の歴史は…☆だからこそ華々しく負けの美学☆好きなのかも☆
※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏を主家として緩やかな主従関係にありそこに居館を『南方三十三館』と呼びました☆鹿島衆・行方衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられて行きます☆豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵します☆中々言う事を聞かないでも共に戦った豪族達…更に領地を拡げたい佐竹氏の勢力は増し水戸城の江戸氏を滅ぼします☆
その勢いのままに鹿島衆・行方衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺します☆梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆酒も入り宴もたけなわとなった時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたとも伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆
※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀(おうが)城主を指すのでしょうが名は不詳☆「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦はしたものの落城☆
2020年07月07日 龍馬備中守【】
札城[中居城 周辺城郭]
茨城県の鉾田市にある札城(ふだじょう)☆
築城年代は分かってません☆札氏によって築かれたと伝わります☆札氏は常陸大掾氏の一族で馬場繁幹が札を領した事に始まります☆その子、幹高が札氏を称しました☆
札幹繁は佐竹義宣の「南方三十三館仕置き」によって謀殺されそうになったが逃れました☆でも小里村に蟄居したが病死して札氏は滅亡してしまいます☆
※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏を主家として緩やかな主従関係にありそこに居館を『南方三十三館』と呼びました☆
鹿島衆・行方衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられて行きます☆
豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵します☆中々従わない大掾氏の親族達はそこに生きました☆更に領地を拡げたい佐竹氏の勢力は増し水戸城の江戸氏を滅ぼします☆
その勢いのままに鹿島衆・行方衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺します☆
梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆
酒も入り宴もたけなわとなった時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたとも伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆
※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀(おうが)城主を指すのでしょうが名は不詳☆「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…
城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆
鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦はしたものの落城☆悲しい歴史を持つ南方三十三館の仕置きでした☆
2017年05月25日
中居城
中居城跡入り口の小さな看板が出ていますが、車だと見落としやすいかも。
同じく小さな鳥瞰図付きの看板があります。
大手から登り始めてすぐに竪堀、横堀、主郭手前にも竪堀と見事な横堀があります。
曲輪内部は、倒木や下草でやや荒れています。隅々まで探索するなら、冬場をオススメします。
2016年10月19日 まー兵部卿
中居城
城周辺の住民の方に看板出てると言われたが暗くなってわからず。









