中居城(なかいじょう)

中居城の基本情報

通称・別名

所在地

茨城県鉾田市中居字城の内1273他

旧国名

常陸国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

中居(鹿島)時幹

築城年

鎌倉時代前期

主な改修者

主な城主

中居氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(中居城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

津賀城(茨城県鹿嶋市)[5.3km]
小高城(茨城県行方市)[9.7km]
徳宿城(茨城県鉾田市)[11.9km]
鹿島城(茨城県鹿嶋市)[13.7km]
島崎城(茨城県潮来市)[13.9km]
芹沢城(茨城県行方市)[14.2km]
阿波崎城(茨城県稲敷市)[20.0km]
宍倉城(茨城県かすみがうら市)[21.5km]
松川陣屋(茨城県東茨城郡)[22.3km]
神宮寺城(茨城県稲敷市)[22.8km]

中居城の口コミ情報

2024年06月26日 RED副将軍【豊禅閤】
木崎城[中居城  周辺城郭]



南方三十三館の仕置により謀殺された武田氏の居城🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

1533年に武田通信により築城。
常陸武田氏は甲斐武田氏の系譜であり、甲斐武田氏九代当主である武田信春の子の武田信久が上杉禅秀の乱に敗れ、甲斐を追放。千葉氏を頼った後、常陸に移り武田川沿いに土着したことが始まりとされます。
常陸武田氏八代当主の武田通信が手狭となった神明城から新たに築いて移ったのが木崎城です。
しかし、1591年に当主の武田信房は佐竹義宣による「南方三十三館仕置き」によって常陸太田城にて謀殺。武田氏は滅亡しました。
その後の木崎城は佐竹氏の属城となりましたが、1602年に佐竹氏が出羽国に転封となると廃城となりました。

見所
行方台地の東部に位置し、武田川右側の舌状台地上に築かれた連郭式平丘城。
舌状台地の先端部に本郭と東郭、中央部に二郭、基部に三郭と馬出、西側に四郭を配した縄張りです。
本郭は香取神社の境内となり周囲を土塁と空堀が巡ります。
二郭は耕作地となり、三郭は工場の敷地となっていますが、三郭南側は巨大な空堀で区切られ長い土橋が架かります。しかし私有地であり立入禁止で中に入ることは出来ませんでした。
深さ10m、幅20mの空堀と言われ、再訪してみたい城跡です。

2024年04月14日 RED副将軍【豊禅閤】
烟田城[中居城  周辺城郭]



南方三十三館の仕置により謀殺された烟田氏の居城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

烟田城(かまたじょう)と読みます

築城年代は不詳。烟田氏によって築かれたと云われるその居城です。
烟田氏は常陸大掾氏の庶流である鹿島氏の分流とされます。鹿島氏の祖である鹿島成幹の子である鹿島親幹が徳宿郷を本拠とし徳宿権守と称します。1234年に徳宿親幹の子の徳宿秀幹が、子の徳宿朝秀に烟田・富田・大和田・生江沢を譲り、朝秀が烟田氏を称したのが始まりです。以降、鹿島郡北部の有力豪族として約360年もの間、当地を支配しました。
1591年、当主の烟田通幹の兄弟は佐竹義宣による「南方三十三館仕置き」によって常陸太田城にて謀殺。烟田氏は滅亡し、廃城となりました。

見所
烟田集落の上部台地上に築かれており、旧新宮小学校跡の脇にある氷川神社に土塁と空堀が残り案内板が立ちます。
また近隣の西光院には東側の駐車場脇に土塁が、北側背後には空堀が残っています。

写真
①氷川神社の空堀
②③氷川神社の土塁
④西光院の土塁
⑤西光院背後の空堀
⑥案内板

2024年03月06日 マグロ常陸介祐平
木崎城[中居城  周辺城郭]



常陸武田氏8代通信が、天文二年(1533年)に築城したと伝わるお城です。2km西にある神明城から移ってきました。天正十九年(1591年)に南方三十三館の仕置で佐竹氏により通信の子の信房が誅殺されますが、城自体は佐竹氏の秋田移封の慶長七年(1602年)まで存続したようです。

四つの曲輪と馬出で構成されており、香取神社のある一の曲輪は遺構の保存状態が良好です。土塁と空堀に囲まれ、神社の手前左側には見張り台のような土盛りが見られます。一の曲輪の右並びに二の曲輪がありますが、薮になっています。三の曲輪は一の曲輪と二の曲輪の手前にあり、広さはありますが、畑と工場になっていて遺構は目立ちません。三の曲輪の手前には馬出がありますが、立ち入り禁止の看板があり、虎口の外から覗く感じです(写真8枚目)。四の曲輪は東側の奥のようですが、工場の敷地の先にあるため未確認です。

行方市は、大変お城の多いところですが、木崎城だけが市の文化財に指定されています。神明城、内宿館、木崎城と三つのお城が並んでおり、それぞれ違った顔つきをしています。合わせて訪れてはいかがでしょうか。

2024年03月05日 マグロ常陸介祐平
内宿館[中居城  周辺城郭]



武田氏による神明城と木崎城の中間にある城で、現在は2022年に火災で本堂が全焼した自性寺となっています。城主や年代など、城の詳細はよくわかっていないようですが、余呉さんのサイトで紹介されている、関ヶ原の戦い後にこの地に5000石で入部した仁賀保氏(元出羽の大名)によるものというのが説得力を感じます。

寺のある本丸は高いところで4~5mもある土塁で囲まれ、南に山門のある虎口(写真3枚目、枡形風)、東に土塁を崩したようにも見える虎口(写真5枚目、出た先に小さな平地がある)、西に現在は車道となっている坂虎口(写真1枚目)と三つの虎口が見られます。曲輪内にも低い土塁(写真4枚目)があり、少々変わった構造となっています。
また、西の坂虎口を下ったところにある二の丸には、本丸のものとはマッチしない土塁(写真6枚目)が見られます。

自性寺は、仁賀保氏の次の領主の皆川氏によるもので、二の丸北側にある墓地には開基の皆川広隆(広照の曾孫)の供養塔や幕末の動乱期に幕府に逆らい処刑された守山藩士七名の墓(勤王七士之墓、写真7枚目)があります。この墓地も曲輪のような雰囲気があり、入口には枡形のような低い土塁の痕跡(写真8枚目)が見られます。

Googleマップにも城の写真が投稿されていない無名なお城ですが、高い土塁など一見の価値ありです!

2024年03月04日 マグロ常陸介祐平
神明城[中居城  周辺城郭]



甲斐武田氏12代信春の子、武田信久がこの地に移り神明城を築城したとされています。8代後の通信が木崎城に移るまで、常陸武田氏の本城だったようです。

国道から城域に入ると畑になっており、入りづらい雰囲気でしたが、農作業中の方に声をかけ見学させていただきました。女性の方でしたが、簡単な縄張りの説明もしてもらえ助かりました。

曲輪は南から三の丸、二の丸、本丸と並び、曲輪の間は広めの空堀(二の丸の周囲は箱堀?)で仕切られています。切岸は横矢掛かりも見られ、本丸付近は高さのある土塁が部分的に残っています。

常陸に落ち着いた信久ですが、「茨城県の中世城館」においても上杉禅秀の乱のおり、甲斐武田氏当主信満が自害し、弟の信久は下総に逃れ、常陸国行方郡武井郷に匿われたのが入部したきっかけとしていますが、甲斐武田氏の系図には無く、この地の地名が武田であることから、在地名を名乗った別系統の可能性もあるようです。南方三十三館主謀殺事件で生き残った子孫は、水戸藩で剣術指南役を勤めているようです。

2024年02月04日 RED副将軍【豊禅閤】
山田城[中居城  周辺城郭]



主郭北側の三重横堀が見事な竹ヤブ城🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。鹿行衆のひとつ山田氏の居城。
山田氏は大掾氏一族とされますが、敵対する佐竹氏の陣営として沼尻合戦等に参陣していた様です。
しかし、1591年の南方三十三館の仕置きにおいて他の鹿行諸将と同様に謀殺された様です。和光院過去帳には山田氏の名は記載ありませんが、巻き込まれて滅亡したと見られています。

見所
北浦西岸の比高35m程の丘陵上に築かれています。
頂部に主郭を置き、主郭の南側と東側を囲むL字型に二郭が配されています。
主郭は南東隅に櫓台があり、御嶽神社が鎮座しています。神社までは整備されていますが、それ以外はヤブに覆われています。
最大の見所は主郭北側を巡る横堀。傾斜が緩やかな主郭北側は三重の横堀を配備し防御線を堅めており土橋も認められます。酷い竹藪ですが遺構は素晴らしいです。

2024年01月16日 RED副将軍【豊禅閤】
札城[中居城  周辺城郭]



南方三十三館の仕置きにおいて逃げ切ったとされる札氏の居城🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。常陸大掾氏の庶流である馬場繁幹がこの地を拝領し札城を築き、子の幹高が札氏を称したと云われます。
1591年、佐竹義宣が独立性の強かった鹿行の国人衆を粛正した「南方三十三館仕置き」が起こります。佐竹義宣は梅見の宴と称して常陸太田に呼び出し鹿島城の鹿島清秀など9氏16人が謀殺。
城主の札幹繁は道中でこの事を知り逃げ切って小里村に蟄居するも小里村で病死。札氏は滅亡し札城も廃城となった様です。

見所
北浦東岸の鹿島台地に伸びた半島状台地の先端に築かれています。
南北に伸びた台地上に郭が連なり、北端の郭が現在は松尾神社となっており、その南側の西を除く三方を大規模な横堀が巡る方形の郭が最も厳重な防御であり主郭とされます。
主郭の南はエトク屋敷と呼ばれる郭で現在は畑となっており、通路となった堀切を挟んで南端に普門寺があります。
神社造営による改変はありますが主郭を巡る空堀はヤブってますが大規模です。

行き方は札公民館を目標に設定。駐車場をお借りして西麓の安福寺に向かうと背後に北端の郭である松尾神社に続く参道が続いています。
安福寺前の道は狭いので公民館から歩いた方が無難です。

2022年04月29日 坂東のダイ
中居城



小田原征伐後の南方三十三回館の仕置きにより城主が誘殺された時、中居城では佐竹氏の南下に備えて堀を拡充していました 掘削作業中の領民はそれを聞き念仏を唱えて弔ったという それが念仏堀と呼ばれ山の中に眠っています 到達するには堀底の倒竹をかき分けて行かなければいけません

2022年02月24日 ️
相賀城の跡 解説板[中居城  碑・説明板]



たかが解説板、されど解説板😌
解説板や石碑、標柱等があれば、その土地で城跡として認知され、愛されていることを実感できて「お前、よかったな」と城に声を掛けてあげたくなります🥰
Googleマップに掲載のある「相賀城跡案内板」の位置はビミョーに違います😔
Ⅲ郭からⅣ郭に入ったら北西に歩けば、解説板の裏側が見えてくるはずです😚

2022年02月06日 弾正少弼しろし
中居城



大手道から本丸の入口のところに行くと深い空堀が有りますが空堀の外側の土塁の上を藪を気にせずにどんどん奥に行くと左は切岸右は深い空堀が見事です。

2022年01月24日 南方館衆右衛門佐和侍
中居城



入口が分かりにくいのと登城していくと赤い建物が建っています。堀跡は深いです。

2021年04月10日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
山田城[中居城  周辺城郭]



茨城県の行方市の山田城♪山田の津を抑える為に築かれた城郭だったと考えられてます☆山田の津は元々は小高知行分となっていて小高城の小高氏が支配します☆山田城の山田氏は小高氏に関連した大掾氏一族だったと考えられています☆佐竹陣営として沼尻合戦などに参加☆が!!結果的に山田氏も【南方三十三館の仕置き】に巻き込まれたと思われます☆遺構としては抜群で良く造り込んでいるな〜と言った印象です☆特に主郭、副郭の北側に築かれた二重横堀は場所によっては三重になっていて北側からの寄せ手の動きを最大限に警戒♪南側は主郭、副郭と主要部を構えているのですが往時は北浦に面していたと思われ侵入ルートは北側の限定された部分からだったと感じました☆大手も北側かな?搦手は北浦に面した南側か?ヤバい!ってなったら北浦に舟を浮かべ退却してたのかもしれません☆※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏(鹿行衆)を主家として緩やかな主従関係にありそこの居館を南方三十三館と呼びました☆鹿行衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられます☆但し佐竹氏の戦に出たり出なかったり…中々言う事を聞かなかった様です☆時は流れ天下を治めた豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵☆更に領地を拡げたい思いの強い佐竹氏の勢力は日に日に増す…最初に退去通告を無視した水戸城の江戸氏を滅ぼします☆勢いのままに鹿行衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺☆コレが世に言う『南方三十三館の仕置き』です。梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆酒も入り宴もたけなわの時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたと伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀城主を指すのでしょうが名は不詳「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…この中には山田氏の名前はありませんが山田氏もこの時犠牲に。城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦!も、落城☆鹿島城に関しては大砲をブッ込まれました☆

2020年10月19日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
野友城[中居城  周辺城郭]



茨城県の鉾田市にある野友城☆地元の方に怪しまれ無い様w声を掛ける様にしてるんですが地元の方曰く『のども』とも呼ぶ様です☆常陸木崎城の武田氏の支城となります☆野友城は武田信房が築城しました☆佐竹氏にの『南方三十三館の仕置き』により武田氏は滅亡してしまいました☆同時に廃城となってしまいました☆城としては一段と高まった主郭を中心にして三面に深い横堀をグルリと回します☆主郭下の西側の部分のみ切岸で防御☆

こちら側はわりかし広い削平地になっていて副郭部分☆主要な郭は大きくはこの二つとなります☆登城道から行くと最初に出くわす虎口の土塁は侵入者を防ぐ様、横に二重、三重に築かれていて横堀を造ります☆
鋭い切岸に深い横堀、高い土塁は必見です☆

※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏を主家として緩やかな主従関係にありそこに居館を『南方三十三館』と呼びました☆鹿島衆・行方衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられて行きます☆

豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵します☆中々言う事を聞かない鹿行衆…でも共に戦った豪族達…更に領地を拡げたい佐竹氏の勢力は増し水戸城の江戸氏を滅ぼします☆

その勢いのままに鹿島衆・行方衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺します☆

梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆酒も入り宴もたけなわとなった時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたとも伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆
※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀(おうが)城主を指すのでしょうが名は不詳☆「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦はしたものの落城☆悲しい歴史を持つ南方三十三館の仕置きでした☆

リア攻めマップはギリギリ入るか入らないかの所だった為山裾にポイント合わせてます♪Googleマップで入れたら直ぐに出るので是非是非行かれてみて下さいね♪

2020年10月16日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
相賀城[中居城  周辺城郭]



茨城県の行方市にある相賀城♪最初に築かれたのは古く平安時代となります☆逢賀三郎親幹が築城したと伝わります☆戦国時代には手賀氏によって再建され相賀城と呼ばれる様になりました☆がしかし佐竹氏によって攻め落とされたと思われます☆

南方三十三の仕置きの中にも手賀氏、相賀氏の名前らしきものが残ります…☆アウガ氏が恐らく相賀氏☆この辺りの歴史はあまり分かっていません☆いつの世も勝者の歴史は明確に残りますが敗者の歴史は…☆だからこそ華々しく負けの美学☆好きなのかも☆

※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏を主家として緩やかな主従関係にありそこに居館を『南方三十三館』と呼びました☆鹿島衆・行方衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられて行きます☆豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵します☆中々言う事を聞かないでも共に戦った豪族達…更に領地を拡げたい佐竹氏の勢力は増し水戸城の江戸氏を滅ぼします☆

その勢いのままに鹿島衆・行方衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺します☆梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆酒も入り宴もたけなわとなった時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたとも伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆

※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀(おうが)城主を指すのでしょうが名は不詳☆「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦はしたものの落城☆

2020年07月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
札城[中居城  周辺城郭]



茨城県の鉾田市にある札城(ふだじょう)☆

築城年代は分かってません☆札氏によって築かれたと伝わります☆札氏は常陸大掾氏の一族で馬場繁幹が札を領した事に始まります☆その子、幹高が札氏を称しました☆

札幹繁は佐竹義宣の「南方三十三館仕置き」によって謀殺されそうになったが逃れました☆でも小里村に蟄居したが病死して札氏は滅亡してしまいます☆

※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏を主家として緩やかな主従関係にありそこに居館を『南方三十三館』と呼びました☆
鹿島衆・行方衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられて行きます☆
豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵します☆中々従わない大掾氏の親族達はそこに生きました☆更に領地を拡げたい佐竹氏の勢力は増し水戸城の江戸氏を滅ぼします☆
その勢いのままに鹿島衆・行方衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺します☆
梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆
酒も入り宴もたけなわとなった時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたとも伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆

※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀(おうが)城主を指すのでしょうが名は不詳☆「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…

城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆
鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦はしたものの落城☆悲しい歴史を持つ南方三十三館の仕置きでした☆


2017年05月25日 
中居城

中居城跡入り口の小さな看板が出ていますが、車だと見落としやすいかも。

同じく小さな鳥瞰図付きの看板があります。

大手から登り始めてすぐに竪堀、横堀、主郭手前にも竪堀と見事な横堀があります。

曲輪内部は、倒木や下草でやや荒れています。隅々まで探索するなら、冬場をオススメします。

2016年10月19日 まー刑部卿
中居城

城周辺の住民の方に看板出てると言われたが暗くなってわからず。

中居城の周辺スポット情報

 登城口(碑・説明板)

 相賀城の跡 解説板(碑・説明板)

 札城(周辺城郭)

 烟田城(周辺城郭)

 相賀城(周辺城郭)

 山田城(周辺城郭)

 野友城(周辺城郭)

 馬場館(周辺城郭)

 塙館(周辺城郭)

 阿玉城(周辺城郭)

 阿玉館(周辺城郭)

 木崎城(周辺城郭)

 神明城(周辺城郭)

 内宿館(周辺城郭)

 学林寺(寺社・史跡)

 寿徳寺(寺社・史跡)

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