相賀城
相賀城([中居城 周辺城郭])
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相賀城の口コミ情報
2026年05月19日 マグロ常陸介祐平
平安時代末期に大掾氏の一族とされる逢賀太郎親幹が逢賀城を築城し、室町時代末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し相賀城と呼ぶようになったと伝わります。相賀入道の婿の彦四郎は、小高氏の軍勢と戦い討死し、最後の城主手賀三郎四郎は、佐竹氏に攻められ滅亡したとされます。また、異説として三郎四郎は城を再建した佐竹義重の家臣佐竹三郎四郎義元とするものもあるようで(落城後の再建者?佐竹一族の宇留野四郎義元だと年代が合わない)、混乱しています。また、天正19年の南方三十三館の仕置の死者を載せる和光院過去帳に「於佐竹太田生害ノ衆」の中にアウカ殿とあるのが相賀城主と思われ、太田で殺害されています。
お城には相賀城主の菩提寺とされる龍翔寺の西側、八幡神社の参道から登城します。参道を登り階段に折れる手前の正面から西側から北側にかけて主郭を巡る空堀となり。土橋を越えると谷に突き当たり、脇には竪堀が見られます。少し戻って土橋から南に登ると八幡神社のある主郭に出ます。本殿の裏側には土塁が見られますが、神社の構造物かもしれません。主郭東側の一段下には腰郭があり、そこから幅のある竪堀が南へと下っています。土橋に戻り堀底道を行くと堀切があり、その先にはやや大きめの土塁に虎口が開口しています。その先にも堀切の痕跡が見られⅢ郭となります。
堀底はやや薮化していますが、歩けないレベルではありません。規模もあり、遺構はよく残っています。
2026年04月11日 里のシロクマ木工頭
3月30日 訪城
竜翔寺を目指していたが、八幡神社の前の道路脇にスペースがあったので農作業をしていたご婦人に車を止めていても大丈夫か聞いて駐車。参道の石段を登る。参道が途中から竪堀の堀底道を登るような感じになる。登りきると参道は横移動(腰曲輪のように感じられる)その先には竪堀が降っている。竪堀を過ぎると今度は横堀となり主郭を回り神社の裏手まで続く。この堀は主郭と二の郭の間で竪堀となり竜翔寺へ降って行く、堀は倒木に埋まりながらも規模は大きい。
主郭へ登ると目の前に行く手を難む様に土塁が現れる。境内に入り八幡神社へ参拝し、主郭を見て回る。主郭南側の下に曲輪があり降りると曲輪の中に竪堀があった。
二の郭に入る。郭内は凹凸があり浅いへこみかあり、何の跡なのか?この郭はどの様に使われていたのか、不思議な郭だ。もっと不思議なのが二の郭と三の郭間に、二の郭に対して虎口が土塁により造られている、二の郭にたいして横に続く土塁は東に降りて続いている、竪堀もまた降りて続いている、途中で蛇行しながら続いている。この郭は三角形の形の狭い空間だ。三の郭へ進む、三の郭は左右に道が分かれている。右手の道を進む。三の郭と四の郭の間の堀が現れる、この先の四の郭は草に覆われている。堀は浅いが草に行く手を遮られて断念する。
分岐に戻り左手の道を進む、三の郭に入ると御堂が現れる、神社の裏には土塁が郭の東端まである。
三の郭を出ると浅い堀がありその先には四の郭がある、四の郭は下草に覆われているが踏み跡をたどり、案内板にたどり着いた。
相賀城は、堀土塁を多様し、山城の雰囲気、謎の多い、私の好きな土の城でした。地理院地図に郭、土塁、堀を落とし込み、2日目の城巡りは終了。
2026年01月06日 昌幸近江守六角進藤沼田麝香
行方(なめがた)市の相賀(おうが)城。
東に北浦、西に雁通川に囲まれた高台にあります。平安末期に逢賀(おうが)太郎幹元が逢賀城を築いたのが最初で、荒廃した城を戦国末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建してから相賀城と呼ばれるようになりました。
北条方についた近隣の小高氏と争い、相賀入道の婿の彦四郎詮秀が討死したりと常に佐竹方に組していましたが、佐竹氏のいわゆる“南方三十三館誅殺事件”で手賀三郎四郎も巻き込まれ手賀(相賀)氏は滅亡してしまいます。
縄張りは4つの郭が深い堀で隔てられており、ともすれば一城別郭と思えるほど大きな城です。I郭には八幡神社、Ⅲ郭には祠があります。II郭は土塁が確認できるが薮化、Ⅳ郭は土塁で区切られていましたが畑化のため破砕、さらに現在は耕作放棄地となっており、多少荒れているところもあります。
麓に相賀氏の菩提寺である龍翔寺があり、そちらに車を停めさせてもらいました。
【写真の説明】
①I郭横堀
②I郭の横堀同士が交わり竪堀となる
③I郭は坂虎口を設ける
④I郭-II郭間の堀切
⑤II郭-Ⅲ郭間の二重堀切
⑥Ⅲ郭横堀もしくは段郭の遺構
⑦Ⅲ郭-Ⅳ郭間の堀切。竪堀となり下った所から
⑧耕作放棄地となったⅣ郭
2025年12月01日 千葉相模守早雲【三ツ鱗】
白浜ふるさと自然のみちに案内版があります。平安末期に逢賀太郎親幹が築いた逢賀城を室町末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになったそうです。
Ⅰ郭には八幡神社があり、その参道の階段脇に竪堀があり、そこからⅠ郭外側を西から北へかけて土塁と空堀を配しています。一部土塁が切れて竪堀の様な箇所がありますが、その先は私有地なので踏み込まず、折れて空堀を進むとⅠ郭とⅡ郭間の空堀へと繋がります。
Ⅰ郭虎口は折れを伴う坂虎口となっていて、Ⅰ郭土塁から横矢が掛かります。虎口からはⅣ郭までの城内道と繋がり、上記の空堀と交差します。
Ⅱ郭の南東部は竪堀が竜翔寺に向かって幾筋も落ちています。Ⅱ郭とⅢ郭の間には小規模の郭が並び、二重堀切は東西の両端で竪堀へと変化します。城内道はⅢ郭でT字路となり、右へ折れるとⅣ郭へ、左へ折れるとⅢ郭内部へ向かう。Ⅲ郭内部は藪だらけで見通しが悪い。
右へ折れてⅣ郭に向かうと竪堀とぶつかり左へ折れるとⅣ郭。Ⅳ郭の北半分は耕作地となっていますが、南半分は放棄地?となっていて藪がかなり生い茂っています。
周辺と比較して竪堀が多く用いられた城郭です。
1.案内板。Ⅳ郭北側にあります。
2.Ⅰ郭空堀脇にある竪堀。
3.Ⅰ郭空堀。
4.背後は土塁が切れて竪堀が私有地へと続く。右手から左手へ折れて進む。
5.空堀が交差する地点。
6.左はⅣ郭への道。右は竪堀となって落ちる。
7.Ⅱ郭とⅢ郭の間にある二重堀切の一条。
8.竪堀。
2020年10月16日 龍馬備中守【兵馬不動】
茨城県の行方市にある相賀城♪最初に築かれたのは古く平安時代となります☆逢賀三郎親幹が築城したと伝わります☆戦国時代には手賀氏によって再建され相賀城と呼ばれる様になりました☆がしかし佐竹氏によって攻め落とされたと思われます☆
南方三十三の仕置きの中にも手賀氏、相賀氏の名前らしきものが残ります…☆アウガ氏が恐らく相賀氏☆この辺りの歴史はあまり分かっていません☆いつの世も勝者の歴史は明確に残りますが敗者の歴史は…☆だからこそ華々しく負けの美学☆好きなのかも☆
※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏を主家として緩やかな主従関係にありそこに居館を『南方三十三館』と呼びました☆鹿島衆・行方衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられて行きます☆豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵します☆中々言う事を聞かないでも共に戦った豪族達…更に領地を拡げたい佐竹氏の勢力は増し水戸城の江戸氏を滅ぼします☆
その勢いのままに鹿島衆・行方衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺します☆梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆酒も入り宴もたけなわとなった時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたとも伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆
※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀(おうが)城主を指すのでしょうが名は不詳☆「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦はしたものの落城☆









