相賀城
相賀城([中居城 周辺城郭])
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相賀城の口コミ情報
2025年12月01日 千葉相模守早雲
白浜ふるさと自然のみちに案内版があります。平安末期に逢賀太郎親幹が築いた逢賀城を室町末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになったそうです。
Ⅰ郭には八幡神社があり、その参道の階段脇に竪堀があり、そこからⅠ郭外側を西から北へかけて土塁と空堀を配しています。一部土塁が切れて竪堀の様な箇所がありますが、その先は私有地なので踏み込まず、折れて空堀を進むとⅠ郭とⅡ郭間の空堀へと繋がります。
Ⅰ郭虎口は折れを伴う坂虎口となっていて、Ⅰ郭土塁から横矢が掛かります。虎口からはⅣ郭までの城内道と繋がり、上記の空堀と交差します。
Ⅱ郭の南東部は竪堀が竜翔寺に向かって幾筋も落ちています。Ⅱ郭とⅢ郭の間には小規模の郭が並び、二重堀切は東西の両端で竪堀へと変化します。城内道はⅢ郭でT字路となり、右へ折れるとⅣ郭へ、左へ折れるとⅢ郭内部へ向かう。Ⅲ郭内部は藪だらけで見通しが悪い。
右へ折れてⅣ郭に向かうと竪堀とぶつかり左へ折れるとⅣ郭。Ⅳ郭の北半分は耕作地となっていますが、南半分は放棄地?となっていて藪がかなり生い茂っています。
周辺と比較して竪堀が多く用いられた城郭です。
1.案内板。Ⅳ郭北側にあります。
2.Ⅰ郭空堀脇にある竪堀。
3.Ⅰ郭空堀。
4.背後は土塁が切れて竪堀が私有地へと続く。右手から左手へ折れて進む。
5.空堀が交差する地点。
6.左はⅣ郭への道。右は竪堀となって落ちる。
7.Ⅱ郭とⅢ郭の間にある二重堀切の一条。
8.竪堀。
2020年10月16日 龍馬備中守【】
茨城県の行方市にある相賀城♪最初に築かれたのは古く平安時代となります☆逢賀三郎親幹が築城したと伝わります☆戦国時代には手賀氏によって再建され相賀城と呼ばれる様になりました☆がしかし佐竹氏によって攻め落とされたと思われます☆
南方三十三の仕置きの中にも手賀氏、相賀氏の名前らしきものが残ります…☆アウガ氏が恐らく相賀氏☆この辺りの歴史はあまり分かっていません☆いつの世も勝者の歴史は明確に残りますが敗者の歴史は…☆だからこそ華々しく負けの美学☆好きなのかも☆
※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏を主家として緩やかな主従関係にありそこに居館を『南方三十三館』と呼びました☆鹿島衆・行方衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられて行きます☆豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵します☆中々言う事を聞かないでも共に戦った豪族達…更に領地を拡げたい佐竹氏の勢力は増し水戸城の江戸氏を滅ぼします☆
その勢いのままに鹿島衆・行方衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺します☆梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆酒も入り宴もたけなわとなった時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたとも伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆
※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀(おうが)城主を指すのでしょうが名は不詳☆「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦はしたものの落城☆









