木崎城
木崎城([中居城 周辺城郭])
中居城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「木崎城」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
木崎城の口コミ情報
2026年04月08日 里のシロクマ木工頭
3月29日 訪城 国道354号線から香取神社への参道を中心に城構えされている、舌状台地を利用した土の城。国道入り口に標識がある。参道の道を進むと両側に土塁が見える、香取神社鳥居まで来ると鳥居の横に説明板があるが、先ずは参拝。
説明板によると甲斐の武田氏の一族、武田通信が築城。東、西、北が深田に囲まれて、水壕の役割を果たしその中央を武田川が北浦に向かってながれる。南は台地より舌状に張り出した高台で自然を利用した要害地となっている、連郭式の平丘である。築城完成とともに城内に守護神として香取神社を建立したとある。
国道から入って来る時見た土塁まで歩き土塁を見上げる、高さもありどっしりとした土塁と堀が仕切り板の向かうに垣間見える。国道に出て東側を歩き城の南端を見るが民家と林により確認できない。
香取神社へ戻ろうと城内へ進む、東側には工場の建物が見える、神社手前の西側には廃屋が見える、西側の一段下がった所で農作業をしている人がいたので声をかけると「城を見に来たんかい、それなら案内してやるよ!」と付いて行くと土塁と堀のあった、仕切り板の所に行き「ここは俺の土地だから好きに見てくれば良い!」と言い案内してくれた。
堀底を東に行くにつれ深くなってくる、すると堀を遮ぎるように土塁(土橋)が現れて階段がある、階段を降りてさらに進むと左手の土塁に出っ張りがある、横矢掛けの造りだ!堀の端にも土塁があり階段がある、登って下を見ると崖端となっていた。地主の方感謝しつつ、香取神社に戻る。
説明板の所から堀底を西に進むも倒木があり神社側に登る境内に土盛が二つ、堀は神社を取り囲む様になっているが東南の部分が埋まっていて消えている。
神社の東側の堀や郭は竹藪に覆われていて断念。今回は規模の大きい堀や土塁が見られて感謝です。この後は、内宿館へ向かいます。
2024年06月26日 ᴿᴱᴰ副将軍
南方三十三館の仕置により謀殺された武田氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
1533年に武田通信により築城。
常陸武田氏は甲斐武田氏の系譜であり、甲斐武田氏九代当主である武田信春の子の武田信久が上杉禅秀の乱に敗れ、甲斐を追放。千葉氏を頼った後、常陸に移り武田川沿いに土着したことが始まりとされます。
常陸武田氏八代当主の武田通信が手狭となった神明城から新たに築いて移ったのが木崎城です。
しかし、1591年に当主の武田信房は佐竹義宣による「南方三十三館仕置き」によって常陸太田城にて謀殺。武田氏は滅亡しました。
その後の木崎城は佐竹氏の属城となりましたが、1602年に佐竹氏が出羽国に転封となると廃城となりました。
見所
行方台地の東部に位置し、武田川右側の舌状台地上に築かれた連郭式平丘城。
舌状台地の先端部に本郭と東郭、中央部に二郭、基部に三郭と馬出、西側に四郭を配した縄張りです。
本郭は香取神社の境内となり周囲を土塁と空堀が巡ります。
二郭は耕作地となり、三郭は工場の敷地となっていますが、三郭南側は巨大な空堀で区切られ長い土橋が架かります。しかし私有地であり立入禁止で中に入ることは出来ませんでした。
深さ10m、幅20mの空堀と言われ、再訪してみたい城跡です。
2024年03月06日 マグロ常陸介祐平
常陸武田氏8代通信が、天文二年(1533年)に築城したと伝わるお城です。2km西にある神明城から移ってきました。天正十九年(1591年)に南方三十三館の仕置で佐竹氏により通信の子の信房が誅殺されますが、城自体は佐竹氏の秋田移封の慶長七年(1602年)まで存続したようです。
四つの曲輪と馬出で構成されており、香取神社のある一の曲輪は遺構の保存状態が良好です。土塁と空堀に囲まれ、神社の手前左側には見張り台のような土盛りが見られます。一の曲輪の右並びに二の曲輪がありますが、薮になっています。三の曲輪は一の曲輪と二の曲輪の手前にあり、広さはありますが、畑と工場になっていて遺構は目立ちません。三の曲輪の手前には馬出がありますが、立ち入り禁止の看板があり、虎口の外から覗く感じです(写真8枚目)。四の曲輪は東側の奥のようですが、工場の敷地の先にあるため未確認です。
行方市は、大変お城の多いところですが、木崎城だけが市の文化財に指定されています。神明城、内宿館、木崎城と三つのお城が並んでおり、それぞれ違った顔つきをしています。合わせて訪れてはいかがでしょうか。









