山田城
山田城([中居城 周辺城郭])
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山田城の口コミ情報
2026年05月15日 マグロ常陸介祐平
山田氏のお城と伝わります。山田氏は行方氏の一族で、鎌倉時代初期から室町時代末期まで500m程東の古館を本拠とし、戦国期になって山田太郎左衛門尉治広が山田城に移ったとされるようです。南方三十三館の仕置の資料としてよく知られる和光院過去帳の「天正十九季辛卯二月九日於佐竹太田ニ生害ノ衆」の中に山田氏の名前は見られませんが、巻き込まれて滅亡したと考えられているようです。
先人様の口コミを参考に、元保育園の公園の八坂神社前に車を停め、住宅地の間から登城しました。元は車も通ったであろう左にカーブする坂を登ると広い削平された郭Ⅱに出ます。その一段上が郭Ⅰで、三峯神社は郭Ⅰの南東隅の櫓台上に鎮座しています。郭Ⅰの内部は薮が酷く入れず、郭Ⅱを西側の竹薮を進むと郭Ⅰを囲む空堀に出ます。空堀を北に進み北側の折れた部分の外側に枡形状の窪みがあり、さらに先には郭Ⅰから郭Ⅲに渡る薄めの土橋が見られます。空堀は、すぐその先で崖に突き当たります。少し戻って枡形状の窪みを越えると今来た空堀と西側を並行し、郭Ⅲの外周を守る空堀に出ます。また、登城口からすぐに右側に墓地がありますが、こちらも狭い郭のようでした。
郭内は薮になっていますが、西側から北側にかけての空堀は、見応えがありました。熊の生息地では無いので、安心です。
2026年04月09日 里のシロクマ木工頭
3月29日 訪城
ナビを八坂神社に設定。住宅街の中に公園があり駐車。公園の北側には鬱蒼とした丘。その丘が城郭跡。八坂神社と住宅の間に羽黒神社や三峯神社の参道がある。参道は途中から堀底道の様になりさらに進む。右手、東に小径があり登ると上は墓地になっている。何か小さな郭の様にも見える。
参道に戻りさらに進むと前方に廃屋が見える。廃屋の後ろは藪状態。参道は左に折れ登ると削平された場所になる、北側は藪状態。中央に櫓台の様な土盛りがあり神社がある。藪が払われているのはここまで他は、藪に覆われている、西側の竹藪はどうにか進入でき堀を確認。北側にある、この城の見どころの堀切と土塁が見られず残念。この後は札城を目指します。
2025年12月20日 昌幸近江守六角進藤沼田麝香
行方(なめがた)市の山田城。
北浦東岸の山田の津を守るため、比高30mの台地に築かれました。
室町時代、山田一帯は小高氏の知行地でしたが、後に一族の山田氏に受け継がれ支配していました。天正12(1584)年の沼尻の戦いには、鉄砲隊として佐竹陣営に参加しています。佐竹氏は天正19(1591)年、南方三十三館の城主たちを滅ぼしましたが、山田氏もその中の一人とされています。
縄張りですが郭は2つで、主郭は五角形で南東に天守台があり、現在は神社が祀られています。副郭は主郭の南側を守ります。
主郭の北側は傾斜が緩やかだったため、3重の堀を張り巡らせ守りを厳重にしています。また堀同士を繋ぐため虎口を造り、堀底を通り往来できるようになっているのも面白い点です。
車は円満寺を目指し、右隣の保育園跡地に駐車可能、約5分ほどで主郭に着きます。
この城はやはり堀を見なければ始まらない!
倒竹を潜りながら堀底探索をしてみたい方、是非山田城へお越しを。
【写真の説明】
①副郭から主郭の天守台を見る
②副郭西の堀
③主郭周りの堀(北西)
④虎口により繋がった2つの堀
⑤主郭北東の堀1
⑥北東尾根に繋がるところに謎の窪み。これが7つ連なる
⑦主郭北東の堀2。土橋が架かる
⑧主郭北の堀
2025年11月26日 千葉相模守早雲【三ツ鱗】
Ⅰ郭の東から南にかけてⅡ郭が囲み、Ⅰ郭北側に2つの帯郭が東西に並ぶ作り。Ⅱ郭虎口とⅠ郭虎口は喰い違いになっておらず、Ⅰ郭虎口の脇の櫓台から横矢が掛かります。
Ⅰ郭西から北へかけて幅広の横堀があり、外側を土塁で囲んでいます。下から見上げても兵の移動が見えないように土塁を高く、堀幅は広くしているように思います。Ⅰ郭北の腰郭との接続部分に堀切を設け、竪堀となって落ちます。
腰郭の外側に更に土塁を設け、二重堀になっています。この横堀は腰郭の東端でもう一つの腰郭との堀切となり、土橋が両腰郭を結びます。土塁は真っ直ぐ伸びて東の腰郭に繋がるものと、東の腰郭の外側に張り出すものとが二重土塁になっています。
東の腰郭から北東に伸びる尾根にも郭があり、堀切で2ヶ所切られています。この郭には方形の窪みが7つ並んでいますが、当時の遺構なのか、後世のものなのかは不明。縄張りは単純に見えますが、この張り巡らされた横堀が見どころです。
1.Ⅱ郭。
2.Ⅰ郭虎口。左手に櫓台。
3.Ⅰ郭西側の横堀。
4.Ⅰ郭の外側の土塁。
5.腰郭の外側の横堀と土塁。
6.7.東の腰郭の横堀。
8.北東へ伸びる尾根筋の堀切。
2024年02月04日 ᴿᴱᴰ副将軍
主郭北側の三重横堀が見事な竹ヤブ城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。鹿行衆のひとつ山田氏の居城。
山田氏は大掾氏一族とされますが、敵対する佐竹氏の陣営として沼尻合戦等に参陣していた様です。
しかし、1591年の南方三十三館の仕置きにおいて他の鹿行諸将と同様に謀殺された様です。和光院過去帳には山田氏の名は記載ありませんが、巻き込まれて滅亡したと見られています。
見所
北浦西岸の比高35m程の丘陵上に築かれています。
頂部に主郭を置き、主郭の南側と東側を囲むL字型に二郭が配されています。
主郭は南東隅に櫓台があり、御嶽神社が鎮座しています。神社までは整備されていますが、それ以外はヤブに覆われています。
最大の見所は主郭北側を巡る横堀。傾斜が緩やかな主郭北側は三重の横堀を配備し防御線を堅めており土橋も認められます。酷い竹藪ですが遺構は素晴らしいです。
2021年04月10日 龍馬備中守【兵馬不動】
茨城県の行方市の山田城♪山田の津を抑える為に築かれた城郭だったと考えられてます☆山田の津は元々は小高知行分となっていて小高城の小高氏が支配します☆山田城の山田氏は小高氏に関連した大掾氏一族だったと考えられています☆佐竹陣営として沼尻合戦などに参加☆が!!結果的に山田氏も【南方三十三館の仕置き】に巻き込まれたと思われます☆遺構としては抜群で良く造り込んでいるな〜と言った印象です☆特に主郭、副郭の北側に築かれた二重横堀は場所によっては三重になっていて北側からの寄せ手の動きを最大限に警戒♪南側は主郭、副郭と主要部を構えているのですが往時は北浦に面していたと思われ侵入ルートは北側の限定された部分からだったと感じました☆大手も北側かな?搦手は北浦に面した南側か?ヤバい!ってなったら北浦に舟を浮かべ退却してたのかもしれません☆※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏(鹿行衆)を主家として緩やかな主従関係にありそこの居館を南方三十三館と呼びました☆鹿行衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられます☆但し佐竹氏の戦に出たり出なかったり…中々言う事を聞かなかった様です☆時は流れ天下を治めた豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵☆更に領地を拡げたい思いの強い佐竹氏の勢力は日に日に増す…最初に退去通告を無視した水戸城の江戸氏を滅ぼします☆勢いのままに鹿行衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺☆コレが世に言う『南方三十三館の仕置き』です。梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆酒も入り宴もたけなわの時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたと伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀城主を指すのでしょうが名は不詳「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…この中には山田氏の名前はありませんが山田氏もこの時犠牲に。城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦!も、落城☆鹿島城に関しては大砲をブッ込まれました☆









