山田城
山田城([中居城 周辺城郭])
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山田城の口コミ情報
2024年02月04日 RED副将軍
主郭北側の三重横堀が見事な竹ヤブ城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。鹿行衆のひとつ山田氏の居城。
山田氏は大掾氏一族とされますが、敵対する佐竹氏の陣営として沼尻合戦等に参陣していた様です。
しかし、1591年の南方三十三館の仕置きにおいて他の鹿行諸将と同様に謀殺された様です。和光院過去帳には山田氏の名は記載ありませんが、巻き込まれて滅亡したと見られています。
見所
北浦西岸の比高35m程の丘陵上に築かれています。
頂部に主郭を置き、主郭の南側と東側を囲むL字型に二郭が配されています。
主郭は南東隅に櫓台があり、御嶽神社が鎮座しています。神社までは整備されていますが、それ以外はヤブに覆われています。
最大の見所は主郭北側を巡る横堀。傾斜が緩やかな主郭北側は三重の横堀を配備し防御線を堅めており土橋も認められます。酷い竹藪ですが遺構は素晴らしいです。
2021年04月10日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
茨城県の行方市の山田城♪山田の津を抑える為に築かれた城郭だったと考えられてます☆山田の津は元々は小高知行分となっていて小高城の小高氏が支配します☆山田城の山田氏は小高氏に関連した大掾氏一族だったと考えられています☆佐竹陣営として沼尻合戦などに参加☆が!!結果的に山田氏も【南方三十三館の仕置き】に巻き込まれたと思われます☆遺構としては抜群で良く造り込んでいるな〜と言った印象です☆特に主郭、副郭の北側に築かれた二重横堀は場所によっては三重になっていて北側からの寄せ手の動きを最大限に警戒♪南側は主郭、副郭と主要部を構えているのですが往時は北浦に面していたと思われ侵入ルートは北側の限定された部分からだったと感じました☆大手も北側かな?搦手は北浦に面した南側か?ヤバい!ってなったら北浦に舟を浮かべ退却してたのかもしれません☆※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏(鹿行衆)を主家として緩やかな主従関係にありそこの居館を南方三十三館と呼びました☆鹿行衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられます☆但し佐竹氏の戦に出たり出なかったり…中々言う事を聞かなかった様です☆時は流れ天下を治めた豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵☆更に領地を拡げたい思いの強い佐竹氏の勢力は日に日に増す…最初に退去通告を無視した水戸城の江戸氏を滅ぼします☆勢いのままに鹿行衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺☆コレが世に言う『南方三十三館の仕置き』です。梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆酒も入り宴もたけなわの時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたと伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀城主を指すのでしょうが名は不詳「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…この中には山田氏の名前はありませんが山田氏もこの時犠牲に。城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦!も、落城☆鹿島城に関しては大砲をブッ込まれました☆