札城
札城([中居城 周辺城郭])
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札城の口コミ情報
2024年08月25日 マグロ常陸介祐平
大掾氏の一族の馬場繁幹が築いたお城で、子の幹高から札を名乗っています。南方三十三館の仕置では、当主の札幹繁は難を逃れ、15年後に郷里に戻り亡くなっています。幹繁の死により札氏は滅亡したとされますが、札地区には今も札さんが少なからず存在しています。
お城は、台地の先端に南北に曲輪が並びます。小さなお堂の安福寺の脇の道の先は、道路となっている堀切、左側の松尾神社参道の先に曲輪が3つ並びます。
北側松尾神社の曲輪には、階段上西側に高さのある土塁、その手前の本丸は参道となった西側を除き空堀が囲みます。
道は細く入りづらいですが、安福寺の墓地に駐車可能で(先陣様の口コミ通り公民館が無難かも、近いです)、目の前がお城です。遺構はよく残っており、気軽に土のお城を楽しめます。
2024年01月16日 RED副将軍
南方三十三館の仕置きにおいて逃げ切ったとされる札氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。常陸大掾氏の庶流である馬場繁幹がこの地を拝領し札城を築き、子の幹高が札氏を称したと云われます。
1591年、佐竹義宣が独立性の強かった鹿行の国人衆を粛正した「南方三十三館仕置き」が起こります。佐竹義宣は梅見の宴と称して常陸太田に呼び出し鹿島城の鹿島清秀など9氏16人が謀殺。
城主の札幹繁は道中でこの事を知り逃げ切って小里村に蟄居するも小里村で病死。札氏は滅亡し札城も廃城となった様です。
見所
北浦東岸の鹿島台地に伸びた半島状台地の先端に築かれています。
南北に伸びた台地上に郭が連なり、北端の郭が現在は松尾神社となっており、その南側の西を除く三方を大規模な横堀が巡る方形の郭が最も厳重な防御であり主郭とされます。
主郭の南はエトク屋敷と呼ばれる郭で現在は畑となっており、通路となった堀切を挟んで南端に普門寺があります。
神社造営による改変はありますが主郭を巡る空堀はヤブってますが大規模です。
行き方は札公民館を目標に設定。駐車場をお借りして西麓の安福寺に向かうと背後に北端の郭である松尾神社に続く参道が続いています。
安福寺前の道は狭いので公民館から歩いた方が無難です。
2020年07月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
茨城県の鉾田市にある札城(ふだじょう)☆
築城年代は分かってません☆札氏によって築かれたと伝わります☆札氏は常陸大掾氏の一族で馬場繁幹が札を領した事に始まります☆その子、幹高が札氏を称しました☆
札幹繁は佐竹義宣の「南方三十三館仕置き」によって謀殺されそうになったが逃れました☆でも小里村に蟄居したが病死して札氏は滅亡してしまいます☆
※南方三十三館の仕置きとはこの地を領した鹿島氏・行方氏を主家として緩やかな主従関係にありそこに居館を『南方三十三館』と呼びました☆
鹿島衆・行方衆の勢力は度々佐竹氏の軍事指揮下に入れられて行きます☆
豊臣秀吉は佐竹義宣に常陸・下野を安堵します☆中々従わない大掾氏の親族達はそこに生きました☆更に領地を拡げたい佐竹氏の勢力は増し水戸城の江戸氏を滅ぼします☆
その勢いのままに鹿島衆・行方衆を常陸太田城へ招き入れ謀殺します☆
梅見や茶会に招待、知行割りを発表するとして招いたと伝わります☆
酒も入り宴もたけなわとなった時、佐竹氏の手勢が宴会場に乱入し皆殺しにしたとも伝わります☆その時謀殺されたのが『鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、武田殿、そして手賀殿兄弟』の16名☆
※「島崎殿」は島崎城の島崎義幹、「玉造殿」は玉造城の玉造重幹、「中居殿」は中居城の中居秀幹、「釜田殿」は烟田(かまた)城の烟田通幹、「アウカ殿」は相賀(おうが)城主を指すのでしょうが名は不詳☆「小高殿」は小高城の小高治部大輔、「手賀殿」は手賀城の手賀高幹、「武田殿」は木崎城の武田信房…
城主の居ない城の多くは戦わずして降伏☆
鹿島城、𤇆田城、玉造城は徹底抗戦はしたものの落城☆悲しい歴史を持つ南方三十三館の仕置きでした☆