屋代城
屋代城([龍ケ崎城 周辺城郭])
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屋代城の口コミ情報
2025年11月25日 マグロ常陸介祐平
大掾氏の庶流、東条氏の一族が八代(社)の地を領し、社(八代)氏を名乗ったようです。その後、社氏は衰退し、室町幕府の奉公衆で信濃出身の屋代氏が新たな領主となっています(社氏が屋代を名乗り信濃屋代氏を仮冒した可能性もある)。鎌倉円覚寺文書には、永和3年(1377年)屋代越中守師国拝領之地当国東条庄内社村事とあるようです。屋代氏は大永3年(1523年)の土岐原氏との八代要害合戦で屋代城は落城し(足利基頼書状)、衰退したとされるようですが(近隣の桂昌寺は、土岐原氏の再興と伝わる)、永禄3年(1560年)の上杉氏による関東幕注文には、常陸之国の中に、丸之内の上文字 屋代彦四郎、が見られ、小田原の役(1590年)までは、存続したように思われます。
お城は、龍ケ崎ニュータウンの造成で中学校や宅地となりましたが、中学校内に土塁と空堀(屋代城址5号土塁)の一部が残されています。造成前に発掘調査が行われ、外郭に東西166m、南北に212mの外堀を構築したお城で、3度に渡る改修の変遷が確認され、薬研堀・箱堀・障子堀、出枡形などが検出されています。馴馬城跡に隣接する龍ケ崎市歴史民俗資料館では、屋代城のジオラマが展示されています。
2023年01月01日 昌幸近江守更に吉
龍ケ崎市の屋代(八代)城。鎌倉末期に東条氏一族がこの地に住み着き、社(やしろ)氏を名乗りました。南北朝争乱で南朝側についた東条社氏は次第に没落し、室町幕府奉公衆の屋代氏が治めます。(偶然にもまた“やしろ”です)戦国の世が見え隠れしてきた16世紀前半、この地域は常陸の名門小田氏と新興勢力の土岐原(常陸土岐)氏との領土争いが表面化し、土岐原氏は小田氏側の屋代氏を降伏させ、続いて小田氏本隊の援軍を撃退し勝利を治めます。(1523年・屋代合戦)これ以降は土岐原氏の城となったようです。
昭和の世、この辺りは畑で土塁や堀が断片的に残っていましたが、ニュータウンの造成にあたり大規模な発掘調査が行われました。もとは居館跡だったのが、土岐原氏との緊張が続く中で改修され、大掛かりかつ複雑な堀と土塁を持った城になったようです。おそらく小田氏の援助もあったことでしょう。地形的条件が似ていた小田城のミニチュア版といったところでしょうか。ニュータウンに取り込まれてしまった現在、中学校の敷地内に折れた土塁が残っています。完全消滅が免れて本当に良かった。









