小文間城
小文間城([高井城 周辺城郭])
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小文間城の口コミ情報
2025年08月04日 マグロ常陸介祐平
「おもんまじょう」と読みます。幸手一色氏の一族とされる、一色政良(政義)のお城です。政良は、永禄4年(1561年)大鹿城を攻め手中にしますが、稲城主高井氏や柴崎城主荒木氏に敗れ落ち延びたとされます。政良は、永禄4年に亡くなったとされ、お墓はお城の西側にあります(写真7枚目、8枚目は一色氏関連とされる首欠け地蔵)。
Wikipediaによると、政良は幸手一色氏の一色直朝の子で義直の弟にあたり、天正18年(1590年)の北条氏滅亡により、小文間城から上川崎村(久喜市)に隠棲し、渡辺と改姓して土着したとしています。新編武蔵風土記稿の上川崎村の条には、旧家者伝左衛門として、一色義直の弟の政義が当村に住し、渡辺を以て氏とし元和2年3月(1616年)に亡くなったとしています。小文間城については触れておらず、大鹿城を攻めた政良とは、年代も合っていません。
また、弓田城主染谷氏の系図によると、染谷政朝の姉が政良に嫁ぎ、子の正康は政良の攻め取った大鹿城を預かり、正康の子の政義は、政良の娘を妻としたとしていることから、系図の作成時期(ネットでは分からなかった)が、大鹿城の初出とされる安政2年(1855年)の「利根川図志」よりも古いものであれば、大鹿城攻防戦も真実味があるように思われます。
お城は、政良が小文間城築城の際鬼門除けとして建立したとされる東谷寺の南側の台地の先端に位置しています。遺構は土塁の僅かな残欠が残る程度で縄張りや規模などはよく分かりませんでした(写真1~4枚目)。崖下の歩道を進むと、要害性は感じられました(写真5,6枚目)。