米本城(よなもとじょう)

米本城の基本情報

通称・別名

所在地

千葉県八千代市米本字内宿南1723他

旧国名

下総国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

村上国綱?

築城年

天文年間(1532〜1555)?

主な改修者

主な城主

村上氏

廃城年

永禄元年(1558)?

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、土橋、櫓台、虎口

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

金堀城(千葉県船橋市)[4.1km]
小野田城(千葉県船橋市)[4.9km]
臼井城(千葉県佐倉市)[5.9km]
師戸城(千葉県印西市)[6.2km]
謙信一夜城(千葉県佐倉市)[6.3km]
実籾城(千葉県習志野市)[8.6km]
佐倉城(千葉県佐倉市)[9.5km]
古屋城(千葉県四街道市)[9.5km]
小森城(千葉県白井市)[9.7km]
馬加城(千葉県千葉市)[10.0km]

米本城の解説文



米本城(よなもとじょう)は、千葉県八千代市にあった日本の城。米本城跡。地元では「龍牙城(りゅうげじょう)」などと呼ばれている。

概要 

室町期から戦国期にかけて周辺地域で有力土豪だった村上氏の居城。「一の郭・二の郭・三の郭」から構成されている平山城で規模は南北約300m・東西約150m、面積は約45000m2

構造 

米本城の原型は室町時代に形作られ、太田道灌の臼井城攻めや安房里見氏の侵攻、上杉謙信の臼井城攻めなど多くの戦を経て、現在の南北約300mの城郭に拡張していったと考えられている。 付近の台地から南に延びる比高20m程度の舌状台地上に占地し、舌状台地先端の一郭から三郭までの三つの郭を連ねる。また、郭としては不明瞭ではあるが、三郭の東方及び台地基部にも郭のものと考えられる遺構が存在する。

三郭の空堀は浅いものであるが、中央に渡る土橋の東側に三郭からの張り出しが存在し、空堀に対して横矢が掛かる。三郭東端にはまたL字状土塁を伴う虎口が設けられており、二郭の外枡形様を呈している。

遺構 

採砂によって主要部は失われたが、曲輪、土塁、空堀などの遺構が残る。現在、城館の敷地は竹林に覆われている。また、天然の堀の役目を果たす新川には、城橋という名称の橋が架かる。

沿革 

  • 文明11年(1479年)、太田道灌勢が米本の龍ヶ城を攻めたとの記録があり、この龍ヶ城を米本城に比定する向きがある。
  • 天文年間、村上国綱、綱清父子により築城されたと伝わる。
  • 永禄元年(1558年)、米本城が攻められ落城し、城主綱清が自決したと伝わるが、臼井城と連携していたと考えられていることから、落城時期を永禄4年(1561年)と考える向きもある。
  • 昭和42年(1967年)、土採り目的で一郭及び二郭が削られ湮滅した。

所在 

千葉県八千代市米本字内宿。旧下総国印旛郡米本村内宿。

交通 

  • 東葉高速線八千代中央駅下車 国道16号左回り徒歩約30分

米本城の口コミ情報

2025年11月30日 マグロ常陸介祐平
保品竜害城[米本城  周辺城郭]



「ホシナリュウゲジョウ」と読みます。竜害は要害が転化したものと考えられます。八千代市郷土博物館の市内の城郭分布図を見て、訪ねてみました。

お城の来歴や城主などは不明です。保品の中心からは300m程離れていますが、保元年間(1156~59年)に正覚院を建立した平入道真円の子孫の清宮氏が保品地区に住んでおり、お城と関係するのかもしれません。

お城は台地の縁に位置しており、南側台地下の田んぼは元々沼地だったようで、要害の地ではあります。現在、畑となっており、縁には土塁状の土盛り(畑の削平で出来た感じ、近づけない)、畑の先に段差が確認できますが郭の境界でしょうか。城域はどこまでなのか、判断しづらい感じです。

2025年11月29日 マグロ常陸介祐平
下高野館[米本城  周辺城郭]



城主や来歴等不明なお城です。近くの福蔵院には、江戸時代初期の古文書(田畑改帳)が伝わる立石家のお墓が並びますが、館と関係するのでしょうか。

お城は2020年に発掘調査が行われ(Googleマップに写真あり)、土塁や堀が検出されています。また、遺物として中国産や瀬戸焼・美濃焼などの陶器や15世紀の板碑が出土したようです。

お城の東側の主郭部分は、急傾斜地崩壊対策工事の為、立ち入り禁止で確認できませんでした。菅原神社に向かう細い道は、堀切のような感じで、神社の周りも土塁状の構造が見られますが、お城のものというよりは神社の構造物のように感じられました。

下高野村は、天明3年(1783年)に佐倉宗吾事件を上回る大規模な一揆が発生しています。佐倉藩との交渉で、御救い米や年貢免減を勝ち取り、首謀者は死罪とならず所払いとなったとの事です。福蔵院に説明板があります。

2025年10月24日 マグロ常陸介祐平
島田城[米本城  周辺城郭]



米本城から北西に2km強、妙泉寺や大宮神社の建つ半島状の台地が城址となります。城主や来歴など不明ですが、島田の地は神保郷の一部の可能性もあることから、臼井城主臼井六郎常康の子、神保常員の系統のものが居城したのかもしれません(本貫の地、大神保に居館の伝承はなさそう)。城址に建つ妙泉寺は、応永2年(1395年)の創建とされ、その頃には廃城になっていたのかもしれません。また、戦国期まで城郭として存続していたとすると、高城氏の支城ということでしょうか。大宮神社の由緒は伝わりませんが、大正5年に妙見社を合祀しており、千葉一族と関連するものが城主のように思われます。

はっきりした遺構は見られませんが、北東側には一段低い腰曲輪状の削平地があり、大宮神社の北側には土塁状の土盛りや虎口状の構造が確認出来ます。台地の周囲は10m近い崖で、お城を築くには適した立地です。

2025年10月22日 マグロ常陸介祐平
権現山砦[米本城  周辺城郭]



文明11年(1479年)に太田道灌が米本城(臼井城という説もあるそう)を攻めた際に陣を張ったとされます。陣城ですね。米本城からは新川を挟んで南西に1km強の距離です。太田道灌は守り本尊である十一面観音菩薩に、戦勝したらこの地に埋めると祈願し、勝利したので陣の北東に埋めて引き上げます。江戸時代に入り、元和8年(1622年)になると白狐が17日間泣き叫んだ後に、村人に向かって「我は飯綱大権現、道灌の埋めた観音像を掘り出して再誕させれば一切衆生を済度する」と神託し、村人は掘り出して神社の裏に御堂を建て(現在はない)、像を安置したと伝わります。発掘調査(権現後遺跡)では、旧石器時代から近世までの複合遺跡であることが確認されていますが、中世以降のものとしては、近世の土坑や溝、年代不明の溝が見つかったものの、明確に城郭のものとは判断されていないようです。

砦は、台地の先端に位置しており(写真5枚目)、北側の入口は坂虎口風(写真1枚目)、境内北東部には土塁状の土盛り(写真3,4枚目)、北東には腰曲輪的な削平地(写真2枚目)が見られます。

飯綱神社の拝殿・本殿は明治22年の建築ですが、文化11年(1814年)に建てられた鐘楼は、廃仏毀釈を免れた神仏混淆時代のもので、見事な建築物です(写真6枚目)。

2025年10月21日 マグロ常陸介祐平
正覚院館[米本城  周辺城郭]



八千代市郷土博物館の近くにある、正覚院(写真1枚目)が城址となります。谷戸式の居館で、保元年間(1156~59年)に正覚院(鴨鴛寺)を建立した平入道真円が築城したとされています。正覚院自体は、八千代市の東北部の保品に創建され、室町時代に現在の館跡に移ったとされています。保品地区に現在住まわれている清宮氏は、真円の子孫とされているようです。

郷土博物館のパネルによると、正覚院は平胤広により天文5年(1536年)に再興された記録があり、胤広は村上氏以前の米本城主の可能性があるとのことでした。同時代の平胤広は、原一族の原九郎兵衛胤広と小金城主の高城越前守胤広がいるようです。

谷戸式のお城ということで、東・北・西の三方が台地に囲まれており、開放されている南側は土塁で守られています(写真2~5枚目)。また、北側の台地上には、藪で見づらいですが立派な空堀(写真6枚目)が見られます。

正覚院の墓地には、応永18年(1411年)に建てられた宝篋印塔があります(写真7枚目)。妙吽禅尼という女性の三十三回忌に子供により建てられたもので、お城との関わりも考えられるようです。また、延宝年間(1673~81年)に建てられた釈迦堂(写真8枚目)は市の文化財、釈迦堂に祀られる木造釈迦如来立像は、鎌倉時代後期の作とされ、県の文化財に指定されています(4月の花まつりに公開)。

2025年10月20日 マグロ常陸介祐平
熊野神社[米本城  寺社・史跡]



「八千代市の歴史 通史編上」で、とくに城という伝承はないとしつつ、城郭類似遺構として紹介されているようで、複数のサイトでレポートされています。

台地の先端に位置し、南側の神社のある曲輪(写真1,4枚目)?と北側の曲輪?で構成され、ふたつの曲輪の間には虎口状の構造があり(写真5枚目)、西側には人為的に掘られたようにも見える深い空堀状の地形(写真3枚目)となっています。北側の曲輪?の西側には、細く高さのある土塁状の構造(写真6枚目)が見られます。土塁状の構造は一見、神社の背後に見られる土盛りのような感じを受けます。城郭としては規模が小さく、砦といった感じでしょうか。

熊野神社の由緒不明ですが、北に隣接する玉蔵院(創建等不詳)には、八千代市の文化財に指定されている下総式板碑(写真8枚目)を見ることが出来ます。板碑は八千代市郷土博物館にレプリカが展示されている、貴重なものです。

2025年03月16日 ちょろまる
米本城



⚠️超初心者による初めての探訪です

城跡へ行く道はとても車通りが多いです
川を渡ってから、城跡のまわりを半周くらい回って、野菜の無人直売所の角を入った先に城の説明看板があります

みなさまにはよくお分かりのことかもしれませんが、初心者はこっちであっているのか、本当に中に入れるのか、かなり不安になりながら進みましたので、ご参考まで

2025年01月26日 千葉相模守早雲
米本城



千葉氏被官だった総州村上氏の居城。村上国綱・綱清が城主を務めたと伝わっています。

米本城は臼井城の支城として、太田道灌の臼井城攻め、安房里見氏の侵攻、上杉謙信の臼井城攻めなどの戦いを経るも豊臣秀吉による小田原征伐後に廃城となったと考えられています。南北に伸びる舌状台地に4つの曲輪が並び曲輪の間には3つの堀を設けていたようですが、南側の曲輪Ⅰ・Ⅱの大部分は開発により失われています。

案内板が曲輪Ⅳの土塁脇に設置されています。案内板の左手は私有地と思われるので、真っ直ぐに進むべし。
曲輪Ⅲ北側にある一の堀は藪に覆われているものの、心の眼で見ればそれらしい形状は見て取れるでしょう。

曲輪Ⅳは改変を受けているが、南側に僅かに土塁が残り、その向こうに幅広のニの堀が見えます。案内板によれば凹型に掘り込んだ箱薬研堀とのこと。上を見上げれば、曲輪Ⅱの土塁が聳え立っています。

曲輪Ⅲの周囲は土塁が巡り、その一部に咳の神様を祀った祠あり。先に進むと曲輪Ⅱへ繋がる土橋。土橋の右側は削り取られて私有地化、左側には二の堀があります。
土橋の先は曲輪Ⅱの土塁のみが残っていますが、道は細く足元も危ないので、ここから先に進むのはやめた方が良いでしょう。

1.一の堀。
2.曲輪Ⅳの北側の土塁。
3.曲輪Ⅳの南側の土塁。奥の薮が二の堀。更に奥に曲輪Ⅱの土塁。
4.二の堀。
5.曲輪Ⅲの土塁。
6.土橋。その先に曲輪Ⅱの土塁。
7.土橋から見下ろす二の堀と曲輪Ⅱの土塁。
8.案内板。

2025年01月06日 マグロ常陸介祐平
井野城[米本城  周辺城郭]



八社大神社周辺が城址となります。城主や来歴などは不明ですが、神社の案内板には「臼井城の支城として築かれたと推測される」と書かれています。造成により消滅した北東部分の発掘調査では、土塁や貯蔵庫、井戸等の構造や美濃・瀬戸窯製の平碗や花瓶、中国産の青磁、かわらけ、擂鉢、内耳鍋などが出土したようですので、そこそこの身分の武士が居館していたと思われます。

付近は造成が進み、残る遺構はお城の一部分ですが、断片的に見られる土塁の他、神社の北側には削平のあまい大きな窪みがあり、謎の遺構です(写真6枚目)。報告書には「土塁に囲まれた主要な区画を竪穴状に大きく掘り込んだ特異な構造」としていますが、見た目にはお城の構造とは思えないものです。

城域に鎮座する神社は、彫刻の素晴らしい本殿を見ることが出来ます。

2025年01月05日 マグロ常陸介祐平
青菅陣屋[米本城  周辺城郭]



江戸時代初期の旗本、川口宗勝の陣屋です。称念寺付近が跡地のようですが、遺構は見当たりません。

川口宗勝は、それほど知名度が高くはありませんが、面白い経歴を持つ武将です。川口家は、祖父の代から織田家の家臣ですが、宗勝は父の宗吉の反対で当初織田家には仕えず、柴田勝家に仕え、後に信長の直臣となり尾張沓掛城主として1万3000石を賜り、信長の死後は信雄に仕えます。その後豊臣秀吉に仕えて1万8000石を領しています。関ヶ原の合戦では、西軍として参戦して伏見城攻めに加わり(寛政譜では「石田三成が反逆にくみし」と表現)、敗戦後は高野山に登り、後に伊達政宗に預けられています。普通の武将ならこれで終了ですが、ラッキーなことに家康と祖母(華陽院)が同じ又従兄弟の関係にあることから許されて、慶長11年(1606年)秀忠から2500石を賜り青菅に陣屋を築いています。元禄11年(1698年)に五代目の宗直が安房国藤井に所領替えとなり、陣屋は廃されたようです。

宗勝のお墓は、寛政譜では陣屋から東に200m程の正福寺(写真6枚目,墓石は見当たらない、お寺の周囲は城郭的な雰囲気がある)となっていますが、何故かこのお寺ではなく青菅小学校の敷地内にある大塚という古墳状の塚が宗勝以降の四代のお墓とされています(写真4,5枚目)。旗本のお墓としてはかなり珍しい形式です。

2025年01月03日 マグロ常陸介祐平
先崎城[米本城  周辺城郭]



「まっさきじょう」と読みます。城主などは不明のようですが、江戸時代中期の軍記物である関八州古戦録の謙信による臼井城攻めの章(1565年の出来事)に臼井城の支城として本庄繁長、北条丹後守、新発田治長が攻めたと記載されているようです。お城の真下にある先崎地蔵尊には、慶安3年(1650年)に造立された石仏が祀られていますが、本願主は友野河内で、お堂の左側には城主の墓と伝わる宝篋印塔が建っています。宝篋印塔は、慶安3年の年号が刻まれているので、年代は合いませんが、状況的には友野氏がお城とかかわっていたように思えます。

お城は、民家の庭先の奥にある為、近くの鉄塔から遠目に見ることになりましたが、土塁は確認出来ました(写真3,5枚目)。お城の西側に鎮座する鷲神社にも、土塁状の土盛りが見られますが(写真1,6枚目)、遺構かどうかは微妙な感じです。

文化財が豊富な場所で、鷲神社の鳥居と彫刻の素晴らしい本殿、ケヤキ(天然記念物)、先崎地蔵尊などを見ることが出来ます。

2024年08月23日 ᴿᴱᴰ副将軍
米本城



大規模な空堀が残る村上氏の居城🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代等の詳細不詳。室町期から戦国期にかけて当地の有力土豪であった村上氏の居城と云われます。
総州村上氏は、清和源氏村上氏の庶流とされ、村上義清と同族氏族とされ、千葉氏に属したとされます。
文明年間(1469年〜1487年)には太田道灌に攻められ落城したとも伝わります。

見所
新川東岸の南に延びる比高20mの舌状台地上に築かれています。台地先端に一の郭を置き、二の郭、三の郭と三つの郭を連なっていましたが、一の郭と二の郭は採土によりほぼ消失。
三の郭と東側の腰郭、二の郭と三の郭を隔てる空堀が残存しています。
空堀は土橋が架かり周囲に土塁が残っています、大規模であり見応えがあります。

行き方は、米本神社を目標にし設定。城の方に向かうと案内板と登城口があります。比高は約20mしかありません。

2024年06月17日 マグロ常陸介祐平
志津城[米本城  周辺城郭]



京成線の志津駅の改札を出ると「上志津探訪マップ」がすぐに目に入ります。駅を出ると「志津城下南参道」の巨大看板(写真8枚目)があり、志津駅南口商店街がお城を町おこしのシンボルにしているのが伝わります。

伝承では志津城は、臼井城主臼井祐胤の弟の志津二郎胤氏の居城とされています。胤氏は、兄祐胤が亡くなると幼い兄の子の竹若丸(行胤→興胤)の後見として臼井城に入り、簒奪をはかります。竹若丸は、同族の岩戸城主岩戸五郎胤安(後に胤氏により落城討死)に助けだされ鎌倉で成長、足利尊氏のもとで武功をあげ、尊氏の力で臼井城を返還させます。志津城に戻った胤氏は、行胤(後に興胤)に攻められ落城、城は廃城になったようです。

お城は、天御中主神社(千葉氏の系統らしく妙見菩薩が祀られ、彫刻が美しい、写真7枚目)のある曲輪とその北側にもう1段高い曲輪(写真1枚目)の二つに、東側に池となっている堀跡?(写真2枚目)と西側には堀切かもしれない切通し(写真6枚目)が見られます。今残る遺構は、居館というよりは砦のような感じを受けます。城域からは人骨や古銭、かわらけなどが入った室町時代の常滑焼の大甕が見つかり、胤氏のものかもと話題になったようです。

探訪マップの史跡では、小さいお宮ですが茅葺き屋根に見事な彫刻が施された八幡神社がオススメです。コースは1時間半程度で回ることができます。

2024年04月12日 あんどー大宰大弐
米本城



説明板を見る限りはかなり広い城趾です。しかし、奥の方は険しく、私有地もあるため進めません。郭となっている広場はたまに利用されており、神様の祠まではすぐに行けます。その先の切り立った土塁は、途中大穴がぽっかりと開いており、危険なため進むのは断念。

説明板の向かいに建っている新しい集合住宅のマンション名がキャッスルアントレ。城の入口という意味のようです。…なんか、ありがとう!笑

2023年01月12日 餅月民部少輔慎吾
志津城[米本城  周辺城郭]

神社を含むこの一帯は志津城跡と考えられ、中世には志津氏あるいは千葉氏系統の豪族の館があったとされています。案内板抜粋

2022年08月31日 yama清正
米本城



周辺は民家で駐車場はありませんので気をつけて下さい。

今は登城口付近が工事中で工事がはじまる前に工事車両が停める場所に停めさして頂き短時間で登城してきました。
登城口に説明板があります。
あまり整備はされていませんが、僅かに土塁と郭跡が残ってます。

2022年04月30日 千葉相模守早雲
七百餘所神社[米本城  寺社・史跡]



弘安年間(1278年〜1288年)の創建と伝わります。名前の由来は、永禄元年(1558年)または永禄4年(1561年)、米本城落城の際、城主の村上綱清と家臣700名がここに逃れて、全員自刃したことによるらしい。700人は多過ぎるので、自刃は7人との話も。

村上綱清は千葉氏に仕え、信濃の村上義清と同族で清和源氏村上氏の流れを汲むと言われています。

2022年02月14日 マグロ常陸介祐平
米本城



八千代市郷土博物館で情報を仕入れ、博物館近くの正覚院(武士の館跡)、川を渡った彫刻が素晴らしい飯綱神社(砦跡)をまわり米本城跡に向かいました。入口には案内板に概要や縄張が説明されています。通路からは土塁と空堀が見えますが薮となっており近づけません。先に進むと咳の神様があり、A4サイズの城の伝説の説明文があります。その先が土橋ですが、大きな穴があいており危険な状態で引き返しました。城址近くの長福寺には城主の村上綱清の供養塔があります。周囲には米本神社(今でもオビシャの信仰物が供えられている)や米本稲荷神社(彫刻が良い)があり大変楽しめる地区でした。

2021年02月02日 梨栗桃
米本城



米本神社前という交差点を西に入る。
200mほど進むと空き地にネットが張ってあり、米本城跡(せき神様)との案内板がある。【写真】
・・・のだが、間に合わせで設置した感が多々ある案内板なので、いつまで残っていることか。
そこから先は、道なりに進めば良い。

2017年09月08日 野呂利左衛門督休三
米本城

米本城の村上氏の家老は加茂氏と言われており、米本村加茂文左衛門所蔵文書に北条家から村上綱清に現在の市原市内に所領を与える文書が残っています。村上氏の菩提寺として建てられた長福寺には村上綱清のと伝えられる墓の他に、加茂一族のと思われる墓もあります。
また城の周囲には根古屋などの城にまつわる地名の他、矢中やおんまわし、根宜地(ねぎち。「にげち」の転訛か)など落城にまつわる地名もあります。
郷土博物館との中間地にある七百餘神社も、この地で七百三人が落城に伴って亡くなったことからこう呼ばれるようになったとされています。
地元の伝承では太田道灌と村上綱清が戦ったとされていますが、太田道灌は十五世紀中後期、村上綱清は十六世紀中期の人物です。太田勢が享徳の乱に臼井城を攻めていることと16世紀半ばの戦乱(里見や上杉謙信の侵攻)の混同が考えられます。

2017年09月07日 野呂利左衛門督休三
米本城

現況では残っている部分で立ち入れるのはⅢ郭とⅣ郭のまです。概念図ではⅡ郭の北側土塁と矢倉台?、Ⅰ郭の東側土塁があります。
Ⅲ郭土塁に咳の神様(御神体は康永四[1344]年の板碑)とあんば様がありますが、その向かいに立ち入り禁止として紐が張っている先が土橋で、その先左に折れている部分がⅡ郭の北側土塁です。土塁のみ残してバッサリと削り取られていますので、幅3m程度しかありません。しかも土橋から土塁上に登る途中に深さ1mくらい、直径が人1人くらいの穴がポッカリ(戻る時がコワイ)。土塁に登りついたすぐ先も藪になっているため、非常に危険な感じがしたのでそこから先は断念しました。
米本城の縄張図を見るとすぐ北側の住宅敷地も郭のように見え、道も堀の名残のように見えなくもありません。果たしてどうだったのでしょう。

2016年11月15日 征夷大将軍ヒトリモン
米本城

先人の口コミにもある通り入口はわかりづらいです。
国道16号の米本神社前交差点を西へ200mほど進んだあたりに右手(北側)にゴミ集積所があります。その南側の未舗装路が入口になります。案内板はありません。
入口を100mほど進んだところにキレイな説明板がありました。

入口を200mほど西へ進んだ下りカーブに軽2台程度の駐車スペースがあり、そこに鉄馬を停めました。

2016年02月24日 藤井伊賀守
米本城

入り口がわかりにくいですが、米本神社という、交差点から、竹薮の方に入っていくと、民家の間に、案内板のあるところに、通じる通路があります。土塁と、堀が、良く残っています。

二郭、主郭は、残念ながら、ほぼ消滅しています。

市立郷土博物館に、復元模型があり、それによると、二郭と一の堀の一部も、残っているようですが、見落としました。

2012年03月10日 ブヒタロウ
米本城

ヨナモトでなかぁ?

米本城の周辺スポット情報

 説明板(碑・説明板)

 先崎城(周辺城郭)

 志津城(周辺城郭)

 青菅陣屋(周辺城郭)

 井野城(周辺城郭)

 下高野館(周辺城郭)

 正覚院館(周辺城郭)

 権現山砦(周辺城郭)

 島田城(周辺城郭)

 神久保寺台遺跡(周辺城郭)

 椿山遺跡(周辺城郭)

 保品竜害城(周辺城郭)

 長福寺(寺社・史跡)

 高津ひめ神社(寺社・史跡)

 時平神社(寺社・史跡)

 大和田時平神社(寺社・史跡)

 七百餘所神社(寺社・史跡)

 熊野神社(寺社・史跡)

 八千代市観光協会(御城印)

 長福寺駐車場(駐車場)

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