古屋城(こやじょう)
古屋城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 千葉県四街道市物井字北ノ作他
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 臼井氏、物井氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、腰曲輪、櫓台、土塁、横堀(空堀)、障子堀、井戸
指定文化財
- 市史跡(物井北ノ作の古屋城跡、物井古屋城址の白磁の井戸)
再建造物
- -
周辺の城
-
城城(千葉県佐倉市)[3.7km]
佐倉城(千葉県佐倉市)[3.8km]
謙信一夜城(千葉県佐倉市)[4.1km]
臼井城(千葉県佐倉市)[5.4km]
木出城(千葉県四街道市)[5.7km]
師戸城(千葉県印西市)[6.8km]
本佐倉城(千葉県印旛郡)[7.0km]
根古屋城(千葉県八街市)[8.3km]
御茶屋御殿(千葉県千葉市)[8.6km]
高品城(千葉県千葉市)[9.4km]
古屋城の解説文
古屋城の口コミ情報
2025年02月15日 千葉相模守早雲
古屋城
現在は物井古屋城跡広場として整備されていますが、周囲は宅地開発で失われています。城跡広場内には、方形の主郭の北側から西側にかけて空堀を巡らせ、東側に腰曲輪、空堀を挟んで北側にも小曲輪が残っています。小曲輪は台地先端にあり、物見曲輪だったのでしょうか?空堀は埋め戻されているが、発掘調査により障子堀だったことが分かっています。
また台地の東側の谷を挟んだ向かいには、北ノ作遺跡があり、腰曲輪などの城郭施設が残っているそうです。こちらは古屋城の出城で、間の谷間は根古屋だったのではないかと想像してしまいます。
1.主郭(左)と小曲輪(右)間の空堀。
2.小曲輪の虎口。
3.主郭の西側の空堀。障子堀が埋め戻されている。
4.主郭北側の土塁。
5.主郭。
6.主郭南側の土塁。
7.主郭東側の腰曲輪。
8.案内板。
2025年01月23日 マグロ常陸介祐平
大篠塚城[古屋城 周辺城郭]
小篠塚城から西に約1km、馬渡大内城から北に約800m、来歴等は不明のようですが、小篠塚城の支城でしょうか。
近所の方に、入口を尋ねたところ、「民家と民家の間に入口があるが、薮が酷く今は通れる状態ではない」と言われました。たまたま路地に入ったカーブの小さな祠の裏に人の入った痕跡を見つけ、進んでみると、直ぐに郭へと向かう切り通し(写真3,4枚目)に出ることが出来ました。目の前に大きなイノシシ2頭がお出迎え、幸い切り通しをすごいスピードで逃げていってくれました。切り通しを登って行くと、折れる部分からは、そのまま郭を囲む横堀となっています(写真6枚目)。堀からの土塁の高さは2m程度ですが(写真2,6枚目)、土塁の上から郭を見ると、郭の内部は5~6m程低くなっています(写真1枚目)。先程のカーブ付近に小さな虎口があり(写真7枚目)、緩やかに郭内に降れるようになっていますが(写真8枚目)、土塁は高さの割に巾が狭く、どうやって防衛するのか想像がつきません。攻めやすく守りにくいお城に感じられます。
写真うつりが悪く、伝わりにくいと思いますが、小さいながらも変わったお城で、インパクトがあります。行かれる方は、イノシシに気をつけてください。
2025年01月22日 マグロ常陸介祐平
馬渡大内城[古屋城 周辺城郭]
馬渡馬場館から西に約1.5km、大篠塚城や小篠塚城のある台地の鹿島川を挟んだ対岸の台地の先端に位置しています。馬渡馬場館同様、城主や来歴は不明のようです。2郭に妙見宮が祀られていることから(写真1枚目)、千葉氏の系統の武士が城主と推測出来ますが、祀られている石の祠は江戸期のものと思われます。
小さな集落から切り通しのクランクした坂(写真2枚目)を登ると道はそのまま主郭と3郭を区切る堀(写真8枚目)のようになっています。軽自動車が通れる感じですので、後世の改変があると思われます。南側の主郭内部は激薮の為入れませんが、西側には高さのある土塁(写真4枚目)があり、その先で東に向かって折れています。3郭は妙見宮の左側に薄い土盛りが見られますが、お宮の参道のものかもしれません。3郭の中央付近は塚状に盛り上がっており、塚の上には天然記念物級の真ん中が球状になった巨木が立っています(写真7枚目)。3郭の東側が2郭で、薄い堀と低い土塁(写真5枚目)に虎口(写真6枚目)がついています。2郭の東側の一段下がったところにやや広い腰郭があり、不動堂が建っています(写真3枚目)。不動堂の参道は民家の庭に直結しているため、元来た軽い薮を戻るか、2郭と3郭を区切る薄い空堀と接続する竪堀から、最初に通った切り通しまで1.5m程飛び降りることとなります。近道のつもりで飛び降りましたが、少々怖いおもいをしてしまいました。
2025年01月10日 マグロ常陸介祐平
古屋城
四街道市の解説を要約すると、千葉勝胤の弟の少納言(臼井氏の養子に入った臼井持胤)の子の物井右馬助(=臼井幸胤?)が戦国時代初期の城主と比定されているようです。永正2年(1505年)に千葉妙見宮(千葉神社)で行われた千葉勝胤の嫡男昌胤の元服式に参列した金剛寺少弼は、関係する人物と考えられているようです。
台地上の要害の地に築かれたお城は、方形の主郭を土塁と空堀が囲こみ腰郭が付属するシンプルなものに感じますが、発掘調査では障子堀が検出されるなど技巧を凝らした面もあったようです。
城址公園として見やすく整備されており、説明板なども充実していますが、昨年2月に先人様が口コミされた発掘調査中の障子堀は、残念ながら埋め戻されていました。
2025年01月09日 マグロ常陸介祐平
館ノ山(館山)城[古屋城 周辺城郭]
城主等不明のようですが、古屋城から南に1km程の距離にあり、支城でしょうか。
物井13号緑地付近が該当地のようですが、JR物井駅近くということで造成が進んでおり、近年まであったらしい遺構は、残念ながら消滅していました。台地の先端部分に位置しており、お城に適した立地と思われます。
2024年02月27日 あき親父19下総守
古屋城
朝の散歩で訪れましたが、第一入口から主郭へ上がった右側の土塁の外側が掘り返されており『障子堀』!?のような跡が見ることができます。近くに「印旛郡市文化財センター」のテントがありましたので、おそらく遺構の調査をされているのではないでしょか。訪れた方が明確に見れるように保存してもらえるとありがたいです。
2024年02月25日 マグロ常陸介祐平
山梨城[古屋城 周辺城郭]
臼井氏一族の山梨氏の居城でしたが、戦国時代中期には千葉昌胤の三男の政胤が月見里(ヤマナシ)氏を称して居城したと伝わるようです。養子として送りこまれたのでしょうか、わかりづらいお話です。
千葉一族のお城らしく妙見神社が祀られています。
神社の周辺の狭い範囲のみ遺構が残る状況で全容はわかりませんが、巾のある空堀や土塁から、そこそこの規模があったのではないかと想像出来ます。
2024年02月25日 マグロ常陸介祐平
和良比堀込城[古屋城 周辺城郭]
昭和55年から平成2年まで、7年にわたる発掘調査で、主郭を防御する土塁・柵列・空堀・虎口・複数の郭・虎口全面の馬出の構造を持つ城ということが確認されています。
城主は臼井一族の蕨氏と考えられているようですが、里見氏や原氏との関与も想定されているようです。
空堀からは落城後に意図的に落とされたと推定される板碑・五輪塔・宝篋印塔が出土しており、その中には北朝年号を印したものもあることから、周辺の武士が南北朝時代に尊氏方に属していた事を裏付ける史料の1つになっているようです。
発掘調査後に開発が進み、城域の一部が「堀込城跡緑地」として公園化されています。
公園内に残る遺構は主郭部分ではありませんが、一部が二重となった土塁や空堀を見ることが出来ます。
2024年01月12日 あんどー左近衛少将
小篠塚城[古屋城 周辺城郭]
駐車場案内図と駐車場の大きさが反比例して、とても小さい駐車場です笑 途中までの道もなかなかの狭さ。
駐車場から袖摺坂は急斜面で土が柔らかく少し登りにくい。本丸、二の丸は保存会のおかげでかなり開けた跡のまま維持されてます。
お寺の前の広場が見台跡で、伐採もされてるのでかなり遠くまでよく見えます。正面がQVCの大きな建物。
全体的によく整備されており、巡りやすかったです♪
駐車場側は池になっており、これは当時からあったなら防御はしやすかったはず。隣はレンコン畑です
2022年05月02日 すなちゃん武蔵守
古屋城
古屋城跡の城郭は、ほとんどが空堀で成形されており周囲には複数の曲輪や腰曲輪がある。
また、腰曲輪や障子堀などが発掘調査で見つかっており、その上に盛土をしたりして何回か構造を変化させている
2021年01月15日 ファン掃部助トム治郎
古屋城
物井駅の北西、新興住宅地の一画にあります。割としっかりした遺構です。城見物件をおお、近くにある大きなローラー滑り台を伴う公園あり子供たちと遊びました。
2020年06月15日 国府左京大夫城介
大篠塚城[古屋城 周辺城郭]
以前口コミで投稿した小篠塚城から、西に1.1km程の所にある城です。
【歴史】築城者・築城年等、一切不明です。ただ、位置的に小篠塚城の支城だと考えるのが妥当だと思います。
【遺構】単郭式の城で、北側・西側には空堀、土塁が残っています。東側・南側は、自然の地形をそのまま利用した崖になっています。
見所は、北側の6,7mはある土塁と、西側の竪堀になります。
また、この城の面白い所は、郭内が空堀より低い位置にあり、そのために高い土塁を築いたのかもしれません。
ただ、城内は竹林となっている上、特に整備がされている訳ではないので、倒竹が多く、歩きにくいです。
【アクセス】総武本線・物井駅から徒歩で20分。
駐車する場所はありません。
2020年06月05日 国府左京大夫城介
小篠塚城[古屋城 周辺城郭]
小篠塚城は、千葉氏によって、鎌倉時代後期から室町時代初期に築城されました。当時、この辺りは香取内海と呼ばれる内海に接し、更に千葉城と佐倉城を繋ぐ陸路にも接する交通の要所でした。そのため、古河公方である足利成氏や足利政氏が、小篠塚城に動座(居を移すこと)しています。
小篠塚城は、比高10m程の台地上に築城されています。台地はほぼ平坦で4つの郭に別れています。各郭は、基本的に土塁と堀で囲まれた造りになっていますが、かなり土塁は崩されています。しかし、主郭の土塁はほぼ残っており、虎口もはっきりと残っています。主郭北側は、かなり深い横堀となっており、これは堀底道としても利用されていたようです。
城内の各所には案内板が設置されており、地元の保存会が城内を整備してくれているようです。この辺りの城にしては、珍しく駐車場が整備されています。
2020年05月30日 国府左京大夫城介
山梨城[古屋城 周辺城郭]
山梨城は、別名・月見里城とも言います。
「月が綺麗に見える里には、山がない」という言葉遊びは、中々洒落ていると思います!
さて、鎌倉時代中期に、臼井氏の一族が山無氏(山梨氏)と称して、この辺り(四街道市山梨)を治めていました。山無氏は、千葉氏宗家に重臣として仕えており、第24代当主千葉昌胤の三男・政胤が月見里氏と称して、ここを居城としていたようです。
城の造りは、方形の居館と推測されます。しかし、宅地開発の影響で、遺構の大部分は失われていますが、妙見社の周囲にはかなり遺構が残っています。この地域の城郭の特徴である幅広の空堀や高い土塁が残っています。また、この場所から常滑焼の大甕が出土したそうです。
2019年04月27日 灰猫☆上総介
説明板[古屋城 碑・説明板]
古屋城跡説明板
地面にはチップを撒いてありますが、足下が沈むので注意。
2019年04月23日 灰猫☆上総介
駐車場(千代田公民館)[古屋城 駐車場]
物井古屋城跡広場利用者駐車可(公民館利用者優先)
公民館は城跡からは少し遠いので、短時間だったら城跡広場入口近くに駐車可能かと思われます。(個人の感想です)
2019年04月23日 灰猫☆上総介
古屋城
四街道市ホームページでは、「物井古屋城跡広場」と記載されています。駐車場は道路を渡って少し歩いたところにある千代田公民館の駐車場が使えると記載しています。
(市ホームページより)
物井駅西口より徒歩15分
駐車場なし(千代田公民館駐車場(舗装なし)をご利用ください。公民館利用者優先です)
トイレなし(千代田公民館をご利用ください。公民館事務室にお声掛けください)
千代田公民館近隣
城内に夜間用街灯はございません
2018年01月13日 氣志本下総守幸兵衛
古屋城
立ち入り禁止は解除されていました。
古屋城跡広場として解放されています。
2017年08月06日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
古屋城
物井について
古屋城は物井に移住した千葉氏22代孝胤の三男右馬助から始まる物井氏が治めたとされる。この物井の由来が中々に興味深いものであった。時を遡る事1500年程前、6世紀前半に有力軍事氏族物部氏12世物部小事が坂東を征した功で匝瑳郡が建郡され、下総物部氏が始まったという。そこから時を下ること平安時代初期、小事の子孫を称する物部匝瑳氏が印旛郡まで勢力を伸ばした。物井の地は根拠地となり物部郷と称したそうだ。物部郷がいつから、何故、物井と称されたのかは不明だが、円福寺によるとこの集落に水の清き井戸が数多くあり、その為「物部の井戸」から「物井」と称されたと言われる。因みに現在、都市再生機構が開発している「もねの里」の「もね」とは物井の本来の発音であるそうだ。
物井には室町中期から江戸期まで修験道場として栄えた御山や木曽義仲の土着した子孫を称する名主櫻井家の守護神弁財天が祀られており、この地の歴史を感じることができる。
2017年03月18日
古屋城
3月18日現在、工事は終わってるけど、相変わらず立ち入り禁止です。
勝手に入らないように(笑)
2017年01月04日 氣志本下総守幸兵衛
古屋城
お正月休みに行ってみたところ、公園整備はほぼ終わっているようですが、まだ立ち入り禁止になってました。
2016年10月15日 まー刑部卿
古屋城
公園整備工事は〜10/31とあったが今年いっぱいかかりそうな状況だ。
2016年08月28日
古屋城
改めて、行ってみると、工事は9月いっぱいまでかかる模様。頼めば、入れてくれそうだけど。
2016年07月26日
古屋城
公園工事は、8月、お盆過ぎまでかかるそうです。畝掘は埋め戻します。
また、北の作遺跡は、老人ホームになるようです。
2016年06月24日 雑賀
古屋城
主郭は民家の敷地で、家人の方が見せて下さる場合もあるとの情報をもとに、お会いできなかったら外観だけでもと思い行ってみました(女は度胸)
訪れてみると、数年前とはおそらくすっかり様変わり.…というよりも現在進行形で公園として造成中(平成28年6月)
邪魔になる状態でもなかったので、整備中のところを作業員の方にお願いし、上がらせて頂きました(女は愛嬌)
まっさらに整備された主郭には、市史跡の井戸があります.
台地最先端で防衛最前線であったはずの主郭北側は道路により消滅してしまったようです.
南側と西側は工事により奥まで見ることは出来ませんでしたが、土塁や空堀の一部は確認. 東側の腰曲輪は非常に分かりやすい形で残存.
今回見られなかった部分を含め、昨年発見されたばかりという障子堀もぜひ見てみたいので完成後に再訪したいと思います.
なお、谷を挟んだ東側の『北ノ作遺跡』にも郭や土塁、障子堀が発見されているそうです.
駐車場はまだありませんが、短時間であれば近隣に駐車可能かと思います.JR駅からも徒歩圏内.
遺構
印旛沼へ向かって流れる鹿島川左岸の、北向きの台地先端に位置する。主郭は台形状となっており、東西方向に上辺約40m下辺約80m、南北約80mの規模となっている。主郭北側は堀切を挟んで台地先端に向かって小郭が確認され、南側は民家となっている。
現在、城跡が「物井北ノ作の古屋城跡」として、昭和52年(1977)に白磁椀が見つかった井戸が「物井古屋城址の白磁の井戸」として市の史跡にそれぞれ指定され、同年に主郭内で発見された「亀甲つなぎ散らし双鶴亀鈕鏡」が市の文化財に指定されている。
また、平成27年(2015)5月~7月にかけて城域南東端で行われた発掘調査では腰郭や土塁の他、台地平坦部の直下に障子堀が発見されている。
古屋城から谷を挟んで東側に位置する「北ノ作遺跡」においても、郭や土塁、障子堀などが発見されており、古屋城の出城としての機能を持っていたとの見方もある。
歴史
築城主・築城年代は不明だが、四街道市公式サイトによると千葉氏・臼井氏一族の関連城址とし、戦国期には“千葉氏御一家物井殿居城カ”としている。それらを裏付けるように前述の発掘調査では、中世前期から16世紀代を下限とする遺物・遺構が発見されている。また、障子堀の出土から後北条氏との関連も考えられる。
交通
・JR東日本総武本線物井駅から徒歩で約15分参考文献
・『房総の文化財 VOL.55』公益財団法人 千葉県教育振興財団、2015年10月。・四街道市公式サイト(http://www.city.yotsukaido.chiba.jp/)。