根古屋城(ねごやじょう)
根古屋城の基本情報
通称・別名
- 根古谷城
所在地
- 千葉県八街市根古谷丸ノ内、堀之内
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 円城寺氏?
築城年
- 享徳年間(1542〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 円城寺氏?、粟飯原氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
御茶屋御殿(千葉県千葉市)[4.7km]
木出城(千葉県四街道市)[5.7km]
中野城(千葉県千葉市)[6.3km]
多部田城(千葉県千葉市)[7.0km]
城城(千葉県佐倉市)[7.3km]
古屋城(千葉県四街道市)[8.3km]
本佐倉城(千葉県印旛郡)[10.0km]
佐倉城(千葉県佐倉市)[10.2km]
中沢城(千葉県富里市)[10.9km]
高品城(千葉県千葉市)[11.5km]











































根古屋城の口コミ情報
2025年01月21日 マグロ常陸介祐平
馬渡馬場館[根古屋城 周辺城郭]
岩富城から北に約1.5km、千蔵寺が城址となります。城主や来歴などは伝わっていないようです。また、城址に建つ千蔵寺の由緒も不明となっています。千蔵寺の墓地には、江戸時代以降の名和氏の墓石が並んでいますが、名和という名字は千葉県でも袖ヶ浦、市川、松戸、佐倉に集中しており、大字単位では馬渡に最も多く見られるので、関連があるのかもしれません。
千葉市立郷土博物館のコラムによると馬場の地は、鹿島川の渡河点の防衛と、印旛沼から鹿島川へ船を使って運んだ物資を馬に載せ替える物資の拠点の防衛する機能があったのではないかとしています。
お城は、50×30m程の小規模なものですが、南側や北側から西側にかけて土塁が周り、北側は空堀(写真8枚目,写真ではよくわからない)に土橋が見られ、遺構の状態は比較的良好です。
2025年01月20日 マグロ常陸介祐平
岩富城[根古屋城 周辺城郭]
文明4年(1472年)、千葉氏の重臣原氏の一族で弥富原氏の3代目原景広が築城したと伝わるようです。天正18年(1590年)の小田原の役後の家康の関東入部の際に北条氏繁の子の北条氏勝が、玉縄城で家康に降伏後、下総方面の北条方諸城の開城説得の功績により、1万石を与えられ岩富藩が成立しています。養子で保科正直の子の氏重が下野富田に転封となり、岩富城は廃城となっています。氏重はその後、無嗣断絶となりますが、氏勝の実弟で養子となった(重臣の反対で家督を継げず)、繁広の家系が旗本として存続しています。
お城は、台地全体が城域だったようですが、今残る明確な遺構は、台地中央を通る道の西側には独立した郭が2つとなっています。北側の主郭は五角形で土塁や土橋や虎口(写真1,2,7枚目)、深さのある空堀(写真3枚目)が見られますが、先陣様の口コミ通り神社地ではありますが、遺構は薮が多く見やすい状態ではありませんでした。南側の郭は民家の南から西側にかけて残っていますが、民家ということもあり近ずいて見ることができません(写真5枚目)。おそらくですが、この2つの郭が北条時代のお城で(1万石なので)、台地中央の道が城下町の名残のような感じではないでしょうか。
氏勝はこの地で亡くなっており、北に5km程離れた菩提寺の宝金剛寺に埋葬されたようですが、墓石などは不明となり、平成23年に再建されています(写真6枚目)。また、氏勝に寄進された袈裟やお椀など3点が令和5年に千葉県の文化財に指定されています。
2025年01月19日 マグロ常陸介祐平
坂戸馬場城[根古屋城 周辺城郭]
弥富原氏の岩富城から北西に約800m、西福寺が城址となります。
お寺の西側には、片側に鐘楼が建つ程の立派な虎口があり(写真3,5枚目)、北側の地蔵堂の裏側にも土塁が見られます(写真6枚目)。遺構は虎口と北側の土塁のみですが、見た感じは寺院の構造物というよりは城郭的なものに感じられます。
西福寺は、永仁年間(1293~1299年)に千葉胤正が建立した阿弥陀堂が起源とされ、高連社良栄上人が応安年間(1368~1374年)に開山、お寺に伝わる念仏踊は、千葉県の無形民俗文化財に指定されています(写真4枚目)。お寺は戦国期以前から存在しており、城郭としての伝承は無いようですが、お寺は南向きということで山門は南側にあり(写真1枚目)、武装したお寺であれば、虎口と山門は一致してもよさそうなのですが、西側に虎口が開口する理由がわかりません。(後世、街道に合わせて向きを変えた可能性もありますが)
境内にあるイチョウの木は、佐倉市の天然記念物に指定されており、見応えがあります(写真2枚目)。
2025年01月17日 マグロ常陸介祐平
坂戸尾牛城[根古屋城 周辺城郭]
存続問題で話題となっているDIC川村記念美術館の第4駐車場の南に鎮座する正八幡尾牛八幡神社が城址となります。日本城郭大系には、「原遠江守胤守の居城。遺構は不明」とのみ書かれています。岩富城から西に1km程に位置しており、胤守は弥富(岩富)原氏の一族と思われますが、系図には見られません。弥富城主には遠江守胤則がいますが、同一人物でしょうか。
遺構は不明と書かれている通り、ハッキリした遺構は見当たりません。台地の縁にあり、神社の下段には帯郭状の削平地(写真1,2枚目)がありますが、同様の立地にある一般的な神社との大きな違いはありません。神社の建つ主郭は、神社の規模に対して広さがあり(写真3,8枚目)、背後には塚状の土盛り(写真4枚目)が見られます。
2024年01月15日 千葉相模守早雲
根古屋城
民家や私有地に囲まれていますが、田に面した北側の道路を回ると根小屋城の案内板を見つける事が出来ます。
その案内板の細い脇道を行くと、鳥居の先に天満宮があり主郭となっています。主郭の周りには土塁がハッキリと残り、虎口も伺えます。土塁の向こうには大堀があり、一部は二重堀になっているのも見て取れます。
1.大堀。
2.主郭虎口。
3.主郭の土塁。
4.主郭から見下ろした堀。その奥にも堀が見て取れる。
2022年10月17日 国府左京大夫城介
岩富城[根古屋城 周辺城郭]
岩富藩主・北条氏勝の居城
【歴史】
文明4年(1472)に、千葉氏の重臣・原氏の一族である原景広が弥(岩)富の地に築城し、その子胤行(弥富原氏)が城主となった。
天正18年(1590)に、小田原征伐により千葉氏と共に弥冨原氏が滅びると、徳川家康に降伏し家臣となった北条氏勝(北条綱成の孫)が、この地に一万石で封ぜられた。慶長18年(1613)に、氏勝の養子である氏重が、下野富田に移封されると、岩富藩は廃藩となり、廃城となった。
【遺構】
根古屋城の北西2.9kmに位置し、標高30m(比高20m)の台地に築かれている。
現在は浅間神社の境内となっているが、曲輪、土塁、空堀、土橋が残る。また、台地の所々にかつての城跡の名残が残っているという。
【感想】
空堀と土橋はかなりよく残っているのですが、如何せん藪が凄すぎて、写真映りは最悪です(-_-;) さらに神社の境内だというのに藪だらけの上、あまり人が来ないのか、参道に蜘蛛の巣が張っている状態でした。藪を刈れば、それなりに見栄えのするお城だと思うんですが…
台地全体がお城であったらしく、所々遺構が残っており、南側の郵便局付近に空堀らしき跡が残っています。
【アクセス】
佐倉駅からレンタサイクルを使用して、約30分。
【写真】
①遠景(北側から)
②説明版
③登城口
④土橋と空堀
⑤主郭
⑥土塁
⑦郵便局近くにある空堀(畑の辺りが僅かに凹んでいる)
2022年08月21日 寺左京大夫にゃん
根古屋城
天神社の鳥居を潜った先に、車一台分の駐車スペースはありますが、かなりの挟路で勾配もあるので、車種問わず一般道の路駐をおすすめします。
2019年04月24日 下沼下総守雄信
説明板[根古屋城 碑・説明板]
城の入口はこの説明板の左側の道。途中、右側に鳥居があるので、この鳥居をくぐった先。ただし、小型車しか入れません。3ナンバー以上のクルマはこの説明板付近に路駐。
2019年04月24日 下沼下総守雄信
駐車場(砂利敷き)[根古屋城 駐車場]
駐車場の入口は説明板の横です。鳥居をくぐった先、左側。小型車しか入れません。この駐車場の敷地が第2郭です。
2019年04月24日 下沼下総守雄信
鳥居[根古屋城 その他]
駐車場はこの先左側にあります。ただし、この写真をご覧どおり、鳥居のおかげで3ナンバー以上の大きい車は入れません。
2019年04月14日 下沼下総守雄信
根古屋城
城の入口に写真投稿されている説明看板があるのでこれを目印に。入口すぐのところに鳥居が建っているのでこれをくぐると天神社があり、ここが主郭趾。主郭の西側は土塁と堀が残る。
神社手前まで舗装路があり、砂利敷きの駐車場があるので小さい車なら城内まで入ることができる。
城内に掘っ立て小屋のトイレがあるが、使うのに勇気がいる。訪れる前にコンビニ等で用を足しておいた方が無難。
2017年05月21日 雑賀
根古屋城
根古屋城の説明板のある左手が天満宮への入口です.
天満宮が1郭になり、向かい合い1郭と現在は一帯となっている辺りが2郭.見事な虎口がぽっかりです!
その南側と東側には大堀と呼ばれる堀、さらに外側には二の堀が一部残存しており(視認出来ず)主郭部分は、本来二重の堀に囲まれていたようです.
城址南側にあるクランクしながら北側まで続く切り通し(かつての堀底道)が、3郭の塁線の可能性が高いとのこと.3郭は現在民家になっています.
佐倉市との境界に当たる部分にも土塁などが各所に見受けられ、
特に満願寺跡と呼ばれる部分は、独立した半島状の台地であり城の西側を守る出城と推測されるようです.
資料によると、他にも近隣に砦が複数あるので 時間を掛け歩き回るのも面白そう.
そんな近隣には、先のクチコミ情報の方の記載以外にも
堀の内・ミタチ(御舘)・シメ戸といった地名が残っており
城域は広かった可能性があるようです.
※シメ戸とは処刑場のこと
2015年09月20日 やまと相模守
根古屋城
地図の位置は民家かつ一の郭ではない模様。
道が北向の舌状になっていて西側の民家と民家の間あたりに説明板がある。
その奥に続く道は、民家の入口ぽく見えるが、一の郭である天満宮にいける。天満宮の周りには、土塁や虎口がはっきり残っている。
近隣に、西御門・七曲・丸ノ内・宮内などの住所があり、城郭との関連を伺わせる。
西御門は、西御門砦跡であり、他に丸山砦・向山砦・岡田砦・用草城などに取り囲まれいる。