木出城(きでじょう)

木出城の基本情報

通称・別名

吉岡城、木出砦

所在地

千葉県四街道市吉岡字木出1385他

旧国名

下総国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

吉岡氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口、枡形

指定文化財

市史跡(吉岡軽戸の木出城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

御茶屋御殿(千葉県千葉市)[3.2km]
多部田城(千葉県千葉市)[4.3km]
根古屋城(千葉県八街市)[5.7km]
古屋城(千葉県四街道市)[5.7km]
高品城(千葉県千葉市)[6.0km]
千葉城(千葉県千葉市)[7.5km]
城城(千葉県佐倉市)[7.6km]
中野城(千葉県千葉市)[9.0km]
佐倉城(千葉県佐倉市)[9.3km]
生実城(千葉県千葉市)[9.4km]

木出城の解説文



木出城(きでじょう)は、千葉県四街道市吉岡にあった日本の城。

概要 

木出城は、吉岡城とも言われ、中世期に臼井氏の一族・吉岡氏が居城し、同じく四街道所縁の臼井氏一族山梨氏、蕨氏、中台氏、小名木氏らと共に千葉荘山梨郷周辺(現在の四街道市南部)を治めていたと言われている。「千学集抜粋」にも、天文19年(1550年)に行われた妙見宮の遷宮の際、千葉親胤の参詣に従った臼井の一門の中に吉岡氏、山梨氏、蕨氏が挙げられている[1]

旧・四街道町の教育委員会では、1971年に町内の城跡を調査して、『四街道町中世砦跡調査報告書』にまとめた。この調査のとき、木出城跡の土塁の中から五輪塔と板碑が発掘されている。板碑には、「正和元年五月十三日」などの文字が読み取れるが、施主などはわからず、千葉氏のものか臼井氏のものか、全く不明である[2]

同じ吉岡氏の居城と言われる福星寺館と関係の深い城である。福星寺館は谷津田を1つ越えた北約1キロメートルの地点にある。

構造 

城跡は、半島状の台地にあり、この台地の自然地形を利用しているため、形状は平行四辺形をなしている。城跡中心部から見て裏鬼門にあたる南西部土塁上に高さ20センチメートルの木彫り神像を祀る祠があり、さらに郭外南西部に朝日神社がある。土塁や空堀は、ほぼ完全な形で残っている。

アクセス 

  • 四街道駅・千城台駅より千葉内陸バス 福星寺入口下車 徒歩11分

木出城の口コミ情報

2021年09月29日 ファン掃部助トム治郎
木出城

千城台北駅から歩いて30分くらいです。千葉駅や千城台からのバスも近くの停留所にとまります。

2020年04月05日 国府左京大夫城介
福星寺館[木出城  周辺城郭]



福星寺館(ふくしょうじやかた)は、木出城の北700mくらいにあります。この城の歴史は、あまり分かっておらず、この辺りを支配していた千葉氏に関連する城と考えるのが妥当な所かもしれません。現在の城名となっている福星寺は、元和二年(1616)に創建されたので、実際の名称は不明とのこと。

城としては、単郭方形で城内はあまり広くありません。しかし、その広さと比較しても、土塁と堀の大きさには圧倒されます。土塁の高さは4,5mほどあり、各辺の中央に張り出す形で櫓台跡があります。ただ、お寺としての出入りするために、土塁が削られていたり、お墓になっている所があったりと、少々残念な所があります。

土塁の外側にある堀は、竹林になっていますが、かなり深く幅広であり、かなり戦闘的な構造になっています。もう少し綺麗に整備してくれると、この城の良さがはっきりすると思います。

2018年01月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
木出城

木出城の伝承
木出城の台地は地元では「本所山」と呼ばれており、四街道市の文化財調査をしていた相川日出男氏によると、本所山に「ゆうがいうさぶろうがはびこっていた」という伝承があるという。「ゆうがい」とは「要害」のことだが、「うさぶろう」とは吉岡氏の当主の事だろうか?「はびこる」と言う表現に当時の豪族の実像が透けて見えるようである。
吉岡の周辺地区は「七ヶ村」と呼ばれ、福星寺の周辺に集落があるが、木出城周辺には民家が数軒建つだけで集落と呼べるものは無い様に見える。伝承によればもともと木出城の対岸に村の中心があったが、木出城の火災を機に、「郷中」(ごうなか)(大作、東の内、内山、下タ、下田山など福星寺寄りの地区)に村人たちが転居したという。とすると、福星寺館や中山城は木出城より後に建てられた可能性も出てくる。想像だが、木出城にて火災が発生したため、吉岡氏が福星寺館、中山城を築き、村人もそれに従って転居した。後に戦国期になって必要に駆られ木出城を改修したということも考えられる。・・・飛躍し過ぎか。

2018年01月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
木出城

吉岡氏
木出城・福星寺館・中山城の城主であったと見られる吉岡氏は臼井氏の一族でこの地が発祥である。吉岡氏の痕跡を探ると浄光明寺文書に吉岡盛胤という人物が出てくる。応永28(1421)年12月11日に浄光明寺雑掌から寺領流出の訴えを聞き、三宮有国(刑部丞)とともに検地に赴き、流出を奉行所へ報告している。吉岡盛胤は鎌倉府の奉行人であったようである。また、千学集抜粋において天文19年 (1550)に行なわれた妙見宮の遷宮の際、大旦那千葉親胤の参詣に従った「臼井の一門」等の氏族・家臣の中に、 四街道地域の山梨・蕨・吉岡が挙げられている。その後の足取りを探ってみる。戦国後期には臼井氏本流は常陸国下館の水谷氏に仕えたが、他の臼井一族は北条が下総の支配を強めていた頃に他国衆として台頭していた原氏嫡流の家臣団「臼井衆」に加わり、北条方として諸大名との戦に身を投じていったという。吉岡氏もこれに従っていたものと思われる。小田原の役の後、原氏は徳川氏に召抱えられた。臼井一族及び吉岡氏がどうなったかは不明だが、千葉氏旧臣は相当数召抱えられたとの事なので徳川に仕えたか、または帰農したものと思われる。

2018年01月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
木出城

木出城のすぐ近くには福星寺館・中山城があり、全て鎌倉~室町期の吉岡氏の城であったと思われる。木出城は北東に突き出た舌状台地の上にあり、南西を除いて周囲は田圃に囲まれた単郭の城で、規模が小さい。佐倉の城城の様に周辺の城全てで一つの城郭を成していたと考えられる。南西の台地との接続部分には朝日神社が置かれているが、木出城との関係性は不明である。城内へは民家を通っていかねばならず、今回は断念した。調べてみると単郭の城で戦国期に多少の改修が行われた程度の館に毛が生えたような城らしい。福星寺館や中山城も同様の構造で戦国期には廃城となっていたか、しっかりと改修を行うほど戦火に見舞われなかったのであろう。木出城と福星寺館には説明版が置かれていたが、中山城には見当たらず、代わりに「地蔵菩薩の怒り」という朽ちた看板があった。どうやらかつて市と土地所有者の間でトラブルがあったようだ。遺構がしっかり残っている様なのにもったいない。

2016年01月08日 藤井伊賀守
木出城

主郭虎口が、民家の敷地を通るので、許可を得てから見学しましょう。

主郭の高い土塁と深い空堀。迫力満点です。

木出城の周辺スポット情報

 福星寺館(周辺城郭)

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