千葉城(ちばじょう)

千葉城の基本情報

通称・別名

猪鼻城、亥鼻城

所在地

千葉県千葉市中央区亥鼻町1-23-1他

旧国名

下総国

分類・構造

平山城

天守構造

複合式層塔型[4重5階/1967年築/RC造模擬]

築城主

千葉常重

築城年

大治元年(1126)

主な改修者

千葉氏

主な城主

千葉氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(猪鼻城跡(含七天王塚))

再建造物

模擬天守(千葉市立郷土博物館)、石碑(猪鼻城祉)

周辺の城

高品城(千葉県千葉市)[2.3km]
曾我野陣屋(千葉県千葉市)[4.2km]
生実城(千葉県千葉市)[4.6km]
小中台城(千葉県千葉市)[5.6km]
多部田城(千葉県千葉市)[6.2km]
有吉城(千葉県千葉市)[6.6km]
木出城(千葉県四街道市)[7.5km]
御茶屋御殿(千葉県千葉市)[8.1km]
馬加城(千葉県千葉市)[9.5km]
実籾城(千葉県習志野市)[10.0km]

千葉城の解説文



亥鼻城(いのはなじょう)は、千葉県千葉市中央区亥鼻(旧:下総国)にあった日本の城(平山城)。通称は千葉城。周辺は亥鼻公園(歴史公園)として整備され、土塁、堀切などが現存する城跡は市の文化財に指定されている。

概要 

猪鼻山は、北は都川、西は断崖に面した天険の要害の地に築かれた平山城である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に際し、いち早く参陣して東国武士団の動向に大きな影響を与えた重鎮千葉常胤の父である千葉常重が平安時代の1126年(大治元年)、上総国大椎城(現在の千葉市緑区大椎町)から拠点を移し、下総国(現在の千葉市中央区亥鼻付近)に居館を構えた。拠点を移して以来、1455年(康正元年)、千葉胤直が下総原氏の原胤房に追われるまで、千葉氏13代(約330年)に渡り両総に覇を唱えた千葉氏の拠点と言われる[1]。市指定文化財(史跡)に指定されている。

しかし、これまでの発掘調査で、鎌倉時代の千葉氏の館の痕跡は確認されておらず、遺構として残されている土塁や空堀の特徴から、実際には戦国時代の城跡であると推測されている。亥鼻城は原胤隆の子・範覚のときに取り立てられ、1516年(永正13年)に三上氏の攻撃を受けた。このとき、弥富原氏と見られる原蔵人が討ち死にしているので、亥鼻城は原氏によって築城・維持されたという説もある[2]

その後、江戸時代(幕末)の1861年(文久元年)には千葉八景「猪鼻山の望月」に選定されており[3]、古くから名所・旧跡として親しまれていた[4]。城跡は1909年(明治42年)以降公園として開放され、1959年(昭和34年)に歴史公園「亥鼻公園」(面積10,293平方メートル)として整備され[5]、亥鼻山の中腹には、1967年(昭和42年)に千葉市立郷土博物館(模擬天守[6][7])、いのはな亭(茶室及び庭園)が建造された。

城域は、亥鼻公園(主郭)から千葉大学亥鼻キャンパス(外郭)を含む広大な領域とする見解もあるが、医学部構内の発掘調査の結果、マウンドを持つ七天王塚は古墳であること、中世の遺構・遺跡がほとんど見られなかったことから、亥鼻公園周辺に限定される可能性が高くなっている[8]。現在、地名をとって「亥鼻城跡」と呼ばれている。また主郭部の突端にかつての物見台跡の神明社がある。二の郭跡に郷土博物館と千葉常胤像が建つ。

歴史 

中世の千葉城が登場する資料『相馬文書』には、1335年(建武2年)の一族の内紛の際に、千葉胤貞方が「千葉城」「千葉楯」を攻撃したことが記されている。しかし、亥鼻城のような台地上の城郭が築かれるようになるのは15世紀以降のことであり、「千葉楯」ともあることから、これは低地上の館を楯などで戦闘時に城郭化したものと考えられる。

千葉妙見宮(現在の千葉神社)及び同寺を崇敬する千葉氏及びその妙見信仰について書かれた『千学集抄』においては、千葉氏の館の場所を「堀内」と記しており、近年は千葉市街の低地に千葉館があった説が有力視されている[9]。亥鼻城跡からは、鎌倉時代の蔵骨器が発掘されている一方、生活感のある出土物が少ないため、亥鼻には千葉氏(宗家)の時代に墓地があり、これが後に城郭化されたとする説がある。

亥鼻の古城が千葉氏の城だという記述が出てくるのは、江戸時代になってからのことである[10]。1858年(安政5年)、成田山新勝寺の新本堂建立の際に制作された『成田名所図会』には、千葉常胤に関する一節がある。そのなかに「千葉氏古城址の図」が掲載されており、中央に亥鼻山が描かれている。また、近現代になってからも、亥鼻山を古城址と書いた絵葉書が複数作られているほか、1926年(昭和元年)には亥鼻城跡に千葉開府800年記念碑、1976年(昭和51年)には千葉開府850年記念碑が建立されている。

沿革

千葉氏は桓武平氏であった平忠常の子孫で、千葉常胤のときに千葉氏を称した。常胤は上総広常と共に源頼朝を助けて鎌倉幕府樹立に尽力した。後に広常が謀反の疑いで頼朝に誅殺されると、常胤は房総平氏の惣領となり全盛期を迎える。しかし、室町時代に入ると鎌倉公方と古河公方が対立し、関東に騒乱が巻き起こると千葉氏も内紛が勃発する。1455年(康正元年)千葉氏14代である千葉胤直が一族の千葉康胤(馬加康胤)と原胤房に亥鼻城が急襲され、千田庄(現:千葉県香取郡多古町付近)へ追いやる。その後、出家していた康胤もこれに合流し、千田庄の多古城・志摩城に立て籠る胤直父子や円城寺尚任、援軍にかけつけた大掾頼幹(妙充、満幹の次男又は甥)を攻め滅ぼす[11]。『日本城郭大系』によると、1457年(長禄元年)康胤が宗家の名跡を継ぎ、子の千葉輔胤は本拠を本佐倉城に移した[12]

その後、1861年(文久元年)の千葉八景に「猪鼻山の望月」が選ばれ、城跡は1909年(明治42年)以降公園として開放された。1959年(昭和34年)に亥鼻公園(歴史公園)として整備され、1967年(昭和42年)4月に千葉市立郷土博物館(模擬天守)、いのはな亭(茶室及び庭園)が建造された。

構造 

突端の構造が猪の鼻に似ている、あるいは亥の方角を向いていることから、亥鼻の名がある。突端部には神明社と亥鼻城跡の碑があり、神明社のある郭は物見の跡と伝えられる。そこから郷土博物館の間にほぼ唯一の遺構として土塁が残る。一説によると、千葉大学医学部から中央博物館バス停付近までの広大な範囲を城域に含むとされてきたが、前述のとおり、近年の発掘調査では否定されている。中央博物館バス停付近には七天王塚があり、亥鼻城跡とあわせて市の文化財に指定している。

城跡北側の台地下には「お茶の水」という井戸跡がある。この井戸から汲んだ水で千葉常胤がお茶をたて、源頼朝に献じたなどの伝説が残されている。城跡東側の階段はかつて池田坂と呼ばれ、城の搦手(裏門)にあたると言われる。

千葉市立郷土博物館 

千葉市立郷土博物館(ちばしりつきょうどはくぶつかん、英称:Chiba City Folk Museum)は、千葉県千葉市中央区亥鼻にある博物館。

千葉市および千葉氏に関する常設展示のほか、企画展示も行っている[13]。本館は天守出現以前の中世城郭にある模擬天守。敷地面積8748.59平方メートル、建築面積756.13平方メートル、建築延床面積2416.29平方メートル、展示延面積1230.86平方メートルの建築規模である[14]

  • 本館 ※( )内は展示面積。
    • 1階:516.99平方メートル(376.24平方メートル)、講義室、展示室、電気室、機械室
    • 2階:468.56平方メートル(360.38平方メートル)、展示室、事務室
    • 3階:299.34平方メートル(236.87平方メートル)、展示室、倉庫
    • 4階:353.28平方メートル(157.14平方メートル)、展示室、倉庫
    • 5階:128.34平方メートル(100.23平方メートル)、展望室(展示室)、倉庫
  • 本館玄関棟
    • 1階:52.17平方メートル、エントランスホール、受付
    • 2階:53.38平方メートル、事務室
  • 収蔵庫棟
    • 2階:31.90平方メートル、エレベーター機械室
    • 1階:177.35平方メートル、第1収蔵庫、学芸室、荷解室
    • 地下1階:168.65平方メートル、第2収蔵庫、機械室
    • 地下2階:166.33平方メートル

沿革

  • 1966年(昭和41年)3月24日 - 本館着工。
  • 1967年(昭和42年)
    • 3月31日 - 本館竣工。
    • 4月9日 - 千葉市観光課の所管施設「千葉市郷土館」として開館。
  • 1976年(昭和51年)7月 - 千葉市教育委員会社会教育課へ移管。
  • 1979年(昭和54年)4月 - 千葉市文化課の設置にともない本市における文化施設としての方向付けがなされた。
  • 1982年(昭和57年)6月24日 - 収蔵棟着工。
  • 1983年(昭和58年)
  • 3月31日 - 収蔵棟竣工。
  • 4月 - 「千葉市立郷土博物館」と館名を改め、主として歴史・民俗系の博物館とした。
  • 2000年(平成12年)11月21日 - 耐震改修工事着工。
  • 2001年(平成13年)12月 - リニューアルオープン。
  • 2007年(平成19年)
    • 4月 - 千葉市文化課廃止。千葉市生涯学習振興課の所管となる。
    • 7月31日 - プラネタリウム投影および天文普及事業終了。
  • 2009年(平成21年)10月より - 旧プラネタリウム室改修工事。
  • 2010年(平成22年)4月 - 旧プラネタリウム室を4階近代・現代展示室としてリニューアルオープン。
  • 2015年(平成27年)4月 - 千葉市文化財課新設に伴い千葉市文化財課の所管となる。

交通 

公共交通機関

鉄道

  • 千葉都市モノレール「県庁前駅」、徒歩約5分
  • JR東日本「本千葉駅」、徒歩約10分

バス

  • 京成バス
    • 千03:千葉駅 - 中央三丁目 - 郷土博物館・千葉県文化会館 - 中央博物館 - 千葉大学病院(平日のみ)
    • 千03-1:千葉駅 - 中央三丁目 - 郷土博物館・千葉県文化会館 - 中央博物館 - 千葉大学病院 - 市立青葉病院 - 南矢作
    • 千04:千葉駅 - 中央三丁目 - 郷土博物館・千葉県文化会館 - 中央博物館 - (千葉大学病院非経由) - 市立青葉病院 - 南矢作(早朝・夜間~深夜のみ)
  • ちばシティバス
    • 千21:千葉駅 - 広小路 - 郷土博物館・千葉県文化会館 - 中央博物館 - 千葉大学病院 - 市立青葉病院 - 南矢作 - 川戸都苑
    • 稲102:稲毛駅 - 千葉駅 - 広小路 - 郷土博物館・千葉県文化会館 - 中央博物館 - 千葉大学病院 - 市立青葉病院 - 南矢作 - 川戸都苑

自動車

高速道路

  • 首都高速小松川線・京葉道路「松ヶ丘インターチェンジ」

駐車場

  • 駐車場有、25台(無料)

参考文献 

  • 福田豊彦『千葉常胤』吉川弘文館、1973年。ISBN 978-4-642-05063-0

千葉城の口コミ情報

2022年06月14日 のぶ中務少輔
千葉城



土塁もしっかり残っていました。復元天守は甲冑もあり展望もよく無料なのに見応えたっぷりでした

2022年05月22日 陸奥守新九郎
千葉城



聳える天守閣はニセモノながら、猪鼻城としてのおもかけを残す土塁は見応えありです。

2022年02月08日 千葉相模守早雲
千葉城



残念ながら遺構は殆ど残っていません。

千葉城は平山城で、現在は亥鼻公園として整備され、城跡北側には「お茶の水」という井戸跡があります。模擬天守のあるⅡ郭まで階段が続き、この階段の踊り場が、段郭を連想させます。

また神明社のあるⅠ郭とⅡ郭との高低差は無いのに、階段を上り下りする必要があり、この作りは堀切の名残と思われます。

模擬天守内は千葉市立郷土博物館となっており、千葉城を拠点とした千葉氏の展示が充実。

千葉氏中興の祖といわれる千葉常胤は、頼朝を助け幕府成立に貢献した御家人なので、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関心がある方にはオススメです。

2021年10月23日 薩摩宮内大輔義弘維新斎
千葉城



猪鼻城址(千葉城址)は、今や模擬天守が千葉市立郷土博物館。千葉氏の生い立ちや略歴等を紹介。遺構は、天守閣近くにある土塁。千葉都市モノレールの県庁前駅から直ぐ近くにあるので攻めるのは優しいでしょう。

2021年09月13日 マークⅡ大宰大弐政宗
千葉城



歴史上は、「猪鼻城」と言われ、築城は平安時代に遡る。千葉氏の拠点として300年余り栄えたが、戦国期に滅んだので、再建されたような天守閣は存在しない。

2021年05月05日 W杯関白キッカーは晃司
千葉城

千葉市郷土博物館(模擬天守)駐車場があります。
館内(天守内)の展示品も見学できますが、どちらも無料。
駐車場と天守入口それぞれに警備員さんがいらっしゃいますが無料。
よっ!太っ腹!

ちなみに天守外観は千葉氏と同盟関係であった北条氏の小田原城天守を模したそうです。
そう言われれば似てるような気が…

2021年03月25日 ひろ主税頭
千葉城



駐車場も天守閣内展示なども全て無料で見応えもあり 桜もあって行った甲斐がありました!

2021年03月20日 おかねい
千葉城

近くに青葉公園もあり、ゆっくりと散歩しながら博物館も回れます。遺構は少なめです。

2021年03月18日 梨栗桃
千葉城

JR本千葉駅から徒歩10数分というところ。入場無料の博物館があります。

2020年11月04日 いそろく
千葉城



中は千葉市立郷土博物館になっています。入場無料

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
千葉城

千葉氏と千葉
 千葉氏が千葉郷を拠点としたのは常胤の父常重の頃とされ、それ以前は大椎を拠点としていたとされている。しかし千葉氏に詳しい「千葉氏の一族」によれば、それは史料の誤記であり、実際には常胤の高祖父平常将の頃には千葉郷を本拠としていたと考えられるとの事だ。
 千葉氏は常胤の代で房総に敗走して来た頼朝に臣従し、その功績により九州から奥州の各地に所領を持つ大身の御家人となった。常胤の息子達も独立した御家人となり、千葉・相馬・武石・大須賀・国分・東の「千葉六党」を築いた。その後、常胤から5代目の千葉介頼胤が国府近くの小金に拠点を移した事を除けば、千葉荘は戦国期まで千葉氏の本拠であり続けた。
 元寇が起きた際には頼胤の子宗胤が自領のある九州に赴いたが、元を警戒した鎌倉は九州の御家人達の帰還を許さず、宗胤は九州で病没した。宗胤の子である胤貞が幼少であった事などから、千葉介は宗胤の弟胤宗が引き継いだのだが、これが原因となって胤宗の子貞胤と胤貞が対立し、南北朝の争乱期に胤貞が千葉を攻める事態となっている。結局は両者ともに足利尊氏に従う事となり、貞胤はそのまま千葉介の地位を維持し、胤貞は宗家伝来の地である八幡荘・千田荘を保持して千田千葉氏として続いていく。
 その後も千葉氏は千葉荘を拠点として続いていくが、享徳3年(1455)の享徳の乱で上杉方、公方方どちらにつくかで対立が起き、重臣である原胤房が千葉を攻めた。原胤房の攻撃に千葉介胤直は3か月近く耐えており、この時には亥鼻城が使われていたと考えられる。だが結局、胤直は千田荘へ敗走して多古にて自刃、平安以来の千葉宗家は滅亡した。宗家滅亡後に当主の座に就いた岩橋輔胤とその子千葉介孝胤は、拠点を千葉から自分達の勢力圏である佐倉に移し、千葉荘は千葉氏本拠の役目を終えた。
 その後、亥鼻には千葉氏へ圧力をかける為に里見氏が出城を築いたという話があるが定かでない。江戸時代、水戸光圀は甲寅紀行の中で「千葉の町を出づるところの左の方に古城あり。伊野花と云ふ。里見氏の家老圓城寺某と云ふ者の居城なりと云ふ。」と亥鼻城について触れている。円城寺氏は千葉氏の重臣であるので、「里見氏の家老」というのは誤伝であろうか?

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
千葉城

 亥鼻城はかつての千葉町の南端にある台地の上にあった。その特徴から戦国期の城であったと考えられている。亥鼻の地名は亥の方角(北西のやや北寄り)に突き出た舌状台地に由来するという。言うなれば亥の方角の鼻状台地か。南東に千葉寺があり、千葉寺より亥の方角という事だろうか?
 台地が入り組んだ下総地方によくある舌状台地を利用した城であるが、考えられている城の広さは外郭や矢作砦も含めると相当なもので、西端から東端までは直線距離で1.2kmにも及ぶ。台地の北側を沿う様に都川が流れており、非常に堅牢な城であった事が窺える。
 台地の北側の麓から千葉神社にかけてかつての千葉町が広がっていた。その造りは千葉常胤が源頼朝に対して拠点にすべきと進言した鎌倉と類似している。北斗山金剛授寺(千葉神社)から亥鼻へと真っ直ぐな道が伸び、周辺には寺や屋敷が置かれていたと考えられている。亥鼻に到達すると道は西へと曲がり、海沿いの寒川・今井・曾我野といった漁村へと繋がっていた。現在では千葉の主要道自体は千葉駅前大通りとなっているが、かつての千葉町の主要道も現存しており、昔の姿を想像する事ができる。
 台地の南側には千葉寺とその集落があり、千葉氏の拠点千葉荘はこの千葉寺から金剛授寺までの範囲を指していると考えられている。千葉寺、金剛授寺、そしてさらに北にある千葉山(千葉氏の墓所)は直線上に並んでおり、墓所である千葉山は街からみると妙見(北極星・北斗七星)の方向にある。町の造りに妙見信仰が影響している事が考えられる。
 城跡地は明治42年に千葉県庁公園として開放された。昭和12年には千葉護国神社が創建されるが、昭和42年に千葉公園内に遷座する。神社跡には千葉市立郷土博物館(所謂、千葉城)が建設され現在に至る。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
北斗山光明寺[千葉城  寺社・史跡]

 大治元年(1126)、千葉常重が父平常兼の死に際して月処山光明寺と号して日處山満願寺と共に建立、その後千葉勝胤の六男妙見寺第十三世権大僧都常覚が、永禄9年(1566)に堂宇を建立して開山。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
嚴島神社[千葉城  寺社・史跡]

 江戸期には寒川地内に千葉家七弁天碑があったといい、寒川村と作草部村の地籍争いの際に寒川の綿屋太郎兵衛が千葉家七弁天碑を当地に移したという。周辺を吾妻台と呼び、東胤頼の館が置かれていたとされる。扇松館と呼ばれる館跡があったとされており、東姓を名乗る前の千葉胤頼の館ではないかと思われる。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
金剛山東禅寺[千葉城  寺社・史跡]

 千葉介貞胤が円中規公師を迎えて嘉暦2年(1327)に建立したという。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
龍興山高徳寺[千葉城  寺社・史跡]

 千葉氏系原氏初代原胤高が開基となり、貞治4年(1365)に創建したという。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
亥鼻神明社[千葉城  寺社・史跡]

 亥鼻城内にある神明社。平忠常の代に鎮座したものを千葉常胤が修築したとも、文明元年(1469)に勧請したものともいわれる。亥鼻城の守護神であったという。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
円稿山宝幢院[千葉城  寺社・史跡]

 金剛授寺(千葉神社)覚算和尚三世宥覚が保延3年(1137)に法東院と号して創建、千葉介勝胤の九男妙見寺第十四世覚胤が元亀2年(1571)に宝憧院と改めて中興開山したという。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
千葉神社(北斗山金剛授寺)[千葉城  寺社・史跡]

 平忠常が千葉の香取神社の境内である香取山に、妙見を祀る祠を建てた事が始まりと云われる。元々は北斗山金剛授寺という寺で、寺号は一条天皇によるものであるという。代々千葉一族の当主たる千葉介を継ぐ者の元服はここで行われた。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
院内香取神社[千葉城  寺社・史跡]

 千葉神社の場外末社、元々千葉神社一帯は香取山という香取神社の境内であった。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
小河山智光院[千葉城  寺社・史跡]

 馬加康胤が康正2年(1456)に開基、千葉氏の祈願所であったというが、千葉氏が間もなく佐倉に移った為に荒廃したという。亥鼻の七天王塚および御茶の水不動尊の支配をしていたと云われる。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
七天王塚[千葉城  その他]

 牛頭天王を祀る塚。千葉大学亥鼻キャンパス内に5つ、キャンパス前の道沿いに2つある。将門の7人の影武者の墳墓とも千葉氏の7人の兄弟を祀る塚とも云われる。古墳時代の古墳群の可能性もあるといい、そうなると桓武平氏が関東に下向する前から元々あった塚を千葉氏が祀ったのが、後世千葉氏に纏わる塚であるとの伝承に繋がったという事か?

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
光明山胤重寺[千葉城  寺社・史跡]

 武石氏2代である武石胤重の後裔で僧となった雲巌が開基となり、永禄年間(1558-1570)に創建。初代の胤盛でなく胤重の名を寺号としている点が気になる。下総に残った武石氏は第一次国府台合戦で小弓公方方につき、当主武石胤親が後北条氏に討取られた。武石胤親の子息は稲毛浅間神社の神主布施氏に婿入りしている。布施氏は第二次国府台合戦では里見氏に味方していた様で、布施正光が後北条家臣佐貫伊賀守を討取ったという。胤重寺の創建はこの頃の事なので、亥鼻に里見氏が拠点を置いた可能性は意外と高いのかも知れない。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
究竟山本円寺[千葉城  寺社・史跡]

 日什上人が永徳元年(1381)に創建したという。円乗寺胤久なる人物が開基となったとされる。千葉氏重臣円城寺氏の一族であろう。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
矢作砦[千葉城  周辺城郭]

 亥鼻城の東端にあったとされる砦。麓には矢作の集落がある。貝塚、弥生時代後期の住居跡などが見つかっており、先史時代から続く古い土地である。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
海上山千葉寺[千葉城  寺社・史跡]

 和銅2年(709)に行基が巡錫の折に池田郷(都川流域)を訪れ、十一面観音像を残した。この事を聖武天皇が聞き及び、勅命により創建された。永暦元年(1160)に雷火で伽藍を焼失し、現在地へ移転、千葉氏の祈願寺となったという。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
阪東稲荷神社[千葉城  寺社・史跡]

 源頼朝が安房から千葉を通過する際、境内に陣を置いたといわれるが、頼朝が陣を置いたのは結城稲荷とも云われている。誤伝であるか、もしくは阪東稲荷から結城稲荷まで約1kmの範囲が稲荷神社の境内であったのかも知れない。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
新宿白幡神社・結城神明神社[千葉城  寺社・史跡]

 源頼朝が安房から千葉を通過する際、結城稲荷の境内に陣を置き、源氏の白幡を立てたことから白幡大明神と称されるようになったという。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
稲荷町稲荷神社[千葉城  寺社・史跡]

 日本武尊が東国征伐の折に駒原神社として豊宇受大神を祀ったと云われる。平常兼が大治元年(1126)猪鼻に居館を構えた際に、当社を千葉氏の守護神としたとされるが、千葉氏の千葉定住については史料の誤記の可能性が大いにある。栄福寺古文書に当社の営繕を千葉氏が執り行ったという記録があるそうで、守護神かどうかは分からないが、千葉氏の崇拝は受けていた様だ。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
登渡神社[千葉城  寺社・史跡]

 正保元年(1644)、千葉家の遺族、登戸権介平定胤が祖先を供養するために創建したという。同時代、千葉重胤の子に千葉定胤という同名の人物がおり、同一人物かと思われる。定胤は千葉宗家の立場を継承しており、千葉氏再興を祈願した願文を香取社へ奉納していたが、慶安2年(1649)に33歳の若さで病死したという。その後、千葉知胤という人物が宗家を継承し、旗本松平勝義・甲府藩家老新見正信に仕えたが、隠居して故郷の香取郡武田村に戻った。子孫も帰農して武田村に住んだが、後に医者となり本所に移ったという。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
阿毘蘆山大日寺[千葉城  寺社・史跡]

 千葉介頼胤が源氏三代の供養の為、建長6年(1254)に自身の館に近い松戸の馬橋に創建し、頼胤の子胤宗が千葉氏の菩提寺として弘安7年(1284)に千葉神社の南側へ移転したという。境内には、平安期の平常兼から室町中期の千葉胤将までの千葉氏16代のものとされる墓碑が現存する。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
知東山来迎寺[千葉城  寺社・史跡]

 建治2年(1276)、千葉介氏胤が祈願寺として創建。元々は来光寺と称し道場公園付近にあったという。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
本光山宗胤寺[千葉城  寺社・史跡]

 元寇で九州に下向していた千葉介宗胤の指示で創建。元々は裁判所の辺りにあり、隣には千葉氏の館があったと考えられている。

2020年07月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
千葉氏館推定地[千葉城  その他]

 「御殿跡」という地名から千葉氏の館が置かれていたのではないかとされる場所。江戸時代に東金御成街道が開通した際、千葉には千葉御茶屋御殿と千葉御殿の二つの御殿が置かれていたとされる。千葉御殿が置かれた地がここであるともされ、「御殿跡」は千葉氏館ではなく千葉御殿を指している可能性がある。船橋御殿や越谷御殿の様に在地豪族の館跡地が提供された例もあるので、元々千葉氏館があった地を御殿として利用した可能性も考えられるが、千葉氏が千葉を離れてより100年以上経っている為、御殿を造った頃には跡形も無く消滅していた事も考えられる。

2020年03月05日 大中臣右衛門督能宣朝臣
千葉城



千葉城横の茶店「いのはな亭」で、最近発売されたばかりの、猪鼻城の御城印を購入しました。なかなか立派な御城印でした。

2017年05月23日 究極退化主膳佑やなんちゅ
千葉城

昔から天守のあるお城と知ってましたが偽物だと思ってたので訪れる事はなかったのですが千葉氏関連の展示に興味を抱き初登城しました。
もちろん天守は模擬ですがこの亥鼻の地に居館を構えた時期があったらしいです。
模擬天守内は郷土博物館になっており無料で開放されてました。
3Fに房総平氏関連の資料が展示されておりスタッフの方から平将門や千葉常胤などの興味深いお話をしてもらいなかなか有意義な時間でした。
残念ながら日曜だと言うのに訪れる人は少ないみたいで博物館専用の駐車場もガラガラでしたので穴場としてはオススメです。

2016年01月15日 藤井伊賀守
千葉城

遺構は、土塁、堀切跡と、明瞭性にとぼしいですが、模擬天守の資料館が、昨年から無料になったそうです。

2012年08月20日 GINTOKI
千葉城

千葉城の郷土博物館は、主に千葉氏関連の展示が豊富!

2012年05月04日 ビバちゃん
千葉城

千葉城の中が史料館になっていて¥60と格安なのに資料もなかなか豊富でオススメです!

2010年07月21日 徳川内大臣源朝臣康武
千葉城

[武将像]千葉介常胤像
模擬天守前に鎮座。

千葉城の周辺スポット情報

 お茶の水(遺構・復元物)

 模擬天守閣(遺構・復元物)

 千葉常胤像(碑・説明板)

 矢作砦(周辺城郭)

 本光山宗胤寺(寺社・史跡)

 知東山来迎寺(寺社・史跡)

 阿毘蘆山大日寺(寺社・史跡)

 登渡神社(寺社・史跡)

 稲荷町稲荷神社(寺社・史跡)

 新宿白幡神社・結城神明神社(寺社・史跡)

 阪東稲荷神社(寺社・史跡)

 海上山千葉寺(寺社・史跡)

 究竟山本円寺(寺社・史跡)

 光明山胤重寺(寺社・史跡)

 小河山智光院(寺社・史跡)

 院内香取神社(寺社・史跡)

  千葉神社(北斗山金剛授寺)(寺社・史跡)

 円稿山宝幢院(寺社・史跡)

 亥鼻神明社(寺社・史跡)

 龍興山高徳寺(寺社・史跡)

 金剛山東禅寺(寺社・史跡)

 嚴島神社(寺社・史跡)

 北斗山光明寺(寺社・史跡)

 いのはな亭(御城印)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 千葉城(関連施設)

 千葉氏館推定地(その他)

 宗胤寺跡地(その他)

 来迎寺跡地(その他)

 大日寺跡地(その他)

 七天王塚(その他)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore