実籾城(みもみじょう)

実籾城の基本情報

通称・別名

所在地

千葉県習志野市実籾本郷

旧国名

下総国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

不明

築城年

戦国時代

主な改修者

主な城主

不明

廃城年

遺構

曲輪、土塁

指定文化財

再建造物

周辺の城

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実籾城の解説文

実籾城(みもみじょう)は現在の千葉県習志野市実籾本郷付近にあった日本の城。

実籾高校から水田を挟んだ南東の方向に、こんもりとした台地がある。この台地の上部から土塁が発見され、その特徴から戦国時代の城であったと考えられる。現在はかなり樹木によっておおわれているが、土塁の上から見ると藪(やぶ)ごしに下の谷がよく見渡せ、城として好立地であることが窺える。しかし、遺跡の様子から見るとあまり大きな城ではなく、砦のような規模であったと考えられる。

また、この地域には千葉氏一族の尼僧が千葉氏滅亡のおりに逃げのびたことに関連する抜け穴の言い伝えもあり、戦国時代の息吹を感じさせる場所になっている。

実籾城の口コミ情報

2020年05月10日 山内侍従伊右衛門俊胤
実籾城

清薫比丘尼は何故押切村へ?
 実籾を脱出した清薫比丘尼は高根村の中村三郎兵衛宅に拠った後、実籾に戻ることなく、また千葉や本佐倉に向かう事もなく、縁も所縁も無さそうな行徳の押切村にある及川善右衛門宅にて余生を過ごした。なぜ清薫比丘尼は押切村へと移ったのだろうか?
 「行徳千軒寺百軒」と呼ばれる程に、行徳には寺院が多く、特に日蓮宗の寺院が多い。それもそのはずで、行徳の北東には富木常忍が開いた中山法華寺が座しており、富木常忍の妻が開いた妙頂寺を永禄4年(1561)に行徳に移してより、行徳一帯に日蓮宗の寺院が多く創建されたのだ。
 そうした日蓮宗寺院の中に慶長2年(1597)に創建された清寿寺がある。この清寿寺の開基となった人物が千田胤保の妻、清寿尼である。
 千田胤保は元寇の頃まで千葉宗家の立場にあった千田千葉氏の子孫である。浪人していた所を後に尾張藩御附家老となる成瀬正成に召し出され、犬山城代を務めた。胤保が仕え始めた慶長4年(1598)、正成は中山法華寺の近くの栗原郷に入部しており、以後、孫の成瀬之虎の代で無嗣断絶し改易されるまで、栗原郷は成瀬氏の分知であった。
 胤保が家康の側近たる正成の家臣となった事で、その妻清寿尼が開基となった清寿寺を含めた行徳の日蓮宗寺院や千田氏と関わりを持つ千葉旧臣達の立場はある程度保証されたものと考えられる。
 清薫比丘尼が行徳の押切村に移ったのがいつ頃の事なのかは不明だが、移住にはこうした事情が背景としてあるのかも知れない。

2020年05月10日 山内侍従伊右衛門俊胤
実籾城

実籾の尼寺
 実籾には現存する無量寺の他にも、妙光山観音院惣持寺と呼ばれる尼寺があったという。この惣持寺であるが、何と現在妙見社が置かれている場所のすぐ南にあったというのだ。つまり実籾城と場所がほぼ重なるのである。実籾城とは城郭寺院もしくは惣持寺を守る砦であった可能性が高い。では、なぜ尼寺を守るための城があったのだろうか?
 惣持寺とはどういう寺なのか?鎌倉時代初期、千葉常胤の曾孫である千葉介胤綱は七歳となる娘、藤姫を仏門に入れた。授戒して執善と名を改めた藤姫が庵を設けたのが実籾の惣持寺であった。以来、惣持寺の庵主は代々千葉一族の女性が務めていったという。千葉氏の位の高い女性が庵主を務めている為、当然の如く寺には警備兵が置かれる事となった。こうした寺の警備を務めた家臣達が拠った所が、後世実籾城と称された可能性が高いのである。武石氏の城か、馬加氏の城かという以前に、千葉氏の尼僧を守るための城であったのだ(場所的に武石氏の郎党が多く関わっていたのであろうが)。
 解説にもあるように、千葉氏が小田原征伐で滅亡する際、惣持寺の尼僧が、実籾を脱出している。この尼僧は梅室院香譽清薫比丘尼といい、胤綱より300年ほど後の千葉介、胤富の娘であるという。清薫比丘尼は実籾を脱すると高根村(船橋市高根町)の高城氏家臣とみられる中村三郎兵衛(千葉氏側近として香取神宮領の裁量をしていた中村氏の一族か?)の邸宅に拠り、その後、押切村(市川市押切)の及川善右衛門(千葉氏郎党と思われるが仔細不明)の邸宅へと移って、そこで死没したといわれる。
 惣持寺も観音寺と名を改め再興されるが、明治期に入ると廃仏毀釈の煽りを受け、廃寺となってしまったという。現存していれば、千葉神社や中山法華寺の様に千葉氏の歴史の一つ大きな流れを今に体現していたのかと思うと、少しやりきれない気持ちになる。

2019年04月05日 えんちゃん
実籾城

主郭は土塁で囲まれており、現在は民家が建っています。鉄塔がある所は曲輪か見晴台であったかもしれせん。平らで広場の様になっています。
近くの神社に九曜紋あり、千葉氏系の城であることも確認できました。

2018年03月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
実籾城

大原大宮神社と千葉常兼(千葉氏はいつから千葉にいたのか?)
実籾駅北の八幡稲荷神社の由緒によると、大原大宮神社を創建したのは千葉氏の将兵であったという。創建当時は常胤の祖父、常兼が千葉氏当主であった。1107年、千葉氏一族に内紛抗争が起こり、亥鼻に住むことを潔いとしない将兵達が実籾本郷に移住し、農耕を営んだという。ここで引っかかるのは、常兼が亥鼻を本拠としていたことである。千葉城の解説にもあるように、千葉氏が大椎城から亥鼻城に移ったのは常兼の子、常重の代とされている。常兼が亥鼻にいたとすると、辻褄が合わない。千葉一族について詳しい「千葉氏の一族」によると、千葉氏が大椎にいたとする根拠は、千葉氏について纏めた「千学集」において常重を「大椎権介」と記載したことであるという。しかし、これは「大権介」の誤記ではないかとのことである。更に、常胤の孫、成胤は「吾妻鏡」において常兼を「千葉大夫」と称している。恐らく千葉氏は常重以前から千葉を本拠としていたのだろう。そうすると、大原大宮神社の話と辻褄が合う。
もしかすると、実籾城は実籾本郷に移住した将兵達の子孫の城なのかもしれない。

2018年03月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
実籾城

実籾城は誰の城か?
無量寺と実籾城
実籾駅近くの無量寺は、千葉六党が一つ、武石氏の祈願寺であったという。現在の地に置かれたのは江戸期で、元々は小字東堀込という場所にあったそうだ。正確な場所は特定できなかったが、本郷のどこかであったと思われる。同じ本郷にあった実籾城と無関係とは言えない。千某氏(千葉氏?)滅亡の際に罹災したというので、実籾城とかなり近い位置にあった可能性もある。実籾城は武石氏の城であったのかもしれない。
馬加屋敷と実籾城
実籾城のある実籾本郷の西には、屋敷という地名がある。天津神社の由緒によると、この地はかつて馬加屋敷と称されており、馬加康胤が馬加城普請中に屋敷を構えた地であるという。実籾城が戦国期に築城されたものとすると、馬加屋敷との関連性があると見た方が良いだろうか?
このように考えられる築城主は武石氏と馬加康胤であるが、個人的には武石氏と考えている。武石氏は源頼朝に与する以前から武石郷を領していた。馬加城普請の間、居を構えていただけの康胤が築城したというよりも筋が通っているように思える。

2017年07月02日 山内侍従伊右衛門俊胤
実籾城

舌状台地の上に築かれた城で、北側に妙見神社が置かれていることから千葉氏に纏わる城砦である事が推測できる。
他の方向が台地の高低差で守られているのに対して、北東は台地が続いており、そこから攻められたらどうするのかと思ったが、更に北に行くと広い沼地であったらしく、それが天然の要害となっていた様である。
川を挟んで向かい側の地は屋敷という地名であり、屋敷近隣公園には、土塁らしき物が見られたので、見当違いかもしれないが、城番の屋敷が置かれていたのかもしれない。

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