馬加城(まくわりじょう)

馬加城の基本情報

通称・別名

所在地

千葉県千葉市花見川区幕張町3

旧国名

下総国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

築城主

大須賀胤信

築城年

治承4年(1180)

主な改修者

主な城主

馬加康胤

廃城年

遺構

住居跡、土坑

指定文化財

再建造物

周辺の城

実籾城(千葉県習志野市)[1.4km]
鷺沼城(千葉県習志野市)[3.1km]
小中台城(千葉県千葉市)[4.0km]
船橋城(千葉県船橋市)[6.9km]
米ケ崎城(千葉県船橋市)[6.9km]
夏見城(千葉県船橋市)[7.2km]
高根城(千葉県船橋市)[7.3km]
高品城(千葉県千葉市)[8.5km]
金杉城(千葉県船橋市)[8.6km]
金堀城(千葉県船橋市)[9.2km]

馬加城の解説文



馬加城(まくわりじょう)は、千葉県千葉市花見川区幕張町にあった日本の城。

概要 

馬加城は花見川と浜田川とに挟まれた舌状台地上に位置する。開発により遺構は消滅したが、伝承等から城域が台地上に広く取られていたものと考えられている。

歴史・沿革 

馬加城の築城は、大須賀庄本郷に所領を与えられた千葉常胤の四男大須賀胤信によって治承4年(1180年)に行われたとされる。 胤信は後に埴生郡に移された。

時代は下り、室町時代後期には千葉満胤の長庶子の馬加康胤が拠り、享徳の乱に乗じて原氏と組んで千葉胤直を滅ぼし、宗家の座を奪った。事態を知った将軍足利義政が介入したため、原氏、馬加氏の支配は長くは続かなかった。

馬加城の廃城時期は不明だが、千葉胤富が天文年間に在城したとの記録があり、戦国時代後期まで維持されたものと考えられている。

馬加城の口コミ情報

2022年02月23日 猿飛大宰大弐三輔
馬加城

大きなマンションになっていました。遺構は見つけられなかったけどリア攻めも良いものです

2020年12月01日 zeke勘解由長官
馬加城

高速の南側。マンションのある小高い丘にある。遺跡はないようであるが、古地図を見ると海岸線にそびえていただろうと。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
馬加城

馬加康胤
 馬加康胤は千葉介満胤の庶長子であったと云われている。幼少の頃に常陸大掾氏大掾満幹の養子となっていたが、後に千葉に戻って馬加村近くに城を設け、馬加氏を名乗った。応永22年(1415)、公方足利持氏と対立した上杉禅秀が鎌倉を攻めると、満胤と禅秀の娘婿である千葉介兼胤は禅秀に味方し、兼胤の兄弟である康胤も兼胤に従い挙兵した。禅秀は鎌倉を占拠するまでに至ったが、室町より命令を受けた今川範政らとの戦争に負けて自刃した。千葉氏は早期に降伏したらしく、罪に問われる事は無かった。
 兼胤が死去すると、今度は足利持氏と管領上杉憲実が対立した。兼胤の子千葉介胤直は持氏を諫めたが持氏は聞く耳を持たなかったため、胤直は憲実と通じて持氏を捕えた。憲実は持氏の助命を室町に訴えたが、室町は持氏の存在が関東に混乱をもたらすとして持氏を自刃させた。結局、持氏自刃の翌年には持氏遺児が挙兵し、結城合戦が起こった。
 持氏の死から10年後、関東諸将は持氏の末子永寿王丸を新たな公方とする事を室町に願い出る。永寿王丸は公方となる事を認められ、元服して成氏と名乗った。しかし成氏もまた管領上杉憲忠と対立し、上杉氏の重臣長尾景仲・太田資清が鎌倉を攻める事態に発展した。事態を聞きつけた胤直の子胤将は江の島に逃げた成氏の救援に駆け付け、憲忠の叔父上杉重方の調停で成氏と憲忠は和睦した。胤将は康胤の薦めで成氏に味方していた様で、康胤は成氏と親しい関係にあった事が窺える。
 こうして千葉氏は当主胤将・馬加康胤・重臣原胤房が一丸となって公方成氏を支えていたが、胤将が亨徳3年(1454)6月に病没すると事態が急変する。12月に成氏が憲忠を暗殺し、室町が成氏追討の命令を出す事態となったのだ。胤直は成氏に上杉と和睦するよう説得した。しかし成氏は説得を聞き入れず、胤直は上杉に味方して成氏を追討する事を決めた。それに対し、康胤は成氏のもとに残った。
 胤直が千葉に戻ると、公方方の原胤房が千葉を急襲した。千田荘に逃れた胤直を胤房が追撃すると、これに康胤が味方し、千葉宗家は滅亡した。
 室町は千葉六党の東常縁に康胤の追討を命じ、康胤は常縁との闘争の果てに上総国八幡(市原市八幡町)にて死亡し、馬加氏は滅亡。康胤の死後、千葉氏当主の座は岩橋輔胤が継ぎ、佐倉の千葉氏が続いていった。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
馬加城

 馬加城は武石の集落がある台地の西端にあったとされる。城の傍を浜田川が流れており、上流には実籾城、下流には宮ノ台城と大須加山砦、そして馬加の集落があり、大須加山砦には馬加康胤のものとされる首塚がある。馬加城の北西には屋敷臺の集落があり、馬加城築城前に馬加氏の屋敷が置かれたという。馬加城がある台地の東端には、千葉常胤の3男武石胤盛より始まる武石氏の居城であった武石城があったとされる。このように馬加城は浜田川流域の城であり、北には千葉宗家にゆかりのある実籾、東側には千葉六党の武石氏の拠点武石がある。千葉介満胤の庶長子であったと云われる馬加康胤が拠点を置いた事からも、実籾から馬加に掛けての地域は元々千葉宗家の直轄地であった事が考えられる。
 武石氏といえば、奥州へと移って後に伊達氏配下となり、仙台藩一門第四席である涌谷伊達家や亘理氏として続いたことが有名であるが、一方で武石の地に残った武石一族もいた。武石城と馬加城は同じ台地上にある事もあり、領地に関する対立などがあったのではないかと訝しんでしまう程に位置が近い。しかし、馬加城が浜田川流域の城であるのに対し、武石城は花見川流域の城である。利水の点で利害対立が起きるとは考え難く、また、千葉六党は事あるごとに千葉宗家の補佐をしてきた歴史があり、馬加康胤の移住に関しても武石氏の補佐があった可能性が考えられる。
 武石の地に残った武石氏が享徳の乱でどのような立場を取ったのかは不明だが、永享10年 (1438) に起きた永享の乱では武石胤秀という人物が公方足利持氏に味方し討死している。この時、馬加康胤は当主千葉介胤直と共に幕府・上杉方に従っており、武石氏と馬加氏・千葉宗家は対立関係にあった事が分かる。対立関係と言っても、永享の乱自体、持氏と敵対した管領上杉憲実が持氏の助命嘆願をしており、関東諸将にとって不本意な事態であった事が窺える乱であった。10年後に持氏の遺児永寿王丸を新たな公方とする事を望んだ事からも、千葉氏内の対立は享徳の乱ほど後を引くものではなかったと考えられる。享徳の乱では馬加康胤は一貫して公方足利成氏に味方している。これは上杉禅秀の乱、永享の乱・結城合戦といった、公方と管領の対立を経験してきた康胤が熟考した結果なのだろうが、もしかしたら持氏に味方した武石氏の影響も受けていたのかも知れない。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
三代王神社[馬加城  寺社・史跡]

 建仁2年(1202)、武石胤盛が武石明神として創建。文安2年(1445)に馬加康胤の妻が出産するにあたり、明神が夢枕で「我は安産の守護神となり、守護すべし」と告げて康胤の妻が安産できた事から、康胤の信仰を受けた。康胤の家臣である小川采女が祭司を執り行っていたが、康胤が死亡した村田川の戦いの際に討死したという。
 文亀元年(1501)に三代王神社と改めた。「下総三山の七年祭り」では産婆役を務める。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
大須加山砦[馬加城  周辺城郭]

 かつての浜田川河口傍の台地に築かれたとされる砦。現在は馬加康胤のものとされる首塚の上に五輪塔が置かれている。大日如来の御堂がある為、堂ノ山とも呼ばれている。浜田川最下流の城であり、北側の宮ノ台城と併せて、馬加城の支城であったと考えられる。
 埋め立て前の海岸線に面している事から、海上の見張りをしていたのかも知れない。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
宮ノ台城[馬加城  周辺城郭]

 浅間神社のある台地上にあったとされる。南側の大須加山砦と併せて、馬加城の支城であったと考えられる。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
大久保城[馬加城  周辺城郭]

 現在は直流化された花見川に分断されているが、元々は花見川が台地の西側を蛇行していた。分断・宅地化によって遺構が良く分からないが、武石一族に関わる城であったと考えられる。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
居寒台館[馬加城  周辺城郭]

 現在、東京大学検見川総合運動場となっている台地は殿山と呼ばれていたそうで、付近には陣屋台、堀込、妙見道などの地名があったという。武石城の花見川対岸の台地に在り、武石一族の館ではないかと考えられる。
 この地は元々農学部附属緑地植物実験所であり、「大賀蓮」で有名な大賀一郎博士が大賀蓮の種子を発見した遺跡跡でもある。大賀蓮は花見川沿いのしろさぎ公園や千葉公園の他、全国各地で見る事が出来る。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
愛宕山古墳[馬加城  寺社・史跡]

 千葉常胤の妻で嫡男胤正から6男胤頼までの兄弟全員の実母である円寿院の塚墓とされている。伝承によれば「治承の頃(1177~1181)、円寿院は故あって身を海中に沈めた。亡骸は漁師の網に懸り、長男の胤正が身元確認に訪れた。自身の母である事を確認し深く嘆いた胤正は、母の遺体を須賀原愛宕山に葬った。」という。
 本当に入水したかどうかは不明だが、円寿院は寿永元年(1182)8月18日に行われた万寿(源頼家)のお七夜の儀式を夫の常胤、そして6人の息子達と共に仕切っている為、少なくとも治承の頃に入水したというのは誤りであろう。
 御家人の妻とはいえ、常胤ほどの人物の妻が入水したとなれば、何らかの記録が残りそうなものだが、あくまで伝承が伝わるのみである。さらに言えば、愛宕山古墳は出土物から古墳時代に築かれた可能性が高いとの事で、恐らくは後世に起きた別人の事件などや愛宕山古墳・真蔵院の存在が、円寿院に纏わる伝承を形作ったのではないかと考えられる。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
武石城[馬加城  周辺城郭]

 千葉常胤の3男武石三郎胤盛が館を置いたとされる。僧となった末子の日胤を除いた常胤の6人の息子達の内、3男の胤盛、4男の多部田胤信、5男の国分胤通は頼朝に臣従する以前よりそれぞれの姓を名乗っており、千葉氏が千葉荘から西にかけて勢力を持っていた事が窺える(6男の胤頼は京都に上洛、次男の師常は当時千田藤原氏に奪われていた相馬御厨を後に領して相馬を名乗っている事から、元より相馬御厨を継ぐ予定であった事が考えられる)。
 胤盛は吾妻鏡において記載があまり見られないが、父に従って奥州征伐に参陣していた様で、文治5年(1189)に多賀城で頼朝に謁見している。後に奥州に勢力を移した武石一族がおり、亘理氏・涌谷伊達家として続いた。胤盛は建保3年(1215)に70歳で没したという。
 真蔵院は建久8年(1197)に胤盛が母円寿院の菩提寺として創建した。円寿院は嫡男胤正から6男胤頼までの兄弟全員の実母である。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
子守神社[馬加城  寺社・史跡]

 建久5年(1194)、千葉常胤の4男大須賀胤信が創建したという。「下総三山の七年祭り」では子守役を務める。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
補陀落山宝幢寺[馬加城  寺社・史跡]

 大同元年(806)宥恵上人の創建という。明治5年(1872)に周辺の八ヶ寺を合併した際に元々無量山阿弥陀寺があった当地に移ったという。無量山阿弥陀寺は、治承3年(1179)に千葉常胤が馬加海岸の海中にて2体の阿弥陀尿来を得て大須賀原に安置した事に始まるという。この際、二つの寺院が創建されたといい、一つは阿弥陀寺、もう一つは海隣寺という。海隣寺は後に佐倉に移され、佐倉に移った千葉氏の墓所となった。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
子安神社[馬加城  寺社・史跡]

 延暦年間(782~806)の創建。建久4年(1193)、千葉常胤が娘の安産祈願をして社殿を改築した。神社にその際の棟札が残っているという。「下総三山の七年祭り」では母親役を務める。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
検見川神社[馬加城  寺社・史跡]

 貞観11年(869)、疫病の流行により御霊会(祇園祭)が行われた際に、嵯峨の地に建てられた矛六十六本の一つ。承平年間(931~938)、嵯峨天皇とゆかりがあるという平春靖なる人物が嵯峨を開墾しようとした際に疫病が流行り、神託により聖地を荒らした事が疫病の原因と分かった為、承平4年(934)に神社を創建したという。平春靖が嵯峨を開墾したとされる承平年間が坂東平氏の勢力が広がった時期と重なる事や、嵯峨天皇は桓武平氏の祖である葛原親王の異母兄弟である事から、平春靖は坂東平氏の一族であったのではないかと考えられる。

2020年08月09日 山内侍従伊右衛門俊胤
求法山善勝寺[馬加城  寺社・史跡]

 大巌寺四世である源譽上人随流が開山となり、文禄元年(1592)に創建した浄土宗寺院。生実にある大巌寺は天文20年(1551)に生実城主・原胤栄夫妻を開基として、増上寺9世道誉上人貞把が開山となり創建された。現在は芝公園にある増上寺は千葉介氏胤の子である酉譽上人聖聡が明徳4年(1393)に開山した浄土宗寺院である。寺院創建の流れに千葉氏における浄土宗の歴史を感じる事が出来る。

2017年07月02日 山内侍従伊右衛門俊胤
馬加城

台地端の三代王神社、ボランティアのおばあさんが8年ほど一人で清掃されているそうで、とても綺麗です。時折、境内の奥まで車を入れる人がいるそうで、タイヤ痕で境内が荒れると困るとのこと、車でいらっしゃる方は御注意下さい。

馬加城の周辺スポット情報

 西堀(碑・説明板)

 武石城(周辺城郭)

 居寒台館(周辺城郭)

 大久保城(周辺城郭)

 宮ノ台城(周辺城郭)

 大須加山砦(周辺城郭)

 求法山善勝寺(寺社・史跡)

 検見川神社(寺社・史跡)

 子安神社(寺社・史跡)

 補陀落山宝幢寺(寺社・史跡)

 子守神社(寺社・史跡)

 愛宕山古墳(寺社・史跡)

 三代王神社(寺社・史跡)

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