小中台城(こなかだいじょう)

小中台城の基本情報

通称・別名

城山城

所在地

千葉県千葉市稲毛区小中台町城山

旧国名

下総国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

中台氏(馬加氏家臣)、小仲台氏(馬加氏家臣)

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

周辺の城

馬加城(千葉県千葉市)[4.0km]
実籾城(千葉県習志野市)[4.4km]
高品城(千葉県千葉市)[4.5km]
千葉城(千葉県千葉市)[5.7km]
鷺沼城(千葉県習志野市)[7.0km]

小中台城の口コミ情報

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年07月24日]
小中台石見守胤次?2
石見守胤次が小中台の姓を名乗ったかは不明だが、どの道、その一族がこの地に永く留まる事は無かった様だ。胤次の子友左衛門丞胤友は猿又(葛飾区西水元)で水死したという。「千葉氏の一族」によれば、時期は「胤清牢人のときとそ」とある。つまり、原氏当主原胤隆が小弓公方・上総武田氏によって生実城を奪われてから、その子胤清が生実城を取り戻すまでの20年の間の出来事であると考えられる。
胤隆は生実を逐われた後、小金にいる重臣高城氏を頼った。その途上で胤友も同行したのであろう。天文5年(1536)、胤隆は生実に戻ることなく布河(茨城県北相馬郡利根町布川)で没した。跡を継いだ胤清は北条氏綱を頼って浅草に拠っている。天文7年(1538)の第1次国府台合戦にて、10月7日、北条方は松戸の相模台を攻略。小弓公方の軍勢と矢切台で衝突している。恐らく胤友はこの合戦において利根川・太日川(江戸川)渡河の最中に水死したのだろう。第1次国府台合戦の後、胤清は生実城を取り戻した。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年07月24日]
小中台石見守胤次?
江戸時代、臼井城下の中宿には商家の中臺氏があったという。中臺の姓は幕張、船橋、旧沼南町に見られるそうで、これらは原氏の勢力地と重なる。中臺氏が原氏と昵懇であった事は想像に難くない。
享徳の乱にて千葉宗家の館を急襲した千葉家執権、原胤房には中山八郎太郎胤宜という末子がいた。この胤宜なる人物、実在した事を裏付ける資料はないが、松戸の本土寺過去帳によれば、子に石見守胤次がいたそうで、この胤次が小中台に住んでいたというのだ。昨年記述したとおり、個人的に小中台氏は中臺氏庶流と考えている。馬加康胤に従った小中台氏の拠点に、康胤とともに宗家を滅ぼした原胤房の孫が居住した、これは中臺氏が原氏に小中台を提供したという事ではないか?
享徳の乱で同じ千葉家執権の円城寺氏を失脚させ、千葉氏において最大の勢力を持った原氏。千葉家臣は皆親しい関係と成りたがったであろう。中臺氏もそうした状況の中で、一族の地位を上げようとしたのかも知れない。小中台為五郎以外の小中台氏に関する記述が見当たらないのはその名跡を誰かに継がせる事無く、原氏に小中台を提供した為か?

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2017年08月30日]
小中台氏は何者なのか?
小中台氏とは一体何者なのだろうか?馬加氏の家臣、恐らくは千葉一族、小中台城主、出てくるのは寺崎城の合戦のみ。此れからは完全に憶測となるが、小中台氏は中台氏の分家なのではないか?中台に所領を有していた中台氏は臼井、千葉本家、馬加と千葉一族の各勢力に囲まれる形で存在していた。生き残りの為には慎重な立ち回りが要されたであろう。そんな中で馬加氏から小中台を任され、中台氏の一部が小中台に移った。しかし、馬加氏に肩入れし過ぎるのは危険と考え、分家の所領と言う形を取った。その分家が小中台氏と名乗った。しかし、小中台氏と名乗ってすぐ原氏、馬加氏が千葉本家に反旗を翻し、馬加康胤に組した小中台為五郎は康胤と共に討死して、小中台氏は滅亡した。
小中台の地名は地形から考えられたと見られているが、もしかしたら中台氏から取ったのではないかと考えた。しかし明治期の地図に中台は中臺と書かれているのに対して、小中台はそのまま小中台と書かれている。とすればやはり地形説が正しいのかも知れない。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2017年08月30日]
中台氏と小中台氏
小中台城主であったとされる中台氏と小中台氏は解説では馬加氏家臣となっている。中台氏は臼井一族で印旛郡臼井庄中臺を領したことから中臺を称した。臺は仏様の蓮の台を意味するという。天正12(1584)年頃の文書に中臺越後守の名が見える事から戦国末期まで続いた事が考えられる。一方、小中台氏については詳細がわからない。様々探して見ると、馬加康胤についての伝承"寺崎城の合戦"で馬加康胤に従った者として中台主税介、小中台為五郎の名が見ることができる。馬加氏家臣と言うのは此処からだろうか?小中台氏の名が見られたのは今の所此れのみであった。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2017年07月03日]
日永寺の古記録は戦災で焼失しており、詳細は不明であるが鎌倉期開創らしい。
何か手掛かりは無いかと寺にあった家紋を調べて見た。輪違い紋というらしく、脇坂氏の代表紋であり、千葉氏族の江守氏も用いていたそうだ。江守氏についてはよく分からなかったが、寺が鎌倉期開創という事と江守氏が千葉氏族である事から、小中台城とも関わりがあると考えられる。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2017年07月03日]
地形図を見ると、城があった辺りは低い舌状台地となっており、台地を利用した城砦だったと考えられる。北東に坂道を登ると熊野神社がある。憶測だが、周囲より土地が高くなっている為、城の北側の高い台地を見張る為の物見台として機能していた、もしくは城があった台地も元はこの高さであったのではなかろうか。熊野神社の場所は元々稲毛浅間神社が開かれた場所らしく、開かれたのが808年との事なので、その頃には周辺に何かしら集落などがあったと考えられる。城の東には台地に囲まれた低い土地があり、鎌倉期開創という日永寺がある。戦災で記録が焼失しているらしく、詳細は不明。明治末期の地図にはこの低地に集落があるので、城番などの屋敷もこの集落にあったのではないか。
城の南と西には川が流れており、東には日永寺のある集落がある。北には高い台地があるが、明治末期の地図を見ると畑地もしくは空き地だった様で城があった頃もそうであったとすると、熊野神社に土塁、物見台を置いておけば攻める事は容易ではないだろう。

綱島蔵人頭八雲様[2014年03月23日]
 別名、小中台城の方が調べやすい。
『千葉城郭研究』第6号によると2郭構造の小規模な城郭であったらしい。
城址はかつて城山と呼ばれていた台地で、宅地開発の波に押し潰され、消滅してしまった。位置は小中台町と、小中台8丁目との境界辺り、第二稲毛ハイツの北側辺り、城山と言われた辺りは比高15mほどの高台であったそうです。現在では城址のような地形すら失われている。

「城山ハイツ」と言う名のマンションがあり、何かを期待して散策したが歴史的由来なのか判断できるものは見つからなかった。
とにかく住宅地化が進み遺構は何一つ確認出来ない。
「城山」という地名だけが、ここが城郭であったことを誇示していたが今はもう完全に使われていないようだ。

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