小中台城(こなかだいじょう)

小中台城の基本情報

通称・別名

城山城

所在地

千葉県千葉市稲毛区小中台町城山

旧国名

下総国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

中台氏(馬加氏家臣)、小仲台氏(馬加氏家臣)

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

周辺の城

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小中台城の口コミ情報

2020年07月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
小中台城

小中台の原氏
 享徳の乱にて千葉宗家を滅ぼした原胤房には中山八郎太郎胤宜という末子がいた。この胤宜なる人物、実在した事を裏付ける資料はないが、松戸の本土寺過去帳によれば、子に石見守胤次がいたそうで、この胤次が小中台に住んでいたという。先に書いたように、小中台が原氏の所領で、中台氏が配されていたとすれば、原胤房の孫が小中台を接収する事は不思議な事ではない。小中台為五郎以外の小中台氏に関する記述が見当たらないのは、石見守胤次に小中台を提供した為か?
 石見守胤次が小中台の姓を名乗ったかは不明だが、どの道、その一族が小中台に永く留まる事は無かった様だ。胤次の子友左衛門丞胤友は猿又(葛飾区西水元)で水死したという。千葉一族について詳しく記載されている「千葉氏の一族」によれば、胤友が水死したのは「胤清牢人のときとそ」とある。つまり、原氏当主原胤隆が小弓公方・上総武田氏によって生実城を奪われてから、その子胤清が生実城を取り戻すまでの20年の間の出来事であると考えられる。
 胤隆は生実を逐われた後、小金にいる重臣高城氏を頼った。その途上で胤友も同行したのであろう。天文5年(1536)、胤隆は生実に戻ることなく布河豊島氏の所領である布河(茨城県北相馬郡利根町布川)で没した。跡を継いだ胤清は北条氏綱を頼って浅草に拠った。天文7年(1538)に第1次国府台合戦が起こると、10月7日に北条方は松戸の相模台を攻略し、小弓公方の軍勢と矢切台で衝突した。恐らく胤友はこの合戦において利根川・太日川(江戸川)の渡河の最中に水死したのだろう。矢切台での合戦の後、10月9日に胤清は生実城を取り戻した。その後、小中台がどういう扱いとなったかは不明だが、熊野神社の存在から考えるに他の原氏の領地と同じく、原氏の拠点が臼井に移っていく中で配下であった高城氏の支配下となったのかも知れない。

2020年07月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
小中台城

中台氏と小中台氏
 小中台城主であったとされる中台氏と小中台氏は解説では馬加氏家臣となっている。中台氏は臼井一族で印旛郡臼井庄中臺を領したことから中臺を称した。臺は仏様の蓮の台を意味するという。天正12年(1584)頃の文書に中臺越後守の名が見られる事から、戦国末期まで千葉氏郎党として活動していたとみられる。
 一方、小中台氏については詳細がわからない。様々探して見ると、馬加康胤についての民話"寺崎城の合戦"で馬加康胤に従った者として中台主税介、小中台為五郎の名を見ることができる。馬加氏家臣と言うのは此処からだろうか?ただ、この民話は馬加康胤が上杉方となっていたり、岩橋輔胤と馬加康胤が合戦に及んでいたりと色々と怪しい。小中台氏の名が見られたのは今の所この民話のみであった。
 小中台氏の存在はそれ自体怪しいものではあるが、仮に小中台氏がいたとしたら、小中台氏は中台氏の分家なのではないかと考えられる。江戸時代、原氏の本拠であった臼井城下には商家の中台氏があり、また中台の姓は原氏の勢力地に多く見られるという。この事から中台氏が原氏と昵懇であった事が考えられる。
 以上の事から「小中台はそもそも原氏の所領であり、原氏は高品に配下の安藤氏を置いた様に、小中台に配下である中台氏の一族を置き、小中台に移った中台氏の一族が小中台氏を称した」と考えれば、無い事も無いように思われる。
 小中台の地名は地形から考えられたと見られているが、もしかしたら中台氏から取ったのではないかと考えた。しかし明治期の地図に中台は中臺と書かれているのに対して、小中台はそのまま小中台と書かれている。とすればやはり地形説が正しいのかも知れない。

2020年07月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
小中台城

 マップ上では熊野神社南西の上り坂を城跡としているが、実際はマッピングされた位置より南東側、民家に囲まれた畑が城跡地である。城は舌状台地の上に置かれていたが、その台地は既に消滅している。市川の城ノ台城の様に、総武線開通工事で土取りにあったのかと考えたが、明治期の測量図より総武線開通後も台地があった事が確認できた。
 いつ頃台地が消滅したのか調べた所、web国土地理院地図の「1961年~1969年航空写真」では台地が確認できたが、「1974年~1978年航空写真」では消滅していた。つまり60年代から70年代の期間に消滅したという事になる。何故この時期に消滅したのだろうか?
 昭和42年(1967)、高度経済成長期にあった千葉県は第2次総合5カ年計画において千葉海浜ニュータウン構想を立案した。今の千葉街道より海沿い、遠浅の海岸線を埋め立て、住宅地を造成するという計画であった。昭和44年(1969)に埋め立て工事が着工し、昭和48年(1973)に入居が始まった。小中台城の台地が消滅したのはこの時期と重なる。恐らくは埋め立てに使う土砂の採取のために土取りが行われたのであろう。
 城の北東、鬼門の方角には熊野神社が置かれている。その場所は元々稲毛浅間神社が開かれた場所らしく、開かれたのが808年との事なので、その頃には周辺に何かしら集落などがあったと考えられる。熊野神社へと登る道は急峻で登山を想起させる。稲毛浅間神社跡地であるならば、台地を富士山に見立てて浅間神社のままでも良かったのではないかと思ったが、浅間神社ではなく熊野神社となっている。熊野信仰であった高城氏の影響が及んでいたのかもしれない。
 城の東は周囲を台地に囲まれた低地となっており、鎌倉期開創という日永寺がある。戦災で記録が焼失しているらしく、詳細は不明である。残っていれば、小中台城主などについてもう少し分かったのであろう。
 城の北・西・南は川に囲まれており、東には日永寺のある低地集落がある。更に東・北東に行くと台地が続き、同台地上には園生城や宮野木城、押越城があったとされる。

2020年07月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
小中台城跡地[小中台城  遺構・復元物]

 小中台城の正確な跡地。明治期の測量図より判断。元々は南東へと台地が続いていたが、海浜ニュータウン開発の際に消滅している為、遺構は無いものと思われる。民家に囲まれた畑地であるので中に入ることは叶わない。

2020年07月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
熊野神社[小中台城  寺社・史跡]

 808年、この地で稲毛浅間神社が開かれたとされる。熊野信仰の高城氏と関係があるかもしれない。

2020年07月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
日永寺[小中台城  寺社・史跡]

 真言宗(豊山派)の寺院。鎌倉期の開創とされるが、戦災で資料が焼失しており不詳。小中台の集落内にあり、小中台城とも関係があったと考えられる。

2020年07月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
稲毛浅間神社[小中台城  寺社・史跡]

 治承4年(1180)に源頼朝が千葉常胤の子息の中で特に優遇していた東胤頼を使者として御幣物を寄進している。また千葉氏の信仰が篤かった。元々は富士山本宮浅間大社から小中台に勧請した神社であったと云われているが、真偽の程は不明。

2020年07月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
千葉山(星宮塚墳墓群)[小中台城  その他]

 千葉氏累代の墓地であったと云われる。千葉の中心地からみて、千葉神社の背後に位置している。千葉寺・千葉神社・千葉山はほぼ直線上に南南東から北北西にかけて位置している。千葉氏の屋敷があったとされる場所からみると千葉神社の背後に千葉山があり、更にその先に妙見(北極星・北斗七星)が見える様な配置となっており、妙見信仰が町の造成に影響していたのではないかと思える。

2020年07月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
園生城[小中台城  周辺城郭]

 金蔵院裏山にあったとされる城。陣屋・馬場・長者・古屋敷などの地名があり、園生神社(妙見社)がある事から千葉一族の城であった事が分かる。また金蔵院は千葉氏歴代の墓地である千葉山の管理をしていた為、千葉氏においても重要な城であったと考えられる。

2020年07月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
宮野木城[小中台城  周辺城郭]

 明治期の測量図に城跡として記載されている。仔細は不明。

2020年07月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
押越城[小中台城  周辺城郭]

 明治期の測量図に城跡として記載されている。仔細は不明。東関東自動車道によってほぼ破壊されている。

2014年03月23日 綱島右近衛大将八雲
小中台城

 別名、小中台城の方が調べやすい。
『千葉城郭研究』第6号によると2郭構造の小規模な城郭であったらしい。
城址はかつて城山と呼ばれていた台地で、宅地開発の波に押し潰され、消滅してしまった。位置は小中台町と、小中台8丁目との境界辺り、第二稲毛ハイツの北側辺り、城山と言われた辺りは比高15mほどの高台であったそうです。現在では城址のような地形すら失われている。

「城山ハイツ」と言う名のマンションがあり、何かを期待して散策したが歴史的由来なのか判断できるものは見つからなかった。
とにかく住宅地化が進み遺構は何一つ確認出来ない。
「城山」という地名だけが、ここが城郭であったことを誇示していたが今はもう完全に使われていないようだ。


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