鷺沼城(さぎぬまじょう)

鷺沼城の基本情報

通称・別名

鷺沼館

所在地

千葉県習志野市鷺沼1-9他

旧国名

下総国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

築城主

不明

築城年

平安時代後期?

主な改修者

主な城主

鷺沼光義

廃城年

遺構

曲輪、腰曲輪、土塁

指定文化財

再建造物

石碑(鷺沼源太満義諸武士之碑)

周辺の城

馬加城(千葉県千葉市)[3.1km]
実籾城(千葉県習志野市)[3.5km]
船橋城(千葉県船橋市)[4.0km]
米ケ崎城(千葉県船橋市)[4.4km]
夏見城(千葉県船橋市)[4.5km]
高根城(千葉県船橋市)[5.0km]
金杉城(千葉県船橋市)[6.2km]
小中台城(千葉県千葉市)[7.0km]
城ノ台城(千葉県船橋市)[7.9km]
金堀城(千葉県船橋市)[9.0km]

鷺沼城の解説文



鷺沼城(さぎぬまじょう)は、千葉県習志野市鷺沼付近にあった日本の城。

概要 

鷺沼城は習志野市役所付近から300mほど南下した下総台地上の地点にある。これは西をかつての久々田村の、東をかつての鷺沼村の谷津田に挟まれて東京湾に向けて南西に向けて突出した舌状台地の先端部西より、すなわち久々田村の谷津田を南西に向けて流れる菊田川(現在は暗渠化)が台地の縁に迫る左岸の、関東ローム層の断崖上に位置する。

築城時期は不明だが、吾妻鏡に見える、石橋山の戦い後に頼朝が兵を整えた鷺沼旅館をこの鷺沼城に比定する向きがあり、この説を容れれば築城時期は平安時代に遡る事になる。

その後の鷺沼城に関しても詳細は明らかではないが、千葉郡誌に正応年間(1288年-1292年)に鷺沼太郎源太光義が拠りその墓が高台の南西部に築かれたとあり、本丸内の祠がその墓であると伝わる。

城跡に建つ1959年(昭和34年)建立の石碑碑文によると、600年前の正応年間に市川城主の里見氏と鷺沼源太満義ら下総の諸将が北条氏康と戦って敗れたとあり[1]、第二次国府台合戦に鷺沼氏の末裔が加わった可能性が考えられるが、内容がひどく混乱しており、また、前述の鷺沼太郎源太光義と読みが同じであることから、光義の事績が誤って伝わったものとも考えられる。

鷺沼城址公園 

鷺沼城のあったとされる場所は現在鷺沼城址公園として整備され、一般に開放されているが[2]、城跡と言える遺構は未発見である[3]。同公園の敷地には鷺沼古墳群のA号墳とB号墳の2基の前方後円墳も位置しており、これらの古墳の発掘により埴輪などが出土している。武人埴輪と馬形埴輪のレプリカが飾られている。ここから発掘された埴輪は下総型円筒埴輪のほかに人物埴輪と馬の埴輪の破片が出土しているが小さな断片のみであり、このレプリカの様式であるかは不明である。

鷺沼城の口コミ情報

2024年01月06日 伊東外記胤康
鷺沼城

鷺沼城は現在鷺沼城址公園という公園になっています。城の遺構らしいものは見当たりませんが公園は広く鷺沼古墳という古墳もあります。

2023年07月30日 あんどー治部少輔
鷺沼城



暑い中でしたが、木陰が多くてマシでした。ランニングコースになっているようで周回されてるランナーがいました。城跡の片側は崖になっており、昔反対側が海岸すぐ近くだったことを想定すると、城として長い間機能していたであろうことは納得がいきます。古墳あとも二つあり、土塁代わりに利用していたのでしょうか。

昭和30年代に建てられた大きな石碑の裏に、鷺沼氏が一帯を治めていたが北条氏康との戦いに破れた、との記載。そばにあるその氏族を祀る祠があり、そこに歴史を感じます。きれいに手入れされ祀られています。
大型遊具もある現代の公園にあります。

2023年05月01日 寺右京大夫にゃん
鷺沼城



遺構が分からなくても歴史公園風に整備されているので好印象です。

2023年01月10日 恋川秋町
鷺沼城



下総台地の関東ローム層の上に築かれたお城。築造当時は海岸線も近くにあり、すぐ下には菊田川(現在の菊田遊歩道)が流れており天然の要害だったと思われます。近くにある菊田神社の辺りまで海が入り組んでいたとのことなので、この辺りはかつて下総台地が海に突き出た岬の様な所だったのでしようか。ここがお城になる前は古墳だったというのもそう考えるとうなずけます。かなり大きな石碑の裏にある文章を読み感慨に浸りました。かつてこの地を支配していた鷺沼氏が、ここ津田沼の地から里見軍とともに国府台まで進軍して、北条氏康と戦い散っていったという歴史が書かれていて、この場所出その時、何を話たのだろうか、などと想像したりしていると時間が経つのを忘れていました。ちなみに津田沼という名称は、この辺りの土地の三つの名前、谷津(つ)、田喜野(た)井、鷺沼(ぬま)の合成だそうです。

2022年05月03日 くっしー民部大輔尚人
鷺沼城



現状は公園になっています。立地はいいけど遺構は残っていないので面白くないなぁ~と思っていましたが、公園の中央に古墳が残っていました。この地域の豪族のものだろうと書かれていました。

さて、その後この地に里見氏が築城した時には古墳の存在には気づかなかったのでしょうかね?これは個人的な妄想ですが、あえてこの地域の聖地とされる場所に築城したんじゃないでしょうか。里見氏は最終的にここで北条氏に滅ぼされる訳ですが、何か霊的なものに望みを託していたんじゃないですかね。この城跡を見てそんなことを考えました。

場所は京成津田沼駅から徒歩で15分、習志野市役所から10分の所にあります。

2020年12月02日 梨栗桃
鷺沼城



現在は城址公園になっています。
京成津田沼駅から歩いて10数分というところ、習志野市役所角の交差点から遊歩道を進むと到着します。
遊歩道より1段高い位置にある公園内に前方後円墳が2つ。
城址公園なのに城に関する説明が全く見当たりません。


2020年09月12日 山内侍従伊右衛門俊胤
鷺沼城

 鷺沼城は海岸線沿いの台地上にあったとされている。西側に菊田遊歩道があり、かつてはこの道沿いに菊田川が流れていた。そのため、遊歩道から城跡の台地を見上げると10mを超える崖となっている。城の東側には根神社や慈眼寺がある。鷺沼城と根神社は同じ台地上にあるが両者の間には広い切通しが造られており、道路として利用されている。遺構を利用したものであるという考えをいくつか見たが、明治期の地図にはこの切通しが見受けられない。切通しは後世の土地整備で造られたものと考えられる。台地の縁・川沿い・集落傍という城の条件を満たしてはいるが、城郭を思わせる遺構はない。城跡は公園となる前に畑地として利用されており、また城の南西側には鷺沼ガス供給所が建設されていた。時代の移ろいの中で城の遺構は破壊されたのだろうか?
 公園内には前方後円墳が二基あり、六世紀後半のものと見られている。古墳の石棺には南房総の石が使われており、古墳時代からこの地に豪族がいたこと、また他地域と関わりがあったことが窺える。
 鷺沼を領していたのは千葉氏家臣の鷺沼氏とされる。鷺沼城及び鷺沼氏に関する記録は少なく、そのどれにも確証はない。「吾妻鏡」治承4年(1180)10月には、再起を図る源頼朝が「鷺沼御旅館」に滞在したと記されている。この「鷺沼」を津田沼の鷺沼とする向きもあるが、頼朝は9月の段階で下総国府にて千葉常胤一行と合流し西に向かっている。10月の段階で津田沼に居る事は考え難く、「鷺沼」とは葛飾区新宿の事を指していると考えられる。
 室町時代、寺崎城合戦の伝承に馬加康胤の家臣として鷺沼兵庫が見える。その他にも「房総里見軍記」「関八州古戦録」などには、鷺沼源吾・鷺沼源太・鷺沼七郎兵衛の名が見える。これらの記述によると、鷺沼氏は第二次国府台合戦において里見氏に味方したという。
 「常総軍記」では千葉勝胤家臣として「鷺沼に木村十太夫」が配置されていたと記されている。木村というと、千葉介勝胤の五男胤祐が木村加賀守と称した事に始まる木村氏がいる。こうした軍記物語は後世に書かれた物であるので鵜呑みにするのは危険だが、これらの記述に沿って考えると、国府台合戦の勝利によって海岸線地域の支配権を取り返した千葉氏は、里見に与した鷺沼氏を排除し、一族の木村氏を代わりに置いたのかも知れない。

2020年09月12日 山内侍従伊右衛門俊胤
鷺沼城

千葉介胤将の子
 享徳3年(1454)、千葉氏にも大きな影響を与えた享徳の乱が起きる半年ほど前、ある人物が22歳の若さで死去した。千葉氏当主、千葉胤将である。胤将は管領上杉氏と鎌倉公方足利成氏の対立構造の中で、大叔父の馬加康胤に同調し公方側についていた。宝徳2年(1450)に管領上杉憲忠の家臣長尾景仲と扇谷上杉家の家臣太田資清が成氏の御所に攻め込んだ際には、胤将は成氏を救うために出兵し長尾・太田の勢力と戦ったという。この事件は上杉憲忠の叔父上杉重方が調停したものの、4年後には成氏が憲忠を殺害し、結局上杉氏と公方の対立は決定的なものになる。
胤将は憲忠殺害の前に病死。父の胤直と弟の胤宣は胤将と異なり上杉氏に味方し、公方側の馬加康胤・原胤房が反旗を翻す事になる。
 22歳の若さで病死した胤将であるが、彼には胤光と名乗る息子がいたという。胤光は千葉氏が内紛へと進んでいく中で、家臣に守られながら千葉から現在の津田沼方面に逃れた。胤光は自らを千葉権介と称したという。その子孫は鷺沼に土着し、村山姓を名乗った。
 あくまで伝承の域に過ぎないが、鷺沼氏は馬加康胤の郎党であったとされる。鷺沼氏が領したであろう鷺沼に胤光が逃れたのは、胤将が康胤と同じく公方側の立場にあった事と関係しているのだろうか?鷺沼城近くの根神社の神主は村山氏が世襲していたと云われ、上記の村山氏に関係があるのではないかと考えられる。
 胤光が胤将の子であるとすると、千葉宗家の継承者が残っている事になる。だとすれば何故、馬加康胤・原胤房は岩橋輔胤でなく胤光を次期当主として担ぎ上げなかったのかという疑問が残る。千葉氏内部の派閥関係や、村山氏が本当に胤将の子孫であったのかという点も含めて、この辺りの千葉介の行方には謎がある。

2020年09月12日 山内侍従伊右衛門俊胤
鷺沼城

藤原時平の伝承と下総
 藤原時平と言えば、菅原道真を失墜させた後、その怨念によるものなのか39歳でこの世を去った人物として有名である。勿論時平は京都の人物であるが、何故か津田沼の菊田川流域から八千代の高津・大和田・萱田にかけて藤原時平にまつわる神社が点在している。
 さらに津田沼の菊田神社には藤原師経・藤原師長が流れ着き藤原時平を祀ったという伝承、八千代市高津には時平の娘という高津姫の伝承が伝えられている。房総の伝承ならば、平将門、源頼朝、千葉一族に関わる物の方が自然に思える。わざわざ藤原時平の伝承とする事には、何かしらの基となった出来事等があるように思えてならない。
 藤原氏の氏社である春日大社が創建された折、第一殿に武甕槌命(鹿島)、第二殿に経津主命(香取)が勧請されている。祖神である天児屋根命(第三殿)よりも東国の二社が上位に位置付けられており、藤原氏の信仰の厚さが窺える。さらに香取神宮の大宮司・大禰宜を藤原氏と同族の大中臣氏が独占し、その補任を藤原氏が行っていた事からも香取神宮と藤原氏の関係の深さが窺える。この様に藤原氏と下総は桓武平氏の勢力拡大以前より繋がりがあった。
 平安後期には北家法住寺流藤原氏が伊勢平氏と結びつき、下総で威勢を誇っていた。後に頼朝に臣従した千葉氏に敗れ歴史の表舞台から姿を消すが、千葉氏の下で香取神宮領の裁量を行っていた中村氏がその子孫であるとも言われている。
 その他にも、「八幡荘の大田乗明の甥大田五郎左衛門茂明が本姓を藤原としている」「道野辺の三橋孫六家の祖が藤原左衞門丞という人物であったとしている」「現在中山競馬場がある場所の北側には「藤原」という地名がある」といった藤原氏に纏わる地名・伝承が散見される。下総藤原氏の一族郎党が千葉氏の配下として続き、そうした者達の中で祖先に関する伝承が作られ、伝えられてきた可能性が考えられる。
 江戸時代になると菅原道真を「学問の神」とした天神信仰が庶民に広まっていく。こうした状況の中で、今までこの地域に伝えられてきた下総藤原氏の伝承が、菅原道真と対を為す藤原時平の物へと変貌していったのではなかろうか?
 もしかすれば、鷺沼氏や二宮神社の三山氏なども、元々藤原氏の郎党であったのかも知れない。

2020年09月12日 山内侍従伊右衛門俊胤
八剱神社[鷺沼城  寺社・史跡]

 創建不詳。根神社の末社であったという。神主は根神社の村山氏が兼務していた。

2020年09月12日 山内侍従伊右衛門俊胤
根神社[鷺沼城  寺社・史跡]

 承平年間(931~937)の創建と云われる。神主は村山氏の世襲であり、千葉胤将の子孫を称する村山氏と関係があるのではないかと思われる。

2020年09月12日 山内侍従伊右衛門俊胤
蓬莱山慈眼寺[鷺沼城  寺社・史跡]

 創建不詳であるが、江戸時代初期には既に創建されていた。仮に創建が戦国時代以前のものならば、鷺沼城のある台地の麓にある事から、鷺沼城と関係があるのではないかと考えられる。

2020年09月12日 山内侍従伊右衛門俊胤
菊田神社[鷺沼城  寺社・史跡]

 弘仁年間(810~823)の創建。境内はかつて入江の中の小島であったという。
 治承4年(1180)、藤原師経・藤原師長が流罪となって当地に辿り着き、祖先である藤原時平を祀ったというが、藤原師経は「鹿ケ谷の陰謀」にて六条河原で斬首されており、もう一方の藤原師長は流罪になってはいるものの配流先は尾張国で3年後に帰京が許されている。この地域に居た藤原氏の一族子孫が、頼朝に臣従した事の正当性を高めるために平家に敵対した人物の伝承を作り上げたのかも知れない。
 元々は地名から採って久々田明神と称していたが、宝暦年間(1751~1763)に菊田大明神と改称した。

2012年03月07日 ビバちゃん
鷺沼城

城の面影はほとんどないですが公園内の古墳から発見された石棺が見る事が出来ます。春は桜が園内に植えてあるのでまったり花見出来て良いと思います (^-^)v

鷺沼城の周辺スポット情報

 菊田神社(寺社・史跡)

 蓬莱山慈眼寺(寺社・史跡)

 根神社(寺社・史跡)

 八剱神社(寺社・史跡)

 二宮神社(寺社・史跡)

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