船橋城(ふなばしじょう)

船橋城の基本情報

通称・別名

所在地

千葉県船橋市市場1他(卸売市場)

旧国名

下総国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

舟橋氏?

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

周辺の城

夏見城(千葉県船橋市)[1.0km]
米ケ崎城(千葉県船橋市)[1.6km]
高根城(千葉県船橋市)[2.3km]
金杉城(千葉県船橋市)[2.9km]
城ノ台城(千葉県船橋市)[4.1km]

船橋城の口コミ情報

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年10月10日]
船橋戦争
慶応4年閏4月3日(明治元年・1868年5月24日)、市川・船橋で旧幕府軍と新政府軍の間で南関東最初の本格的な戦闘が行われた。旧幕府方は中山法華経寺に100、船橋大神宮に600の撒兵隊を置き本陣とした。対する新政府軍は弘法寺に本陣を置いて、行徳に福岡藩100、八幡に岡山藩他100、鎌ケ谷に佐土原藩200、本陣に安濃津藩他400を配備した。閏4月3日午前5時頃、旧幕府方が八幡に急襲を仕掛け、戦闘が始まった。当初は旧幕府方が優勢であったが、次第に新政府軍の増援によって戦況が傾き撤退した。その頃、船橋には佐土原藩が攻め込み、船橋大神宮の旧幕府軍本陣を取り囲んで戦闘となった。船橋大神宮が砲弾の直撃を受けて炎上、旧幕府方は総崩れとなるも、残党が抵抗を続けたために佐土原藩は船橋に火を放った。これが予想外の大火事となり、船橋は814軒が焼失するという大損害を被った。明治7年(1874)、千葉県令柴原和が政府の了解を得て、旧幕府軍も含めた全ての戦死者の供養を行う事を許可した。了源寺には幕府軍兵士「菅野鋭亮」の墓が存在し、幕府軍を「脱走様」と敬称を付けて葬っている。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年10月10日]
船橋御殿
慶長19年(1614)、徳川家康は東金へと鷹狩りに出かけた。その際、東金御成街道が整備され、街道沿い、船橋の地に船橋御殿が伊奈忠政家来、遠山群太夫・根岸助太夫の手によって造営された。御殿の場所には元々富中務大輔基重の邸宅があったとされ、それを基に御殿が造られたという。慶長19年時点では、東金御成街道が完成しておらず、家康が船橋御殿を利用したのは元和元年(1615)11月の鷹狩りの行きと帰りの2回のみだったという(ちなみに元和元年の鷹狩りの折、船橋で火災が起った。この時、家康は何者かに鉄砲で撃たれたが、富氏が救ったという伝承が地元に残されている)。その後、船橋御殿は秀忠が10回、大納言時代の家光が1回利用したが、寛永7年(1630)12月以降、東金での鷹狩りは行われず、寛文11年(1671)4月には船橋御殿は取り壊され、貞享年間(1684~1688)に富氏に払い下げられ、畑地となった。富氏は御殿跡の中心部に家康を祀る東照宮を建立したと伝えられており、この東照宮は安政4年(1857)の再建、昭和2年(1927)の修繕を経て、現在も日本一小さな東照宮として同地に残っている。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年10月10日]
富氏と船橋氏3
では、富氏と船橋氏はどのような関係性であったのだろうか?船橋城、船橋大神宮、富氏の舘(船橋御殿と考えられている)は全て、夏見入江に面した場所にあり、密接に関わっていたと思われる。船橋を統治していた富氏にとって、外敵から領地を守る事も重要な勤めであった事は想像に難くない。特に港の防衛は最重要事項であっただろう。そこで富氏はその財力を以て水軍を組織し、その屯所として船橋城を築城したのではないか?船橋氏は富氏より港の防衛を任された水軍の頭領が地名より名乗った姓であったのではなかろうか。船橋氏が富氏以前よりこの地に居た豪族や他所より雇われてきた者達なのか、それとも富氏の縁者のものであったのかは分からないが、少なくともこの地に社家・領主を務めた富氏と、軍事を司った船橋氏がいた事だけは、過去の記録より明らかである。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年10月10日]
富氏と船橋氏2
富氏の始祖は、12代景行天皇の第4皇子五百城入彦で、天皇の詔により船橋に下向し、東国88ヶ村の県主と日本武尊が創始した意富比神社の神主として赴任したという。この富氏、天正6年(1578)の「高城胤辰禁制」(『舟橋文書』)に「船橋殿」と記載されており、社家としてだけでなく、在地領主としての一面も有していたと考えられる。実際、夏見入江の海運業を実質的に支配していた律宗の安養寺(既に廃寺)は船橋大神宮の別当寺であり、中世船橋の主要産業であった海運業を取り仕切って居たのは富氏と考えられる。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年10月10日]
富氏と船橋氏1
船橋城の存在を肯定すると、船橋城は誰の城であったのかが気になる点である。船橋の地名を名に冠した者の存在はいたる時代で見受けられる。『千葉実録』には、船橋弥太郎が源頼義に従って、前9年の役(1051~1062)に従軍したという。また、船橋飛騨守が、馬加康胤に属して、東常縁の軍勢と戦った(1455頃)という。本土寺過去帳には「(原)左衛門太郎 フナハシ海賊ニテ被打」という記述があり、船橋を根拠にした水軍・海賊がいた事が分かる。つまりは古くより船橋には「船橋(舟橋)氏」という水軍の氏族が居たものと考えられる。普通であれば、話はここで終わりなのだが、船橋を語る上では、決して無視してはならない氏族がいるのだ。船橋大神宮(意富比神社)社家「富氏」である。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年10月10日]
海老川左岸、総武線の北側に位置する船橋中央卸売市場が船橋城跡と言われている。地形に城跡を思わせる様な特徴が無く、知らなければここが城跡などとは夢にも思うまい。実際、船橋城の存在には今でも疑問符が置かれているという。ではそもそも、なぜここに城があったという事が考えられたのだろうか?
明治36年の陸地測量部地図を見ると現在の中央卸売市場南東に「城腰松」という文字とそれを囲うような土手の存在が記載されている。土手は昭和14年(1939)に鴨川ニッケル工業船橋製錬所が造られた際に消滅してしまったが、松は現在も「将門の腰掛松」として市場内に存在する。また、城腰松の周辺は「城ノ腰」という地名であったそうで、これは城郭があった場所に多く付けられる地名である。こうした事実がこの地に城があったという証拠として考えられているのだ。中世、海老川河口から市場のすぐ北の夏見までは入江となっていたという。陸路を行く際には夏見の薬王寺から峰台を経て船橋大神宮の辺りに出る古道を用いたそうで、城ノ腰はこの古道と入江の両方に面した要所であった。

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