船橋城(ふなばしじょう)

船橋城の基本情報

通称・別名

所在地

千葉県船橋市市場1他(卸売市場)

旧国名

下総国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

舟橋氏?

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

周辺の城

夏見城(千葉県船橋市)[1.0km]
米ケ崎城(千葉県船橋市)[1.6km]
高根城(千葉県船橋市)[2.3km]
金杉城(千葉県船橋市)[2.9km]
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船橋城の口コミ情報

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
船橋城

海老川左岸、総武線より北側に位置する船橋中央卸売市場が船橋城跡と言われている。現在の地形に城跡を思わせる様な特徴が無く、知らなければここが城跡などとは夢にも思うまい。なぜここに城があったという事が考えられたのだろうか?明治36年の陸地測量部地図を見ると、現在の市場内郵便局の位置に「城腰松」という文字とそれを囲うような土塁の存在が記載されている。1945年~1950年に撮られた航空写真を見ると、土塁なのか堀なのかは判別できないが、城腰松の周りが囲まれているのが分かる。土塁は既に消滅してしまったが、城腰松については「将門の腰掛松」として市場内に松が植えられている。また、城腰松の周辺は「城ノ腰」といい、これは城郭があった場所に多く付けられる地名であるという。更に中世には海老川河口から市場の北の夏見までは入江となっており、城ノ腰は入江に面した要所であったとされている。こうした事実がこの地に城があった証拠として考えられているのだ。
船橋は縄文時代早期から人の居住があった事が発掘により確認されている。貞観5年(863)の『日本三代実録』には既に意富比神社(船橋大神宮)の存在が記載されており、古代の段階で意富比神社を中心とした社会が営まれていた事が考えられる。平安時代後期には海老川沿いの地域が夏見御厨(船橋御厨)として寄進されている。頼朝に臣従する前の千葉氏の勢力圏が千葉から下総国府に及んでいた事から、船橋も千葉氏の勢力下に置かれていたとみられ、鎌倉期もそのまま千葉氏勢力下の地域として存在していった。千葉氏が後北条氏の傘下に入ると、船橋も後北条氏の差配を受けた様で、永禄2年(1559)に北条氏政の寄進を受け了源寺が創建された他、第二次国府台合戦で慈雲寺が兵火に焼かれると、天正18年(1590)には北条氏政により再興されている。戦国末期には高城氏の影響も強く受ける様になったと見られ、元亀2年(1571)に船橋大神宮で起きた騒動の調停に高城胤辰が乗り出している。小田原征伐の後は船橋に御殿が築かれ、江戸時代を通して船橋大神宮は多くの旅行者が参拝する名所になったという。
幕末に戊辰戦争が起きると船橋も戦場となり、814軒の家屋が焼失するという被害を受けた。後の明治7年(1874)に千葉県令柴原和が旧幕府軍も含めた戦死者の供養を許可し、現在も慈雲寺・了源寺には幕府軍の兵士の墓石がある。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
船橋城

富氏と船橋氏
 古くより船橋にてその勢力を誇っていた一族に意富比神社(現在の船橋大神宮)の社家である富氏がいる。その始祖は船橋に下向した景行天皇の第4皇子五百城入彦だという伝承があるが、日本書紀によれば景行天皇の子息の内、成務天皇・日本武尊・五百城入彦の3人は下向していないという。富氏について更に調べてみると、富氏の始祖は千葉国造にそのルーツを持つ伴冨宿禰であるという。どちらにしても、富氏の祖先は桓武平氏の下向以前から下総にいた古い一族という事になる。
 中世、富氏は別当寺であった安養寺を通じて船橋の水運・交易に関わっていたという。実態としては元々船橋の地主であった富氏が、別当の安養寺を窓口として莫大な利益を上げていたのであろう。信仰・土地・商業を掌握した富氏は次第に在地豪族としての性質を持っていった。富氏の屋敷と安養寺は夏見入江の入り口、現在船橋東照宮が置かれている場所にあったとされる。入江の対岸高台には意富比神社があり、入江内部に船橋城があったとされる。船橋城は夏見入江の船着き場・交易場であったのかも知れない。交易を財源とする地域にとっては、船は輸送・警備に使う重要な資産である。それを管理する場所が城の様相を呈するのは至極当然の事だろう。
 船橋城を語る上でもう一つ考慮したいのが、船橋に関わる史料・伝承に度々登場する「船橋」の名を冠した勢力の存在である。千葉氏に関する史伝「千葉実録」によれば、前九年の役(1051~1062)にて「船橋弥太郎」なる人物が源頼義の配下として参戦したという。また享徳3年(1455)に始まった享徳の乱における「寺崎城の合戦」の伝承に、馬加康胤の配下として「船橋飛騨守」の名がある。天正6年(1578)、高城胤辰の禁制にも「船橋殿」という記載があるといい、富氏の事を指しているとされる。だがこれを以て「船橋弥太郎」や「船橋飛騨守」までもが富氏の一族であったとは言い切れない。源頼義には千葉氏の祖先である平常将が従っている事から、「船橋弥太郎」が船橋に居住した桓武平氏の一族である可能性もあり得る。ただ、頼義について言えば、息子の義家と共に意富比神社の修造を請け負っており、更には義家の曾孫にあたる源義朝が神社の再建を行っている。河内源氏と意富比神社の関係は深い物であったと見られ、社家である富氏の一族から源頼義の郎党が出ても不思議ではない。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
船橋山清浄心院西福寺[船橋城  寺社・史跡]

 創建不詳。船橋御殿址周辺から移されたという律宗の僧の墓と思われる南北朝期の五輪塔がある。元々これらは安養寺にあったのではないかと考えられる。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
船橋大神宮(意富比神社)[船橋城  寺社・史跡]


 景行天皇40年、日本武尊が東国御平定の折に住民のために天照皇大御神を祀ったのが始まりとされる。延長5年(927)の「延喜式」に当社の記載があり、少なくとも平安中期には創建されていた。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
富氏屋敷・船橋御殿(船橋東照宮)[船橋城  周辺城郭]

 慶長19年(1614)、天下をほぼ手中に収めていた徳川家康は東金へと鷹狩りに出かけた。その際、東金御成街道が整備され、その街道沿い、船橋の地に船橋御殿が関東郡代伊奈忠政家来、遠山群太夫・根岸助太夫の手によって造営された。
 御殿の場所には元々富中務大輔基重の邸宅があったとされ、それを基に御殿が造られたという。
 慶長19年時点では、東金御成街道が完成しておらず、家康が船橋御殿を利用したのは大坂の陣後、元和元年(1615)11月の鷹狩りの行きと帰りの2回のみだったという(ちなみにこの鷹狩りの折、船橋で火災が起った。この時、家康は何者かに鉄砲で撃たれたが、富氏が救ったという伝承が地元に残されている)。その後、船橋御殿は秀忠が10回、大納言時代の家光が1回利用した。寛永7年(1630)12月以降、東金での鷹狩りは行われず、寛文11年(1671)4月には船橋御殿は取り壊された。貞享年間(1684~1688)に富氏に払い下げられ、畑地となった。
 富氏は御殿跡の中心部に家康を祀る東照宮を建立したと伝えられており、この東照宮は安政4年(1857)の再建、昭和2年(1927)の修繕を経て、現在も日本一小さな東照宮として同地に残っている。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
大峰山慈雲寺[船橋城  寺社・史跡]

 弘安2年(1279)、宋僧無学祖元を開山に迎え、北条氏が創建。現在の峰台小学校の地を中心とした大寺であったという。
 永禄7年(1564)、第二次国府台合戦で撤退してきた里見氏と後北条氏がこの地で戦い、兵火で焼失。天正18年(1590)には北条氏政が再興する。
 明治には幕軍と新政府軍の戦いで戦火に遭った。明治7年(1874)に千葉県令柴原和の許可を得て幕軍兵士の墓が建てられ、墓石が現存している。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
峰台遺跡(里見氏拠点)[船橋城  寺社・史跡]

 峰台小学校周辺の遺跡。縄文時代早期の炉穴や古墳、中世の台地整形区画や掘立柱建物跡、井戸など、様々な時代の遺構が検出されている。高台にあり、弘安2年(1279)に創建された慈雲寺の中心であった。
 永禄7年(1564)、第二次国府台合戦で撤退して来た里見氏がこの地に陣取り後北条氏を迎え撃ったといい、慈雲寺には城郭機能も施されていたと考えられる。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
光雲山了源寺[船橋城  寺社・史跡]

 寺伝によると永禄8年(1565)に伝翁(俗名は藤原匡親)が北条氏政に土地を寄進され創建したという。藤原匡親は藤原北家日野流の日野内光の子で、足利義輝に仕えていたが「永禄の変」で主君を失い関東に下向したという。石山合戦に本願寺側として参加していたともされ、関東に下向したのは講和後の天正8年(1580)とも云われる。
 境内の鐘楼堂は享保年間(1716~1736)に幕府が大砲の試射を行った台座跡であり、幕府から「時の鐘」として公許され、明治4年(1871)の廃止まで時報として機能していた。
 境内には旧幕軍として戊辰戦争に参加し、28歳で戦死した菅野銃亮源元資の墓が現存している。

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