多部田城(たべたじょう)

多部田城の基本情報

通称・別名

所在地

千葉県千葉市若葉区多部田町松崎宿

旧国名

下総国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

多部田(千葉)胤忠

築城年

室町時代

主な改修者

主な城主

多部田氏、原氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

周辺の城

御茶屋御殿(千葉県千葉市)[2.4km]
木出城(千葉県四街道市)[4.3km]
有吉城(千葉県千葉市)[5.6km]
生実城(千葉県千葉市)[6.0km]
高品城(千葉県千葉市)[6.1km]

多部田城の口コミ情報

殺三千世界鴉⚡️晋作様[2017年05月28日]
あくまでも一つの説として紹介する。
地頭は千葉常胤の四男、大須賀胤信(多部田四郎)である。

戦国期の城主とされる白井胤治の活躍は、臼井城の口コミを参照。

胤治はすでに真壁宗幹を養嗣子としていた。のちに胤隆・胤邑と実子を設けるが、変わらず宗幹を嫡男とした。
小田原征伐では宗幹と胤邑が小田原に籠城。
胤隆が守る多部田城は、本多忠勝・平岩親吉麾下の攻撃で開城。

宗幹は豊臣秀次家老となるが、秀次事件ののち秀吉に直仕。次男幹時の長女、春が家康侍女だった縁で、その弟の伊信が徳川頼房・光圀に仕え水戸藩大老に出世。
一方、幹時の次女、良は淀殿に仕え千姫と脱出。
のち、旗本の豊島忠次に嫁ぎ、その長男の勝久が旗本白井家を興す。この家系から大奥御年寄の江島(絵島)を輩出。

戦争末期、米軍の九十九里上陸に備え陸軍が最福寺に駐屯した際、防空壕が掘られるなど城址遺構に改変が施された。(写真①〜⑥)
また、最福寺と切り通しを挟んで隣接する主郭(写真⑦⑧)でも堀を埋めて土橋を設けたり、装甲車を隠すために斜面を削るなどの改変が生じ、一概に遺構と断定できない現状がある。

Nabeppu左馬頭様[2017年05月05日]
東金街道(R126)の平和公園入口(信号)を平和公園方面へ曲り、200m位進み右折した辺りが城跡だと思われます。周囲からの高さが4m程の丘場になっています。周囲を田んぼと農家に囲まれ遺構を確認するのは少々難しいです。郭と思われる場所は竹藪に覆われてますが、平らになっています。

藤井伊賀守様[2016年01月17日]
お寺の裏手に良好に、空堀がのこっています。ヤブがひどいですが、郭の様子も確認出来ます。

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