有吉城(ありよしじょう)

有吉城の基本情報

通称・別名

所在地

千葉県千葉市緑区おゆみ野有吉

旧国名

上総国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

北条綱成

築城年

天文年間(1532〜1555)

主な改修者

主な城主

北条綱成

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

周辺の城

生実城(千葉県千葉市)[2.3km]
曾我野陣屋(千葉県千葉市)[3.7km]
多部田城(千葉県千葉市)[5.6km]
千葉城(千葉県千葉市)[6.6km]
犬成城(千葉県市原市)[7.7km]

有吉城の口コミ情報

横田民部丞藤原朝臣氏胤様[2017年10月01日]
城ノ台遺跡と有吉城
大百池公園東側の台地には土塁や虎口らしき物があり、戦国期には城として利用されていたのではないかと考えられている。確かに、台地は独立しており生実城からも近い為、守りを固める支城として申し分ない。仮に城があったとして、いつ頃築城されたのか?有吉城と同時期とは考え難い。里見の侵攻に備えるのに、既存の城を使わず、その上すぐ近くに築城するとは思えない。北条が生実城を接収した時には既に廃城であったと考えられる(城はあったが、地理的条件を鑑み、有吉城を築城した可能性もあるが)。同様の理由で北条が後に築いたとも考え難い。生実城の南東側にある為、北条を警戒していた小弓公方の時代に築かれたと言うのも難しい。とすれば、最も可能性が高いのは小弓公方時代前の原氏である。
有吉城があるとはいえ、城ノ台の位置、地形は魅力的である。守りを強固にするならば、城ノ台にも兵を置き、遊撃、補給、援軍要請、敵兵力の分散と様々に使えたであろう。

横田民部丞藤原朝臣氏胤様[2017年10月01日]
有吉城の戦い
有吉城については木更津の有吉城の事だという説があり、そもそも軍記物を根拠としている為、実際に此処で下記の様な戦が行われたのかも検討の余地がある。その上で房総里見軍記に沿うと、天文7年(1538)の第一次国府台合戦で足利義明を破った北条氏綱は下総へ進出し、生実城を接収した。これを機に里見義堯・義弘が下総・武蔵に勢力を伸ばそうと北上したが、北条は氏康の娘婿で千葉氏当主の千葉利胤と同盟を結び、有吉城に北条綱成を派遣、里見を牽制した。翌天文8年、機を窺っていた里見が春の到来とともに数日間に及び攻め寄せた。綱成は里見の猛攻を防ぎながら小田原へ援軍を要請、相州大庭に赴いていた朝倉能登守が事態を聞き、すぐに救援に馳せ参じた。朝倉の兵を自らの援軍と勘違いした里見は包囲を解いて城から離れ、これを好機と見た綱成は打って出た。奮戦の末、不利を悟った里見は上総へと退陣した。北条は里見を討とうと兵を挙げたが里見救援の為に上杉が出陣した事で、対応の為に引かざるを得なくなった。
※ミスがあった為、修正致しました。

横田民部丞藤原朝臣氏胤様[2017年09月30日]
有吉城は里見への牽制の為北条により築かれた。生実城からの近さや規模からして出城と考えられる。マップでは有吉公園を城跡としているが、低地で里見の猛攻に耐えられるとは思えない。公園すぐ北の宅地は土地が高く、明治期の地図では元の集落が此処にある。宅地開発される前には土塁があったそうだ、城を築いたのは此処が妥当か。
有吉の歴史は古く、有吉公園の東に有吉日枝神社が鎮座する有吉南貝塚がある。周辺で最も土地が高く、旧石器時代より人々が暮らして来たと見られている。神社も太古の昔より祀られていたのだろうか?もしかすると北条綱成が訪れていたかもしれない。有吉公園の西には大百池公園がある。大百池周辺は古代豪族麻績氏が開発したと言われており、台地地下には縄文時代の住居跡もある。此処が出城でも良かったのではと考えたが、有吉城があったと考えられる宅地の方が標高が高く、近くに高台もある。急拵えの城だろうによく考えているものだ。有吉公園の南、刈田子公園の裏手の小山に白旗社があり、里見は此処に陣を置いたと言われる。

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