犬成城(いんなりじょう)

犬成城の基本情報

通称・別名

所在地

千葉県市原市犬成字湯武倉、坂之下

旧国名

上総国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

不明

築城年

戦国時代

主な改修者

主な城主

不明

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口

指定文化財

再建造物

周辺の城

大椎城(千葉県千葉市)[6.7km]
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佐是城(千葉県市原市)[11.5km]
中野城(千葉県千葉市)[12.3km]

犬成城の口コミ情報

2019年06月30日 愛甲太閤【相模の狂人】
犬成向山城[犬成城  周辺城郭]

犬成城から南側の道を反対側の、杉林の中に眠っています。
★長さ100mくらいの土塁と空堀のセットが残っているだけのようですが、空堀に面した土塁の造りはしっかりしており、横矢がけもあります。
★土塁の裏側がしっかり造り込まれていないなど、未成の城っぽい雰囲気を感じました。

2019年01月27日 愛甲太閤【相模の狂人】
犬成城

先人の情報にしたがって畑の中を進んでゆくと杉林にぶつかり、なお進んでゆくと唐突に空堀と2郭の虎口が現れます。左に折れると土橋のかかる深い空堀、奥には高い土塁に虎口が切れ込んで主郭が広がります。
★ハッキリ遺構らしいものが見える範囲は狭いですが、暗い杉林の中に立派な土の遺構が横たわる様は、打ち捨てられ忘れられ
た感いっぱいです。
★また、少し南にある向山城も、杉林の中に高く横矢の利いた土塁と空堀が横たわっていて、見逃せません。

2018年01月18日 山内侍従伊右衛門俊胤
犬成城

土気酒井氏の信仰と寿福寺
寿福寺は日蓮宗の寺院であるが、現在の日蓮宗は本門宗、旧日蓮宗、顕本法華宗の三派合同によって1941年に成立した。この内顕本法華宗は土気、東金両酒井氏の祖である上総酒井氏が熱心に信仰した宗派である。その熱心さは政策にも現れ、上総七里法華という領内への改宗令が出された程であった。これには逸話があり、上総酒井氏の祖とされる酒井定隆が妙満寺派(現顕本法華宗)の僧日泰と同船した折、突如海が荒れ出した。日泰は読経により海を鎮め、これに感じ入った定隆は日泰に帰依し、己が一国一城の主となった折は領民を法華宗に帰依させることを約束したという。

2018年01月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
犬成城

戦国期以前の犬成
犬成城のあった場所の字名は湯武倉と書き「ゆーがや」と読む。城自体も地元では「ゆうげじょう(要害城)」呼ばれていることから、地名は要害に由来すると考えられる。犬成城は戦国後期の城であるが、福寿寺や鳥越塚から、以前からこの地には何かあったのではと考えられる。地名に着目すると、犬成は現在「いぬなり」と呼ばれているが、元々は「いんなり」であり、民話が元だが由来は平将門に関係していることが分かった。将門は自らを新皇と称し、この地に行幸した。それゆえにこの地を「院成」と称し、転じて「犬成」となったという。他にも周辺の「奈良」「古都辺」などの地名は将門に関係しており、平将門の支配が及んでいたことが分かる。また、「市原の城郭跡について」を発表している落合忠一氏は、千葉常胤の弟とされる椎名胤光の孫、醍醐次郎胤玄との関連を胤玄が上総市東に居住したという点に着目し考えていた。醍醐次郎胤玄は鎌倉期の人物と見られるが、醍醐氏の発祥地は不明である。椎名氏は匝瑳郡南部に発展していった一族であるが、千葉庄椎名郷が発祥であり、椎名郷に近い犬成周辺に椎名一族が居を構えることは不思議なことではない。

2018年01月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
犬成城

犬成向山城
考えたいのが向山城の存在である。向山城は途中で築城が中止された形跡がある。これはどういうことだろうか?犬成城築城以前に進軍のための駐屯地として整備されたと考えるには堀も土塁もしっかりと造られ過ぎているし、ここに築城予定であったものが変更されたとも考えられるが、里見に喉元まで進軍された後にそんなに悠長に城造りをするとも思えない。個人的には犬成城築城後に城郭機能の拡大を図った跡だと考えている。佐倉の城城や四街道市吉岡の木出城など複数の砦で守りを固める様な形の城郭群は他にも見られ、犬成城もそうしようとしたのではないかと思える。ところが1577年に房相一和が締結され、以降里見と北条に直接的な衝突がなかったことから、向山城は1565年の野田合戦後に犬成城が築城されてから1577年の房相一和までの間に築城が開始され、途中で必要が無くなった為築城が中止されたのではないかと考えられる。

2018年01月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
犬成城

犬成城は誰の城か?
犬成城の築城主は不明だが、城の構造より戦国時代後期に築城されたものと推測される。となると、築城主が推定できる。1538年第1次国府台合戦後、北条は下総に勢力を浸透させ、里見は上総に進出した。翌年有吉城の戦いがあったとされることから、生実から犬成の地域は最前線であったと考えられる。1563,4年第2次国府台合戦にて里見は北条に敗北を喫し撤退。これを機に北条は上総へ進出する。同年池和田城が陥落すると、対北条の最前線たる土気の酒井胤治は北条方に寝返る。これに対し里見は翌1565年出陣、野田合戦が起こる。この時里見は犬成より北の潤井戸、草刈村にまで進軍しているため、池和田城はこの時一度里見の手に戻っていると考えられる。酒井胤治は里見の猛攻に耐え、見事撤退させる。その後池和田城は再び北条の手に落ちている。この事から築城主が二つに絞れる。一つは里見氏、もう一つは酒井氏(北条氏)である。城の構造を見る限りでは、造り込まれている為、進軍中の里見が築城したとは考え難い。恐らく築城主は酒井氏で、野田合戦の後、里見への備えかつ北条の進軍の足掛りとして築城したものと考えられる。

2018年01月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
犬成城

犬成城は茂原街道が通る台地の東側にある舌状台地の一つに築城されており、遺構がよく残っている。北側から1郭、2郭と続き、その構造から2郭は馬出曲輪であると言われている。虎口の構造は枡形虎口のように見える。現状では縄張りはこの2郭までとされているが東側の安立寺や代官名主を勤めたと伝えられる民家が建っている部分も城域と考えられている。恐らくは城主の館が置かれていたのだろう。また西側の現在畑地となっている部分にも堀が築かれ、3郭が置かれていたのではと推察する方もいる。城の北には犬成神社があり、ここに物見砦を築いたのではないかと言われている。犬成神社の西の台地上には福寿寺があり、平安後期のものとされる仏像がある。犬成城の南の向山にも堀と土塁が見られ、犬成向山城があったと見られるが、台地の東側の先端部分が自然地形のままであることから途中で築城が中止されたか、もしくはそもそも城ではなかったという説もある。城の東の低地は田圃となっており、中央を小川が流れている。この低地にはかつて鳥越塚という塚があり、中から12世紀末のものと見られる壺と南北朝期以降の短刀が数点出土している。

2016年01月08日 藤井伊賀守
犬成城

浜野駅から、バスで近くまで行けます。市津学園という施設の東側、畑の奥が城跡です。

入り口がすこしわかりづらいかも。

ヤブのアーチのような、入り口を通ると、二郭の虎口です。

土塁の高さは迫力。二郭から主郭の土橋、空堀は、みごと。主郭土塁との高低差は圧巻です。

犬成城の周辺スポット情報

 犬成向山城(周辺城郭)

 城郭への入口(その他)

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