佐是城(さぜじょう)
佐是城の基本情報
通称・別名
- 佐瀬城
所在地
- 千葉県市原市佐是字武城他
旧国名
- 上総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 佐是氏
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- 武田国信
主な城主
- 佐是氏、武田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
真里谷城(千葉県木更津市)[6.5km]
庁南城(千葉県長生郡)[9.8km]
犬成城(千葉県市原市)[11.4km]
椎津城(千葉県市原市)[11.6km]
笹子城(千葉県木更津市)[12.9km]
佐是城の解説文
佐是城の口コミ情報
山内大学助伊右衛門俊胤さん[2017年12月04日]
千葉氏族佐是氏
佐是禅師円阿は上総権介常澄の四男(一説には同じ上総一族の伊北常仲の四男)とされている。禅師円阿に続く佐是氏が何時頃佐是の地を離れたかは不明だが、会津葦名家の重臣佐瀬氏は「常」を通字としており千葉氏の流れ(禅師円阿は千葉一族の椎名胤光の娘を室に迎えている)と伝わっているため、禅師円阿の子孫がいつからか佐是を離れ葦名氏に従属したものと考えられる。佐瀬氏は「葦名四天」の一翼を担う程の重臣であったが摺上原の戦いの後、葦名氏没落とともに離散した。後に会津藩士となった佐瀬氏がおり、家紋は「月星」、本姓は「千葉」であったと「要略会津藩諸士系譜」に記されている。
山内大学助伊右衛門俊胤さん[2017年12月04日]
丸山城の説明版
丸山城跡の説明版では、牛久城(丸山城?)は北条方の三谷氏に落とされ、同時に佐是城、真里谷城も落城したとされる。この説明は何を指しているのか?椎津合戦の事を指しているなら、落城させたのは北条方でなく、里見である。それ以前の真理谷武田氏の御家騒動の時期の事を指しているのか?武田(佐是)国信が佐是城を改修したのが天文年間とされており、これは武田信隆・信政が真理谷を奪還した時期である。この奪還には北条が一枚噛んでおり、牛久城、佐是城にいた信応派の城主を北条方が攻め滅ぼした後、国信に佐是城が与えられたと考えれば辻褄は合う。ちなみに、この武田国信なる人物、武田信高(1416~1480)の子でありながら、椎津合戦(1552)に参戦したとされる。信高晩年の子だとしても椎津合戦の時にはかなりの高齢であり、佐是城を改修し、椎津合戦に参戦したのは国信の子か孫であったのではないかと考えられる。
山内大学助伊右衛門俊胤さん[2017年12月04日]
明性院までは道があるが、その先、五の堀からは藪漕ぎして行かなければならない。畑地となっている三の曲輪方面からも二の曲輪近くまでは行けるが、その先も藪となっており、探索にはそれなりの準備が要る。明性院は立入禁止となっている。整備はされておらず、何の準備も無く行くとしたら見られるのは明性院と光福禅寺、そして道沿いの内堀ぐらいだろう。畑作に利用されているような土地を除けば、郭も堀も良く残っているので、整備すれば見応えのある城跡となりそうだ。城の北にある光福禅寺は1675年開山で木更津市真里谷の大倉山妙泉寺の歴住七世が開祖、開基は、代官小田切氏で、武田勝頼に使えた侍大将「武川衆」の一人である。周辺には古墳群がある。佐是城の周辺には牛久城、丸山城があったとされるが、はっきりしない。位置的に見れば、出城か敵側の付城であったのだろう。丸山城跡の説明版では、牛久城(丸山城?)は北条方の三谷氏に落とされ、同時に佐是城、真里谷城も落城したとされる。
ひとりもんど副将軍さん[2016年04月17日]
光福禅寺に車を置き説明板等を確認し参道を下って堀の内集落を通り抜け、搦手となる妙見社あたりから堀底道を上がりましたが、竹藪で水も流れていました。
上がった先は北曲輪で、その竹林を抜けると廃寺らしき妙性院の東側へ続いていました。
妙性院の南側に墓地があり、この辺りにも車は停められそうでした。
そばには錆びきった標柱が建っています。
標柱から東へ向かうと竹藪の中に説明板が建つ郭がありました。
【遺構】
市原市を流れる養老川の蛇行部左岸にある河岸段丘上に築かれ、養老川とその支流を天然の堀としている。
北の丸にあたる明性院敷地の南東に主郭があり、主郭南側には二郭、三郭が続く。主郭周辺では土塁や空堀が残存するが現状はそのほとんどが竹藪に覆われている。
また明性院から内堀を挟んだ北側の光福禅寺周辺も城域に含まれる内曲輪とされ、古墳を利用した土塁や虎口跡が残り城址碑・説明板等が整備されている。
【歴史】
鎌倉時代、佐是禅師円阿(佐是四郎祥師説もある)が堀の内に「館」を構えた(『現板』)のが始まりとされる。
天文年間(1532~1555)に武田国信が祖父信長によって佐是に配された際に城を大改修したとされることから、この時期に現在見られる城域の原型が形成されたと推定できる(『庁南武田氏系図』や『市原郡志』では国信が築城したとしているが、前述の館から実戦的な城郭へと改修したことを指すとみられる)。
天文21年(1552)、武田国信は椎津城へ援軍として赴いた際に戦死し、その後佐是城は里見勢の攻撃を受けて落城したという(『大系』)。
【交通】
・小湊鐵道上総牛久駅から徒歩で約30分
【参考文献】
・『市文』:『市原市文化財センター年報』市原市文化財センター、1994年12月。
・『現板』:佐是城跡現地説明板。
・『大系』:『日本城郭大系 第6巻』新人物往来社、1980年。
・『光サ』:光福禅寺公式サイト(http://sky.geocities.jp/koufukuzennji/)。