佐是城(さぜじょう)

佐是城の基本情報

通称・別名

佐瀬城

所在地

千葉県市原市佐是字武城他

旧国名

上総国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

佐是氏

築城年

鎌倉時代

主な改修者

武田国信

主な城主

佐是氏、武田氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

真里谷城(千葉県木更津市)[6.5km]
庁南城(千葉県長生郡)[9.8km]
犬成城(千葉県市原市)[11.4km]
椎津城(千葉県市原市)[11.6km]
笹子城(千葉県木更津市)[12.9km]
五井陣屋(千葉県市原市)[13.0km]
久留里城(千葉県君津市)[13.0km]
大多喜城(千葉県夷隅郡)[16.3km]
大椎城(千葉県千葉市)[17.5km]
有吉城(千葉県千葉市)[17.7km]

佐是城の解説文

佐是城(さぜじょう)は千葉県市原市佐是にあった城である。

遺構
市原市を流れる養老川の蛇行部左岸にある河岸段丘上に築かれ、養老川とその支流を天然の堀としている。

北の丸にあたる明性院敷地の南東に主郭があり、主郭南側には二郭、三郭が続く。主郭周辺では土塁や空堀が残存するが現状はそのほとんどが竹藪に覆われている。

また明性院から内堀を挟んだ北側の光福禅寺周辺も城域に含まれる内曲輪とされ、古墳を利用した土塁や虎口跡が残り城址碑・説明板等が整備されている。

歴史
鎌倉時代、佐是禅師円阿(佐是四郎祥師説もある)が堀の内に「館」を構えたのが始まりとされる。

天文年間(1532~1555)に武田国信が祖父信長によって佐是に配された際に城を大改修したとされることから、この時期に現在見られる城域の原型が形成されたと推定できる(『庁南武田氏系図』や『市原郡志』では国信が築城したとしているが、前述の館から実戦的な城郭へと改修したことを指すとみられる)。

天文21年(1552)、武田国信は椎津城へ援軍として赴いた際に戦死し、その後佐是城は里見勢の攻撃を受けて落城したという。

交通
小湊鐵道上総牛久駅から徒歩で約30分

参考文献
『市原市文化財センター年報』市原市文化財センター、1994年12月。
佐是城跡現地説明板。
『日本城郭大系 第6巻』新人物往来社、1980年。
光福禅寺公式サイト(http://kofukuzenji.sakura.ne.jp/)。

佐是城の口コミ情報

2020年11月24日 甲府左京亮城介
池和田城[佐是城  周辺城郭]



里見氏家臣・多賀氏が守るも、内応者によって落城した悲劇の城

【歴史】
鎌倉時代に和田太郎正治が築城したと伝わる。室町時代中期には、真里谷武田氏や里見氏の支城となり、最終的には里見氏の家臣・多賀氏の居城となった。
永禄7年(1564)、第二次国府台合戦後に、北条氏政が池和田城に襲来した。多賀氏の奮戦や池和田城が堅固であったため、北条方は中々攻め落とせなかったが、城内に内応者が現れ、放火されたため、遂に落城した。その際に、多くの里見方は自刃したと伝わります。
その後、北条方の城として、運用されていたが、小田原合戦の際に豊臣方に攻められ、落城し、そのまま廃城となった。

【遺構】
国道297号線の北にある小山が池和田城となり、南側は平蔵川、西側は沼(現在は田園)に囲まれた要害の地にある。
天神社がある部分が1郭、その北にある段曲輪が2郭、1郭の西側麓にある3郭となっている。
1郭への登城道の途中には、井戸があり、今も湧き出ており、その結果登城道はかなり泥濘となっている。
2郭は段曲輪構造となっており、その西端には岸壁を削った櫓台があり、祠が祭られている。
3郭へ行く道の藪が激しいため、確認はできなかった。
先ほどの櫓台の南西側の尾根上に深さ5m以上の空堀が掘られており、西側の防御をより厚くしていることが伺える。

【感想】
1郭と、2郭・3郭が物理的に隔絶している状態になっており、現状直接行き来するのは難しい。池和田城の入口からだと、1郭だけしか見れないため、小さい城と錯覚するが、2郭や西尾根上の空堀等から、かなり防御力が高い城であることがわかる。そのため、北条氏政が攻めあぐねたことを実感することができます。
2郭や西尾根を先に進んでいくと、民家の裏側に出てしまうので、探索する際には注意が必要です。
また、櫓台を登るには、虎ロープが張られているので、それを利用して登らないといけないので、軍手は必須となります。

【アクセス】
小湊鉄道の上総鶴舞駅より、徒歩で15分程。

【写真】
1:1郭の登城道の途中にある井戸
2:1郭にある天神社
3:1郭の先端部(藪で全く見えないが、対面に櫓台がある)
4:櫓台の登り口
5:櫓台にある祠
6:西尾根へ行く途中にある枡形構造
7:西尾根上にある空堀

2017年12月04日 山内侍従伊右衛門俊胤
佐是城

千葉氏族佐是氏
佐是禅師円阿は上総権介常澄の四男(一説には同じ上総一族の伊北常仲の四男)とされている。禅師円阿に続く佐是氏が何時頃佐是の地を離れたかは不明だが、会津葦名家の重臣佐瀬氏は「常」を通字としており千葉氏の流れ(禅師円阿は千葉一族の椎名胤光の娘を室に迎えている)と伝わっているため、禅師円阿の子孫がいつからか佐是を離れ葦名氏に従属したものと考えられる。佐瀬氏は「葦名四天」の一翼を担う程の重臣であったが摺上原の戦いの後、葦名氏没落とともに離散した。後に会津藩士となった佐瀬氏がおり、家紋は「月星」、本姓は「千葉」であったと「要略会津藩諸士系譜」に記されている。

2017年12月04日 山内侍従伊右衛門俊胤
佐是城

丸山城の説明版
丸山城跡の説明版では、牛久城(丸山城?)は北条方の三谷氏に落とされ、同時に佐是城、真里谷城も落城したとされる。この説明は何を指しているのか?椎津合戦の事を指しているなら、落城させたのは北条方でなく、里見である。それ以前の真理谷武田氏の御家騒動の時期の事を指しているのか?武田(佐是)国信が佐是城を改修したのが天文年間とされており、これは武田信隆・信政が真理谷を奪還した時期である。この奪還には北条が一枚噛んでおり、牛久城、佐是城にいた信応派の城主を北条方が攻め滅ぼした後、国信に佐是城が与えられたと考えれば辻褄は合う。ちなみに、この武田国信なる人物、武田信高(1416~1480)の子でありながら、椎津合戦(1552)に参戦したとされる。信高晩年の子だとしても椎津合戦の時にはかなりの高齢であり、佐是城を改修し、椎津合戦に参戦したのは国信の子か孫であったのではないかと考えられる。

2017年12月04日 山内侍従伊右衛門俊胤
佐是城

明性院までは道があるが、その先、五の堀からは藪漕ぎして行かなければならない。畑地となっている三の曲輪方面からも二の曲輪近くまでは行けるが、その先も藪となっており、探索にはそれなりの準備が要る。明性院は立入禁止となっている。整備はされておらず、何の準備も無く行くとしたら見られるのは明性院と光福禅寺、そして道沿いの内堀ぐらいだろう。畑作に利用されているような土地を除けば、郭も堀も良く残っているので、整備すれば見応えのある城跡となりそうだ。城の北にある光福禅寺は1675年開山で木更津市真里谷の大倉山妙泉寺の歴住七世が開祖、開基は、代官小田切氏で、武田勝頼に使えた侍大将「武川衆」の一人である。周辺には古墳群がある。佐是城の周辺には牛久城、丸山城があったとされるが、はっきりしない。位置的に見れば、出城か敵側の付城であったのだろう。丸山城跡の説明版では、牛久城(丸山城?)は北条方の三谷氏に落とされ、同時に佐是城、真里谷城も落城したとされる。

2016年04月17日 征夷大将軍ひとりもん
佐是城

光福禅寺に車を置き説明板等を確認し参道を下って堀の内集落を通り抜け、搦手となる妙見社あたりから堀底道を上がりましたが、竹藪で水も流れていました。
上がった先は北曲輪で、その竹林を抜けると廃寺らしき妙性院の東側へ続いていました。
妙性院の南側に墓地があり、この辺りにも車は停められそうでした。
そばには錆びきった標柱が建っています。
標柱から東へ向かうと竹藪の中に説明板が建つ郭がありました。

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