真里谷城(まりやつじょう)
真里谷城の基本情報
通称・別名
- 真地野城
所在地
- 千葉県木更津市真里谷字真地
旧国名
- 上総国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- 不明
築城主
- 武田信長
築城年
- 康正2年(1456)
主な改修者
- -
主な城主
- 真里谷武田氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、虎口
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
久留里城(千葉県君津市)[6.5km]
佐是城(千葉県市原市)[6.5km]
千本城(千葉県君津市)[10.0km]
笹子城(千葉県木更津市)[11.9km]
庁南城(千葉県長生郡)[12.8km]
大多喜城(千葉県夷隅郡)[13.2km]
秋元城(千葉県君津市)[14.9km]
椎津城(千葉県市原市)[15.9km]
真武根陣屋(千葉県木更津市)[16.2km]
犬成城(千葉県市原市)[17.8km]
真里谷城の解説文
[引用元:Wikipedia「真里谷城」の項目]
真里谷城(まりやつじょう/まりがやつじょう)は、千葉県木更津市真里谷にあった日本の城(山城)。
概要
真里谷城址は房総丘陵の山中の周囲の峰々と比較しても高い位置(海抜161メートル)にあり、現在、木更津市立少年自然の家(キャンプ場)として利用されている。
上総武田氏の祖武田信長が築城したとされており、真里谷城と庁南城(長南町)を拠点として上総国一帯に勢力を広げ、真里谷武田氏の政治・軍事的拠点としての役割を果たすが、1590年(天正18年)の小田原征伐の際に廃城となる。
歴史・沿革
1456年(康正2年)当時上総国は上杉政憲の支配地であったとされ、これを敵視する古河公方足利成氏の命を受けた武田信長が上総国に進出する。信長は上総国進出の足がかりとして真里谷城と庁南城と併せて築城する。上総武田氏は真里谷城と庁南城を本拠地とし、下総国に対する備えとして椎津城、佐是城を、小櫃川流域支配のために中尾城、笹子城、久留里城、南部の里見氏に対する備えとして佐貫城、造海城といった支城を拡げていき、上総経営に着手していく。
その後、武田信長の孫の中でも真里谷城に本拠地を構える武田信興から姓を「真里谷」に改める。真里谷氏は真里谷信興から信勝、信清の3代の間に最盛期を迎え、真里谷信清(入道恕鑑)の代には対立する原氏が拠る小弓城を攻略し、足利義明を迎えて(小弓公方)、信清自身は「房総管領」を称するようになる。
真里谷信興から数えて4代目真里谷信隆の代に異母弟真里谷信応との間で内争が発生する。信隆の父である信清から家督を継いだのは庶子の信隆であったのだが、それからまもなく信清の正室が信応を生んだことにより家臣を巻き込んだ後継者問題が発生する。「嫡子である信応が家督を継ぐのが正当である」と考えた信応派の家臣は足利義明、一族の有力者である真里谷全方の支持を得て、信隆から家督を奪う事に成功し、真里谷城に入城する。家督を奪われた信隆は北条氏綱庇護の下、椎津城に逃れた後、武蔵国金沢に逃れる。1538年(天文7年)の第一次国府台合戦の結果、小弓公方方は敗北したことにより信応は失脚し信隆がふたたび真里谷氏当主に返り咲くが、一族の争乱を収める事が出来ず北条氏に臣従するような状況となり、真里谷氏は上総地方の支配力を失う。この一連の事件を契機に真里谷氏の拠点が真里谷城から椎津城に移ったとされている[1]。以降、上総国は後北条氏と里見氏の係争地となる。
1590年(天正18年)小田原征伐にて真里谷城は豊臣勢に攻められ落城し、廃城となる[2]。
構造
城の位置と性質
真里谷城址は房総丘陵のほぼ中央、小櫃川支流の武田川上流域にあり、JR馬来田駅より南東方向へ約5キロメートルほどの位置に存在する。城址周辺は、山々が連なっておりまさに天然の要塞といった様子が窺える。しかしその場所は山間部にあって、支配対象となりうる集落を形成するような平坦な土地が無く、農作物の生産拠点となる小櫃川や養老川流域からも外れており、その上交通の要所を抑えておらず、鎌倉街道など街道から外れた場所である事が確認できる。
そのような辺鄙な場所に真里谷城を築城した理由として[3]、築城当時の武田氏の状況によるものと考えられている。武田氏は敵対する千葉氏とは異なり、古くからこの土地を支配していたのではなく外部からの侵略者という立場があり、外部だけでなく地元の豪族の動向にも気を配る必要がある。その事から常に内外からの襲撃に備える必要性があり、転じて敵の侵攻にも優位に働いてしまう交通の要所に拠点を置く事よりも敢えて平野部から少し奥にある山間部に拠点を置き、外部からの侵攻に備えたのだろうと思われる。また、この場所は小櫃川と養老川の両川流域の中間地点で小櫃川流域には約3キロメートル、養老川流域には約4.4キロメートルの位置にあり、必要に応じてこれら生産拠点へに進出が可能である。また、武田氏のもう一つの拠点である庁南城とは約12キロメートルの距離である。
上総武田氏は上総国のほぼ中間地点に当たるこの地に拠点を置き、支城との連携を密にする事で不測の事態にいつでも対応できるような領土経営を行ったと考えられる。
ただし、この真里谷城が武田氏の拠点であった真里谷城とは別の城であるとする見解がある。その説によれば、『快元僧都記』に登場する真里谷氏の内紛の際に信隆派が築かれた「新地」の城であるとして、より小櫃川に近い要害城を武田氏の真里谷城に比定する説がある[4]。
城の構造
真里谷城の構造[5]は、房総丘陵の尾根上に築かれた丘陵城郭で、中世日本で見られる山城の特徴を持つ。日本国内が戦国時代に入るより前の時代の関東争乱期に築城され、戦国末期に登場する城と比較すると古いタイプの城郭である。城の規模は東西400メートル、南北700メートル程の規模で、縄張は多郭雑形形式で最南部に主郭があり、主郭から北西方向の尾根上に曲輪群が二の郭、三の郭、四の郭と展開されている。
主郭は城の最南部に位置し、通称「千畳敷」とも呼ばれる詰の曲輪と城山神社社地を主とし、その周囲を腰曲輪で囲んだ曲輪群で構成されている。千畳敷は主郭の中心位置にあたり、長方形型の東西50メートル、南北70メートル程度の広さの平坦な曲輪で、土塁で囲って防御性が高められている。特に東側には約7メートル程の高さの大土塁が設置されている。主郭北の土塁の下に城山神社が鎮座する。
二の郭は主尾根から南西方向に張り出した支尾根上に設けられており、主郭と二の郭は大堀切で隔てられている。さらに二の郭は堀切によって北東と南西の2つの曲輪に分断されている。この堀切は三の郭と大堀切とを結ぶ堀底道として使用されていたと考えられ、ここに主郭に入る手前の防御施設として木戸口を設置していたと考えられている。
三の郭は主尾根から西南西方向に張り出した支尾根上に設けられ、二の郭と三の郭、三の郭と四の郭との間は支谷で区切られている。三の郭は四の郭との中間にある支谷を登る大手道を防御する役割を有する。四の郭は城址の北端に位置し、出郭的なものであったと考えられる。
参考文献
- 木更津市史編集委員会『木更津市史 富来田編』木更津市 1982.11.3
- 木更津市教育委員会『真里谷城跡』1984.3.31
- 千葉県城郭研究会『図説 房総の城郭』国書刊行会 2002.8.10
- 石井進・宇野俊一『千葉県の歴史 県史12』山川出版社 2000.7.28
- 村田修三『図説 中世城郭辞典 1』新人物往来社 1987.4.25
- 簗瀬裕一「真里谷城跡出土遺物の歴史的位置」佐藤博信 編『中世東国の政治構造 中世東国論:上』岩田書院 2007.6
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真里谷城の口コミ情報
2024年07月22日 武蔵守のむげん
真里谷城
登戸口前のキャンプ場の8台分程度の駐車場が利用可能。見学したのは 主格部周辺のみでしたが 土塁や堀切、曲輪など高低差のある遺構が確認できました。築城主の武田信長は、名前のインパクトがすごすぎてニヤニヤしてしまいます。
2024年01月07日 千葉相模守早雲【権六】
真里谷城
上総武田氏の本拠。本拠とするだけあって規模はまずまずの大きさ。しかし麓には平坦な集落地や耕作地が少なく、主要な街道からも外れており、本拠とするには不向きな気がします。
現在は少年自然の家キャンプ場となっているが、遺構をそのまま使用していて改変は少なめの印象。土塁や段郭、虎口はよく残っています。
1.2郭。竪堀のようなものが見える。
2.城山神社の北側にある物見台。
3.虎口。内側に見えるのが城山神社。
4.主郭(千畳敷)の南側の物見台。
5.千畳敷。周囲を土塁が囲む。
6.主郭虎口。
7.城山神社へ繋がる虎口?それとも後世の改変?
8.帯郭を結ぶ虎口。
2023年04月14日 マタローちゃん修理大夫
真里谷城
林道を進んでいくと城入口の看板があった。しかし、現在は車両通行止だったので車はそこに停めた。どうやら今は城がキャンプ場となっていてオフシーズンのようだ。本来なら本丸付近まで車で行けるようだが、そんな訳で徒歩で向かうも曲がりくねった道を数百m歩く事に。本丸は結構広くて、それを高い土塁で囲んでいるという造りである。この山全体が巨大な城だったようだ。
2023年04月03日 まさの上
真里谷城
キャンプ場の敷地内にあり行った時は閉鎖になってました。たまたま作業員の方が居て城跡の見学を申し出たところ気持ちよく許可を頂きました。実際に行くと面影がほとんど有りませんでした。案内板が有りますのでそれを見て来ました。
2023年02月18日 【配龍】美海(ミミ)安房守
音羽根城[真里谷城 周辺城郭]
🏯大羽根(音羽根)城
お城については先人様が書いてくれてますので、シンプルにリア攻めのご案内をします😊
【行き方】
「大羽根城(音羽根城)跡」でGoogleマップに登録されてます。
🅿️無し。
【登城口】
高速道路(首都圏中央連絡自動車道)側から
レイクラインを養老川に沿って進むと、農地から山に変わった辺り(35.3367945, 140.1506285)に細い山道がありました。(上の数字部分をGoogleマップにコピペ)
⚠️GPSトラッキングからですので、ズレる事があるので、山道が無い場合はレイクライン沿いの周辺を探して下さい🙏
【5連堀切への行き方】
主郭南東側の虎口から降り、主郭の切岸に沿って北西に移動。
興津城を連想させる素晴らしい大堀切が見え、尾根沿いに連続堀切が❣️♬(写真5枚目)
【主郭の東尾根の堀切の行き方】
こちらの堀切も素晴らしいです✨💕
ぜひ見てください😊
(余湖さん図の堀切6&7)
主郭南東側虎口を出て、少し下ったあたりから左手の谷(浅い)を越えて移動。
主郭に戻る時に切岸を直登しましたが、急な所もあり、雨上がりなどは関東ローム層で滑ります😅
主郭に戻る時も谷を越えて虎口から戻る方が簡単です。
【コメント】
5連続堀切や東尾根の堀切は、とても良好な状態で残っていて素晴らしい遺構です♬
麓に近い部分は少し荒れてる場所もあり、道も無いため、下山の為にGPSルートトラッキングを入れるのをお勧めします。
2023年02月14日 【配龍】美海(ミミ)安房守
真里谷要害山城[真里谷城 周辺城郭]
【行き方】曹洞宗大蔵山 妙泉寺を目指します(Googleマップに登録あり。木更津市)
🅿️妙泉寺の駐車場に許可を頂いて停めさせて頂きました🙏。お声がけした時に「要害山に行くの?凄い藪だし、イノシシ、サル、ハクビシンが出るわよ」と親切に教えて頂きました😊
【登城口】先人様が2ヶ所の登城路があると詳しく口コミされてます✨。私は妙泉寺に向かって右側の山道から秋葉神社に行き、お社の裏側の藪に突入する経路で登城。
🏯お城については先人様も書かれているので略しますが、妙泉寺の東側の丘陵に築かれた謎多きお城です。武田川を挟む形で南に位置する天神台城が至近距離にあるので、セットで訪城可。
秋葉神社の裏手は冬でも激藪で、濃密な藪と倒竹が行く手を阻みます。
主郭の北側には巨大な3重の三日月堀があり1番の見どころです💖
「えっ?これ堀?」と一瞬わからない程の大きな規模の堀ですので、ハンパな広角レンズではカメラの画面に入り切れません。ガチな広角レンズがある方は持参をオススメします。
この三日月堀、大きさも巨大なのですが、深さも5-7mと深く、堀底を歩いていると高ーい法面と竹に囲まれ、迷宮に迷い込んだかのような錯覚にとらわれます。とにかく竹が凄く、周りの景色が倒竹ばかりで迷いがちですのでGPSトラッキングは必須です。
南西尾根にも遺構はありますが、北側の巨大な3重の三日月堀を見た後には麻痺状態で、先に行けば良かったと後悔しました。
密度の濃ゆ〜い竹林と倒竹と藪との闘いですので、肌を出していると傷だらけになりますので、服装や靴はそれなりの装備が必要です。
直登ですので、前日が雨の日や、雨降りの日は、濡れるとズルズルに滑る関東ローム層でズリっとなり 泥だらけになります。
往時の戦で『関東ローム層の切岸に水を撒かれた寄せ手』の気持ちを体感できることでしょう♬
なお、土は粘土質の為、乾燥した後に払っても落ちませんのでご注意ください。
ハザード多めですが、遺構はブラボーに素晴らしく🥰 じっくりと調べたら面白いと思うお城でした♬
【お勧めなメグラー様】
⭐️千葉県ではレアな巨大三重三日月堀を見たい
⭐️圧倒的な土木量の城を見たい
⭐️自分の限界を試したい。
【お勧めできないメグラー様】
⭐️藪、倒竹が苦手
⭐️土の城に萌えない
2022年12月30日 RED副将軍
真里谷要害山城[真里谷城 周辺城郭]
最高にサイコな空堀のヤブ城です✨
世間ではマリコ様がいろいろ話題ですが真里谷様もヤンチャな城跡です🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代等の城史は一切不明です。
大規模な城塞にも関わらずよくわかっていません。
この辺りを支配していたのは真里谷武田氏、里見氏、北条氏となりますがエグ過ぎる土木量からすると北条氏でしょうか。妄想は尽きません。
見所
先に口コミをされている相当ヤバい城友さん2名が揃ってのオススメだけあってとんでもない城跡です。
遺構はスゴいです。近江の小谷城の主郭背後の大堀切級と聞いていましたが正にその通りで、あの大き過ぎて堀切と気付かないくらいの規模感です。しかも三重の三日月堀と二重の空堀が全てそのスケールで恐ろしい土木量です。
しかし、とんでもなく激ヤブです。冬期に行っても激ヤブです。写真もヤブなので映えません💧
おまけに滑りやすい土質で鋭い空堀の斜面を幾つも越えるため移動は大変です。
方向感覚も一瞬で無くなるのでGPSは必須です。慣れて無い人は一人で入るのは危険かも知れません。ということでオススメ度は★1です。
行き方は、城域西側の秋葉神社を目指します。
神社背後は濃密なヤブですが突っ込みます。
しばらく進むと巨大な二重の空堀に到達します。
そのまま進むと主郭に入り、北に向かうと三重の巨大三日月堀に到達します。
城域はかなり広いので2時間くらいヤブを彷徨いました。
下山時にヤブを掻き分けていると枝が跳ねてメガネに当たり落下。視力を失ったのでヤブの中を探しても見つからず。そのまま木更津のアウトレットにメガネを買いに行ったのは苦い思い出です。
2022年07月05日 RED副将軍
真里谷城
上総国の大半を支配した真里谷武田氏の本拠地🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
1456年に武田信長により築城。
古河公方足利成氏の命を受け、上総国進出の拠点として庁南城とともに築いたもの。
その後、真里谷武田氏を名乗り、所領を拡大していきます。
しかし、4代真里谷信隆になると、異母弟の真里谷信応との間で跡目争いによる内紛が勃発。
最終的には、小弓公方足利義明の支援を受けた真里谷信応が真里谷信隆から家督を奪い、真里谷城に入城。信隆は北条氏の庇護を受けて武蔵国に逃れました。
1538年、関東の覇権を狙う足利義明と北条氏綱による国府台合戦が勃発し、足利義明は討死。北条氏の支援を受けていた信隆が家督を取り戻しました。
しかし、その後も真里谷一族に内紛は収まらず、真里谷武田氏の勢力は没落。北条氏に臣従しました。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐において真里谷城も豊臣勢に攻められ落城。その後、廃城となりました。
見所
現在は、少年自然の家キャンプ場、城山神社の境内となっています。
主郭は、千畳敷と呼ばれ巨大な方形の曲輪で東側から北側にかけて高土塁が巡り、西側中央に特徴的なT字型の虎口が開口しています。
多少の改変はありますが、虎口や大堀切、土塁が残っています。
2021年10月23日 うっきー
真里谷城
高滝駅から1時間20分ほど歩いてようやく到着しました。キャンプ場になってますが、この時期は閉じられてます。中に入ることは可能です。
2021年01月26日 eiki
真里谷城
久留里城からウオーキングで2時間30分かけて行きました。現在、コロナの影響で駐車場は閉鎖されています。城趾はキャンプ場で利用されており良く整備されてます。中心に城山神社が鎮座しそれを囲む土塁、郭は見事です。自然地形を巧く利用し切岸、堀で防御を固めた造りを見ることができる城趾です。帰りは小湊鉄道高滝駅まで1時間歩きました。
2021年01月10日 愛甲太閤【相模の狂人】
真里谷要害山城[真里谷城 周辺城郭]
先人の口コミに釣られて登ってみましたが、色んな意味でイっちゃってる…いや攻略の難易度も城自体の土木工事っぷりもケタ違いでしたw
アプローチは2ヶ所から可能と思われます。
1ヶ所は城郭西面の秋葉神社の裏から東を目指して尾根線を忠実に登って行きます。ヤブが物凄く(現在地も判らなくなるほど、笹中心のドSな…)、かつ2本の相当に鋭い空堀を登降する事になるので敬遠したいですが、もう一方から登って帰りにこちらへ侵入しようという気はもっと失せると思うので、往路はこちらから行くのが良いかと…。
もう1ヶ所は城郭南面の八幡神社から裏山に入り、最高所目指してひたすら登ってゆくと、主郭直下に出ます。かなりの急斜面ですが歩いて登降出来るでしょう。ヤブも少ないです。ただ斜面の中に遺構は見当たりませんでした。
先人の口コミの通り、土木量はハンパないです。城内では小規模な秋葉神社側の空堀2本から高さ10m級、主郭を半周する空堀と、北西の末端に3重の三日月堀が横たわっていますが、これらは近江の小谷城の大空堀に匹敵する規模ではないかと思われます。こんなものがヤブ山の中に忘れられたまま横たわっている有様に言葉を失います。
最大の特徴と言えるのがこの北西端の3重の三日月堀で、房総の他の城郭には見られないものです(私は縄張図からシャンパーニュケスタを連想しましたが💦実際には高低差がかなりありました)。
堀の周辺だけヤブが比較的少なく(倒木はあります)全貌が見やすいのもポイント高いです。登城した猛者を帰さないようにするワナとしか思えません。実際私は、主郭下の空堀見てて往路のヤブの存在を忘れてました。
今、千葉県は相当に気合を入れて山城の発掘、整備に力を入れているようですが、ここがターゲットになると重機は入れそうにないし、面積広く地形も急峻なので、相当に手間がかかるのではないかと心配になって来ます…💦
2020年12月28日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
雀ヶ崎城[真里谷城 周辺城郭]
千葉県の市原市にある雀ヶ崎城☆築城、城主共に不明の城郭となっています☆
ただ、遺構としては間違いなく戦国期の顔をしていて馬出し状の物を持ちます♪もしかしたら…北条氏が真里谷氏、里見氏を狙う為に手を加えた城なのかもしれません☆それと台地続きには御園生館があるのですがこの御園生館は古く平安時代に大館氏の居館であったと伝わります♪
台地続きの御園生館✨台地の先端部に雀ヶ崎城☆先端部が引っかかりますね🤔もしかして…元々は1つの城だった❓
御園生館の距離は雀ヶ崎城の西側200m位の位置にあります☆もしかしたら元々は1つの城郭で後に里見氏、真里谷氏を攻める為に北条氏が改修した✨そんな推理も面白いですね♪
2020年12月10日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
音羽根城[真里谷城 周辺城郭]
千葉県の市原市にある音羽根城♪別名が音羽根城で♪大羽根城ですw
音羽根城の方が綺麗なんで此方で呼びます☆
この城は里見氏が北の千葉氏に備えた城と伝わります☆天正期時代の里見氏の城の造りをしています☆
千葉氏に対する☆う〜ん☆どうかな〜❓里見氏が北条氏に備えて築いた城という様に感じました☆内陸部に位置する為に岩盤ガリガリはやってませんが、その証拠はやっぱり5連続堀切、斜面に縦土塁状の土盛り☆堀切は現状は浅くなっていますが緊急的な切迫感が伝わります☆アレは(連続堀切)強大な力が攻めて来る前に築くやつ☆(私感です✨)高滝湖のそばには里見駅、里見小学校など里見氏に関する伝承がこの地域には根付いてます♪
主郭を南側に配置しそこから北に伸びる山上に郭を展開☆城内は非常に大きくて良く造り込まれてます☆
副郭と三郭は堀切で遮断し、三郭と四郭は仕切り土塁で区画を造っていて主郭を守ります☆北の先端部側は小さな小郭が断続的に麓へ伸びている為此方が大手側でしょう♪
主郭の背後には五重堀切を構え込み南側の侵入を警戒します☆主要部分の西側に帯郭、腰郭を取り付け兵の迅速な移動を可能にしています☆東側は急斜面の為、支尾根、縦土塁状の遺構が中心に西側が街道に面している為、東側を重点的に造り込みます☆
登城路は無いから西側の街道沿いの程よい所を直登して下さい♪登って行けばドッカの郭に到着します☆山のピークがもう城なので後はパラダイスです♪帰りは西側から程よい所から降ればまた街道側の西の道に辿り着きます♪東側は切岸斜面が鋭いので降りる場所として余りオススメしません☆
情報として入れておきます☆
2020年12月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
真里谷要害山城[真里谷城 周辺城郭]
千葉県の木更津市にある真里谷要害城♪
天神台城とは武田川を挟み直ぐの場所にあります☆この真里谷要害城☆土木量が半端じゃ無いんです😂もうやる気しか感じない位スケールがデカイ😂
取り敢えず登り口が判らずwその辺を直登☆竹の餌食にwしかし要害感丸出しの城郭は素晴らしいです♪
特に主郭の背後の三重堀が圧倒的♪
向かいの天神台城にこの真里谷要害城☆2つ合わせたここじゃ無いかな〜?『真里谷新地城』今見る縄張りと実際に活用していた城域ってのは勿論場所にはよりますが本当に広いんです♪自分達が見ている縄張り図には描かれていない所も城域として活用してます☆
隣の山なんかあったとしたらそこも活用しているイメージです♪自分が殿だったら絶対に手を加えるだろうし😁
生き残る為には攻め手の有利にはさせません☆そんな気迫すら感じる真里谷要害城でした♪僕は天神台城とココ真里谷要害城を真里谷新地城だったんじゃ無いか?そんな疑問を残し後にしました☆
もう一つ思った事♪そもそもは真里谷武田方の城ではありますが、里見氏が…北側に位置する千葉氏を牽制する為に拡張したのか?
はたまた里見氏を房総半島へ閉じ込める為に北条氏が改修したのか?
いずれにせよあの土木量は異常。
大きな力と手が入った事は間違いないです♪
また近々行こう〜と♪
2020年12月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
天神台城[真里谷城 周辺城郭]
千葉県の木更津市にある天神台城♪
北条氏綱書状に出てくる真里谷新地城(真里谷武田氏の本城の真里谷城)実はちゃんとした場所の決め手ある物は出て来ていません☆真里谷新地城は現、真里谷城の場所と言われていて武田信長が取り立てました☆
この天神台城を真里谷新地と言う説もあるケド謎を呼びます☆往時の事は誰も解らない…☆だから面白いんですね☆
天神台城と武田川を挟んだ北側に真里谷要害城☆更に天神台城の南側には真里谷城があります☆3つの城は本城を真里谷城として、この天神台城、真里谷要害城と城を構えました☆こんな至近距離にバシバシ城を造る真里谷武田氏の往時の緊張感がヒシヒシと伝わってきます☆天神台城は武田川と泉川が合流する地点の南東側にある丘陵に築かれています☆
この丘陵上が城郭で南北に大きな郭を展開します☆北に向かって少し張り出す様なイメージは☆逆Lの形☆堀切でこの郭を遮断し土橋で連結と言うのがスタンダードです☆城を見た印象としては郭の削平の甘さに…土塁が低い…土木量はあるモノノ割りかし簡単な造りとココが真里谷新地城と呼ぶには少し違う気がしました☆その後に対岸の真里谷要害城へ☆この真里谷要害城に関して最高だった♪土木量が違う♪天神台城、要害城の2つの城は直接距離で400m程度☆
最早、、これは…ここからは私感です☆
南側に位置する天神台城☆
大きな郭で構成された城です☆
人を溜めて居住するには持って来いな環境☆
北側に位置する真里谷要害城☆
土木量が凄まじく☆正に北側を守る要☆
天神台城を居住スペースとして真里谷要害城を戦闘スペースとしていた☆
つまり…一つの城だった☆
天神台城と真里谷要害城☆武田川を挟んで目の前が向かい合う形で両城構えます☆
こんな接近的に2つも城は要らないだろう〜?と思った事が一番最初に感じた事☆
天神台城も真里谷要害城も、遺構を見る限り同じ戦国時代を生きていた城である事は間違いないだろうから天神台城の北の要に後付けで真里谷要害城を造り込み構えたのかな〜?
情勢が圧迫して来たからには戦闘態勢に入らねばなるまい…真里谷武田氏が拡張したか?と言う印象を受けました☆
天神台城、真里谷要害城☆2つの城を合わせたモノを北条氏綱は『真里谷新地』と呼んだのかもしれません☆本当の事が判らない♪だからこそ面白いお城でした♪
2015年09月20日 STRADA
真里谷城
木更津市立少年自然の家キャンプ場を目指して下さい。キャンプ場が城址です。道は狭いです。
2013年05月18日 【隠者】史学会帰新参
真里谷城
小湊鉄道の高滝駅にレンタサイクルあり城跡まで行きは登り坂が多くて大変だった。途中から歩道がなくなったがそれほど車が通らなかった。