佐貫城(さぬきじょう)

佐貫城の基本情報

通称・別名

亀城

所在地

千葉県富津市佐貫小字小和田谷1102-1他

旧国名

上総国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

築城主

武田義広

築城年

応仁年間(1467〜1469)

主な改修者

里見義弘、阿部正鎮

主な城主

真里谷武田氏、里見氏、足利氏、加藤氏、内藤氏、松平氏、柳沢氏、阿部氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、井戸

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

飯野陣屋(千葉県富津市)[6.7km]
峰上城(千葉県富津市)[7.3km]
秋元城(千葉県君津市)[8.5km]
造海城(千葉県富津市)[8.6km]
真武根陣屋(千葉県木更津市)[11.4km]
笹子城(千葉県木更津市)[15.0km]
千本城(千葉県君津市)[15.6km]
浦賀城(神奈川県横須賀市)[16.0km]
久留里城(千葉県君津市)[17.6km]
勝山城(千葉県安房郡)[18.7km]

佐貫城の解説文



佐貫城(さぬきじょう)は、千葉県富津市佐貫にあった日本の城。江戸時代には佐貫藩の藩庁が置かれた。

概要 

佐貫城は、真里谷氏(真里谷武田氏)によって築かれた平山城。古文書から永正年間から天文6年(1537年)にかけて真里谷全芳(武田信秋)が城主を務め、加藤氏が城代を務めたと推測されている。加藤氏は『鎌倉大草紙』に登場する武田信長の家臣・加藤入道梵玄の末裔と推定され、真里谷氏の没落後も佐貫の有力者として時々の支配者に従った[1] 。

天文6年(1537年)以降のある時期[2]に安房里見氏の支配下に入ると、里見義弘が拠り、久留里城と共に真里谷氏及び後北条氏への最前線として重要な役割を果たした(ただし、近年の古文書研究により、後北条氏が同城を占拠して城代を置いていた時期も存在していたことが判明している)。里見氏安房移封以降も城郭として維持され、17世紀末から18世紀初頭の一時期を除き、明治維新まで維持された。

歴史・沿革 

  • 鎌倉大草紙に長尾三家の一つ総州長尾家が見え、この総州長尾家が佐貫に拠ったとされる。佐貫城もこの長尾氏により築かれたとする説もある。
  • 応仁年間、武田義広により築城された。
  • 天文6年(1537年)、真里谷氏に跡目争いが生じ、真里谷信隆の拠った佐貫城は真里谷信応を支援する足利義明・里見義堯等により攻められ落城した。
  • 天文14年(1545年)、北条氏康が一時佐貫城を占領(ただし、この時期まで後北条氏ー真里谷氏の支配下にあった可能性がある)。以後、里見氏と後北条氏の争奪の舞台となる。
  • 弘治元年(1555年)、北条氏康が再度佐貫城を占領、同盟関係にあった結城晴朝に報じる。
  • 弘治2年(1556年)、里見義弘が佐貫城を奪還して同城から水軍を率いて鎌倉を攻撃する。
  • 永禄2年(1559年)、この頃は再び後北条氏が占拠しており、北条家臣布施弾正左衛門康則が城代を務める。
  • 永禄5年(1562年)、上杉謙信に古河御所を追われた古河公方足利義氏が、北条氏康の保護の下に佐貫城に仮の御所を置く。
  • 永禄6年(1563年)、この頃、里見義弘が再度佐貫城を奪還、足利義氏は鎌倉へと退避する。
  • 永禄10年(1567年)、後北条氏との間で三船山合戦が生起したが、この際、里見義弘は佐貫城より出陣した。
  • 天正6年(1578年)、里見義弘が佐貫城で病死。安房国にいた里見義頼が、嫡男梅王丸と城代加藤信景を攻めて屈服させて家督を継承、以後里見氏の本拠は安房に移る。
  • 天正18年(1590年)、小田原征伐後、里見氏は安房一国に減封され、関東を与えられた徳川家康の家臣である内藤家長が入城した。
  • 元和8年(1622年)、内藤家長の子政長が陸奥国磐城平藩に加増転封。代わって武蔵深谷8000石の旗本松平忠重が加増の上で転封。1万5千石の大名として立藩した。
  • 寛永10年(1633年)、忠重は駿河田中藩へ加増移封。代わって松平勝隆が入封。旗本であった勝隆は1万5千石で新規に大名となる。
  • 貞享元年(1684年)11月10日、勝隆の子重治が改易処分となり、佐貫藩廃藩。佐貫城は廃城となり、(構造物が)破却された。
  • 元禄元年(1688年)、江戸幕府第五代将軍徳川綱吉の側用人として重用され、旗本から新規に大名に取り立てられた柳沢保明(柳沢吉保)が1万5千石で新規立藩した。のち2万石。
  • 元禄7年(1694年)、吉保が武蔵国川越藩へ加増転封となり、佐貫城は再度廃城となった。
  • 宝永7年(1710年)、阿部正鎮が三河刈谷藩から移封され、佐貫城を再興した。1万6千石。
  • 明治2年(1869年)、阿部正恒が版籍を奉還し、明治政府の管理下に入った。
  • 明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い佐貫城は廃止された。

構造 

佐貫の地は今の鶴峯八幡神社付近と推定される「八幡浦」と称する港町があり、江戸内海を挟んで三浦半島と直接向かい合っていた。更に地形の関係で内房方面を南北を貫く複数の街道が(沿岸ルート・内陸ルートを問わず)必ず合流する場所であると共に、佐貫から神野寺・清澄寺・誕生寺を経由して外房方面に至る山道が走っており、古くから参詣者に用いられていた。そのため、早くから市場や宿場町が形成されて経済・交通の中心地となっており、甲斐国から鎌倉(三浦半島)を経て上総に進出した武田氏によって同地に城が築かれて、後に里見・北条両氏の攻防の舞台になったと考えられている。

北上川と染川により開析された二つの谷に挟まれた丘陵端に占地する。城域の東には陣場、陣場谷と呼ばれる谷が深く入り込んでおり、西側の城域と背後の丘陵を分断している。また、城域内部にも黒部谷を始めとする谷が入り込み、主郭部の位置する尾根他幾つかを除き多くは痩せ尾根となっている。

郭は城山の本丸から南西に向けて二の丸及び三の丸が配置されており、佐貫城の主郭部をなしている。本丸の背後には更に、産所谷から上宿に掛けて尾根筋に郭が連なり、黒部谷を隔てて城域南東端の北新宿付近にも郭が設けられている。三の丸から本丸に至る主郭部には、本丸虎口を始めとして、櫓台、虎口、空堀、土塁等が効果的に配置されており、里見氏移封以降改修されたものと考えられるが、黒部谷及び上宿を取り巻く郭群には、尾根上に削り残し土塁を伴う削平地を設ける、里見氏流築城術の特徴が見られる。

考古資料 

遺構

山上の遺構は良く残り、空堀、石垣、土塁、井戸等が往時の姿を留めている。空堀の幾つかには里見氏流築城術の特徴を示す岩盤を削った切岸が見られ、また、三の丸櫓台を始めとして、上総国には珍しい石積遺構が残るのも本城の特徴である。

佐貫城の口コミ情報

2026年04月12日 ミモザ
佐貫城

駅から距離がありますが、保存会の方が竹藪を切り開いたりと、少しずつですが見やすくしてくださっています。一度訪れて、その広さを体感してみてください

2026年04月12日 七代目尾張守宗春
日枝神社[佐貫城  寺社・史跡]



城内本丸にあった天神社と八幡神社を合祀して祀られた神社です。ここも日月神社同様、元は砦だった模様。

2026年04月12日 七代目尾張守宗春
土橋と空堀[佐貫城  遺構・復元物]



「空堀」の看板もありますし、縄張図にも「空堀」と書いてありますが、これは水堀であったという説が有力になりつつあるようです。ここの堀には仕切りがあり、畝堀と考えられています。有名な山中城の障子堀も水堀だったと言われ始めているとの事。

2026年04月12日 七代目尾張守宗春
石垣[佐貫城  遺構・復元物]



房総の城郭ではほとんど石垣を見る事はありません。この石垣は大手門太鼓櫓の櫓台だったとの事ですが、野面積みではなく打ち込みハギであり、防御というより見せるための石垣だったようです。

2026年04月11日 七代目尾張守宗春
馬出し[佐貫城  遺構・復元物]



大手門太鼓櫓の石垣付近から写した写真です。県道163号線の向こう側は薮にしか見えませんが、染川を水堀とした馬出しだったそうです。

2026年04月11日 七代目尾張守宗春
川湊跡[佐貫城  遺構・復元物]



佐貫城下は舟運で栄えた町のようで、川湊(河岸)跡が残っていました。

2026年04月11日 七代目尾張守宗春
門跡[佐貫城  その他]



遺構は何もありませんが、ここに「食い違い御門」があり、ここから先が城内で、藩士の住居が並んでいたとの事。

2026年04月11日 七代目尾張守宗春
日月神社[佐貫城  寺社・史跡]



日月神社。少し高台にあるため、元は砦として使われていたとの事です。

2026年04月11日 七代目尾張守宗春
木戸跡[佐貫城  その他]



遺構は何もありませんが、ここに木戸があったとの事です。

2026年01月03日 薩摩相模守義弘維新斎
佐貫城



千葉県富津市にある佐貫城址は、別名を亀城といい小櫃佐貫停車場線沿いに城の入口があります。その入口近くの坂を車で進むと三の丸で、広場となっているため、ここに車を駐車することができます。
城跡は、北上川と染川に挟まれた丘陵に築かれており、三の丸から城跡を見上げると緩やかな平山城だと感じます。
なお、入口には、大手門跡の石垣が残っており、これを見ると「おぉ〜これは期待できる城跡だ。」と思わず胸が高鳴ります。

さて、城攻めに進むと二股になった地点に二の丸方向を示す案内板が設置されており、そのまま進むと二の丸虎口が出現し、次に二の丸、空堀、土橋、そして本丸と立て続けに遺構が確認できます。何といっても整備が行き届いており、散策していても素晴らしく気持ちが良くなります。
参考までに富津市のホームページで確認すると、佐貫まちづくりいしずえ研究会が文化財の保護・整備を行っていると書いてありました。この整備には、非常に感謝します。

本丸には土塁があり、その先を進むと相対するように八幡曲輪台跡(物見台)や天神曲輪台跡(物見台)があります。
確認できる遺構は、だいたいこのぐらいでコンパクトな印象です。個人的には、明治維新まで現存した城なので、建物などが現存していれば良かったのにと思う次第です。

2025年02月08日 征夷大将軍ヒトリモン
佐貫城



大手の石垣と本丸前の土橋をチョイ寄りのつもりで11年ぶりに訪れましたが、ずいぶん整備が進んでいてテンション爆上がり
ちょうど本丸西側で佐貫まちづくりいしづえ研究会の会長様が薮刈りされており、わたし1人のためにガイドしてくださる事に

本丸二の丸間の堀の畝、本丸の天守?台は菱形だった?、八幡神社側の段郭にも石積み?、搦手の石垣、本丸東側の江戸の絵図にはない四の丸?、4段からなる三の丸段郭の最上部の土塁、三の丸西側の櫓台、絵図にはある井戸は三の丸の現在はぬかるんだ地点だけなどなど、、気がつけば2時間が経っていました

来月に海城サミット関連のツアーがあり会長様がガイド役だそうで、みなさんに見てもらいところを薮刈り整備しているそうです

2024年07月13日 千葉相模守早雲
佐貫城



真里谷(武田)信広が築城。後に北条氏と里見氏が争奪。小田原征伐時は里見氏の支配下にありましたが、安房一国に減封となり、家康家臣の内藤氏が城主となりました。その後、松平氏、柳沢氏、阿部氏と城主が代わり、廃城と再興を繰り返しながら、廃藩置県まで佐貫城は存続したようです。

北西部の断崖絶壁を背にした本丸から二の丸、三の丸が南側に連なっています。堀切は岩盤を削っているため、切岸はかなり急勾配。物見台は本丸東西に2カ所あります。
本丸・二の丸間の巨大な空堀とそれに架かる土橋が一番の見どころです。

1.大手門跡。
2.二の丸の堀切。岩盤がチラリと覗く。
3.二の丸虎口。
4.本丸・二の丸間の巨大な空堀に掛かる土橋。
5.空堀東側。薮で大きさ、深さが伝わらない。
6.空堀西側。巨大な空堀が奥まで伸びる。
7.本丸虎口。
8.西物見台。

2024年06月06日 国府左京大夫城介
根木田入口脇山砦[佐貫城  周辺城郭]



北条氏が佐貫城攻めのために築いた向城か

【歴史】
天文15年(1546)9月に、北条氏が武田義信(武田全方の子で、元佐貫城主)と共に佐貫城を攻めた際に築いた向城と考えられている。

【遺構】
佐貫城の南約740mに位置する山稜(標高50m/比高30m)に築かれた砦です。
砦は谷戸(勝隆寺)を挟むように、三つの砦から構成されていたが、館山自動車道の建設に伴い、西側の砦Ⅰ、北側の砦Ⅲの遺構はほぼ湮滅している。そのため、東側にある砦Ⅱのみが遺構を残している。
なお、工事に伴い、砦Ⅰと砦Ⅲは発掘調査が行われ、1480~1530年頃の陶器が発掘されたそうです。

砦Ⅰには物見台やその背後に堀切や石積みがあった。発掘調査によると、櫓や陣幕、幟旗を立てた跡(ピット)を検出したそうです。一部破壊を免れた平場が残っており、そこからは佐貫城方面を眺望することができる。

砦Ⅱは遺構が完存しているが、砦Ⅰに比べると手狭なため、平場はそれほど広くはないため、段曲輪や切岸を施すことで守りを固めています。また、北側には谷戸側へ落ちる竪堀らしき遺構もあります。尾根がある方向には必ず堀切を入れています。特に主郭部の西側にある堀切は、虎口みたいな形状をしています。砦Ⅲへ向かう尾根はかなり細いため、砦間の移動には難儀したと思われます。

砦Ⅲは砦Ⅰと砦Ⅱと連接した砦となっており、物見台があり、そこからもピットが検出されている。また、南側の尾根には、大きな堀切が二条あり破壊からは免れたようですが、アクセス方法が不明なため確認していません。


【感想】
佐貫城の向城のようですが、館山自動車道の建設に伴い、遺構の多くが湮滅してしまいました。発掘調査の結果、様々なことが分かったので、壊さずに迂回などしてくれたらいいのになと思いつつ、千葉で仕事をしていた人間としては館山自動車道の便利さには仕方ないのかなとも思っています。

この城へのアクセス(主に砦Ⅱですが)は、花香谷青年館の背後の茂みを突っ込んでいく必要があるので、時期(3月末でギリギリくらいかと)を選ぶかと思われます。また、雨が降った日の翌日はかなりぬかるんでおり、何度も滑ってしまいました。そのため、倒竹に加えてぬかるんだ状態の細尾根を渡ることができませんでした。

そんなこともあり、少し消化不良の状態なので、またいつの日かリベンジを考えていたりもしています。

また、谷戸にあたる部分には勝隆寺があり、そこには江戸時代に佐貫の領主だった内藤家長や松平勝隆、阿部正身らのお墓もあります。

【アクセス】
佐貫町駅から徒歩25分。
佐貫城からは、徒歩7分。

【写真】
①~③は砦Ⅰ、④~⑧は砦Ⅱ
①遠景
②平場
③砦Ⅰから佐貫城を望む
④遠景
⑤竪堀
⑥切岸
⑦主郭部の西側にある堀切
⑧砦Ⅲへ向かう細尾根にある堀切

2023年10月31日 ᴿᴱᴰ副将軍
佐貫城



真里谷武田氏、里見氏、北条氏らが激しく争奪した城郭🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

応仁年間(1467年〜1469年)に武田義広により築かれたとされます。
1537年には真里谷武田氏の家督相続争いが勃発。当主の武田信隆は庶子であることに対し、弟の武田信応は嫡子であり多くの家臣が支持したことから争う様になります。
武田信隆は真里谷城を出て峰上城、佐貫城、海造城を拠点とし、小田原北条氏を頼りました。真里谷城の武田信応は小弓公方こと足利義明が後楯となり、小弓公方から参戦要請を受けた里見義堯が攻め寄せたため落城し、武田信隆は北条氏を頼って逃れたとされます。
その後は里見氏の属城となり、里見義弘の頃には本城ともなりましたが、里見義弘が没するとその子の梅王丸に家督を継がせた加藤信景が佐貫城に入って安房の里見義頼と敵対します。
1580年に里見義頼は上総へ侵攻し、佐貫城に攻め寄せたため、加藤信景は梅王丸の助命を求め開城。家督は里見義頼が承継し里見氏の本城は安房の岡本城に移りました。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が滅亡すると、里見氏は小田原に参陣しなかったため安房一国に減封され、関東に入部した徳川家康は家臣の内藤家長に二万石を与え佐貫城主としました。
1622年に内藤政長が陸奥国に転封となると、松平氏、柳沢氏、阿部氏と続いて明治を迎え、1871年の廃藩置県に伴い佐貫城は廃城となりました。

見所
染川と北上川に挟まれた丘陵上に築かれています。
南側丘陵麓に大手口があり、近世に築かれた石垣造りの櫓台が残ります。その先に三の丸、東西に分かれた二の丸が並び、本丸に続きます。
本丸と二の丸は大規模な空堀で隔てられ土橋が架かります。空堀は下草で覆われるも長大で西側端部は垂直削岩により落ちています。
本丸背後の堀切は房総特有の岩盤掘削堀切です。発達した岩盤掘削技術による徹底的な垂直切岸が随所に見ることができます。

2023年02月15日 いれぶん武蔵守
宮醤油店[佐貫城  御城印]



天保五年(AD1834)創業の造り醤油店で、店構えを見学するだけでも価値があるだけでなく、伝統製法を守り続けた製品を低価格で購入できる、城好き/刺身好き/酒好きな方々はMASTと言い切れる所です。

住所:富津市佐貫247
電話:0439-66-0003
営業時間:9時〜17時、定休日無し
https://www.miyashoyu.co.jp/

2023年01月01日 六文銭
佐貫城



佐貫町駅から徒歩で25分くらいかかりました。バスもありましたが、時間があいませんでした。12月30日に行きましたが、もみじがまだありました。展望台からは東京湾が望めます。

2022年11月03日 マグロ常陸介祐平
小久保藩陣屋[佐貫城  周辺城郭]



大政奉還後に徳川家が静岡藩を立藩した際に、遠江の相良から移封された田沼家の陣屋です。

遺構として、藩庁・藩主邸の庭園と井戸が残っています。藩校も建てられたようで説明板には校則も記載されています。石碑の後ろは国指定史跡の弁天山古墳で、後円部の墳頂にある石室の天井石は縄掛突起のある珍しいものです。

2021年07月25日 マグロ常陸介祐平
佐貫城



戦国時代初期の応仁年間から、江戸時代に2度の廃城期間があったものの明治の廃藩置県まで約400年の歴史があり、遺構も豊富に残っていますが、不思議なことに文化財指定をうけていません。

訪問当日は、たまたま本丸、土橋、空堀などの看板の設置作業をしていましたが、費用は地元有志の寄付とのことでした。設置作業に立ち会いの有志の方に全体を案内してもらうことが出来ました。説明の内容は盛りだくさんでしたが、最近のトピックとして松八幡神社跡の大木が台風で倒れ、根元から遺構が発見されたとのことでした。城址の近くの旧勝隆寺跡には江戸期の城主、松平家、内藤家、阿部家の墓があります。

2021年05月04日 織田上総介晃司
佐貫城

佐貫城登城口・三の丸石垣のとなりに駐車場があります。

比高も少なく案内板もあり、30分もあれば行って戻れます。

三の丸の石垣は千葉県下で唯一の石垣遺構で貴重です。また本丸の奥・搦手側にもわずかに石積があります。

2021年02月05日 カネゴン中務大輔
佐貫城



佐貫城は室町中期〜江戸末期まで城主が替わりながら存続しました。
大手櫓門跡
東物見台手前などに石垣遺構あります。写真は二の丸手前の城道ですが…見事に奥が隠れて枡形を思わせる造りです。他にも本丸と産所谷を寸断する堀切なども見事です。

猪が出没するようでシマヤシキ付近に罠があります。

2021年01月10日 M.I
佐貫城

佐貫町駅から徒歩で30分程で行けます。バスも駅前からマザー牧場行きがありますが、本数が少ないです。城は篠竹を刈り込んで整備しています。所々で標識があり分かりやすく、写真も綺麗に撮れます。本丸等で昨年の台風の影響による倒木がありますので注意してくださいね大手口櫓台と搦手は石垣があります。城の周りは獣対策のワイヤーがあるので触れないように。本丸裏手では野生の猪が罠にかかっていました。

2020年03月21日 ツルちゃん
佐貫城

ボランティアの方が整備しており、丁寧に城郭の構造を説明してくれました。
近くに老舗の醤油蔵があります。美味しい醤油でしたが無愛想なのがたまにきずです。

2019年05月12日 田部朝臣土持安房守
佐貫城



本丸東側の堀切の東側(つまり本丸から堀切を挟んだ側)の斜面上部に苔むした岩盤露呈部があったのがこれ。解りづらいですが段々があります。下部は土で埋まっている為本当に古い階段かは不明です。ただ、これを登った場所は平削地であり、産所谷より敵が来た場合に制圧射撃を掛けれる場所です。

…ただ、この城、縄張りをよくよく見ると、山全体の北側には郭が殆ど無い。つまり北側にいる敵に対して、稜線を以て防壁とし、城内の兵数を隠蔽する意図で作られている。実に対北条の出陣地点として利に叶っている。…と、なれば不要なので、後からの物かもしれません。

2019年05月12日 田部朝臣土持安房守
佐貫城



本丸東物見を左に見て坂を下ると堀切と産所谷との分岐に出ます。左へ行けば島屋敷、右へ行けば産所谷です。

が、堀切通過してみれば、猪用のかご罠がたちふさがっており、谷方面へ行ってみればこれまた猪用(?)の電気柵。時期が悪かったのか、立ち入り禁止にはなっていませんでしたが今後そうなのか地元の方、継続情報よろしくお願いいたします。

2017年04月08日 ジェフィ
佐貫城

佐貫城の城下町には、宮醤油という、当時からやっている、お店がありました。歴史漂うお店で、城の帰りに見る価値があると思います。

2017年01月28日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
佐貫城

小田原征伐後、徳川家康の江戸お討ち入りにより、内藤家長が上総天羽郡佐貫2万石で入封する。

三河一向一揆では父清長と袂を分かち、家康のもとで一揆鎮圧に活躍。以降、掛川城、三方ヶ原、長篠、小牧長久手、小田原と主な合戦に従軍。天正17年には、秀吉から豊臣姓を賜る。

慶長5年、家長は鳥居元忠とともに伏見城に籠城し、挙兵した西軍を迎え撃つ。この時、「西軍を相手に正々堂々と総大将の名乗りを挙げて討死しないと三河武士の名折れ」という元忠と、「東軍が西上するための時間稼ぎをするために討死の事実を隠して、可能な限り西軍を翻弄すべし」とする家長の間で意見の相違が生じた。結果、総大将の元忠は石段に腰掛けて堂々と名乗って切腹し、その首は西軍の手によって梟首となる。一方、西ノ丸の守将であった家長は得意の弓で防戦するも燃えさかる炎の中に身を投じる。結果、彼の首は発見されなかった。対照的とはいえ、どちらも徳川家三河武士の意地を貫いた壮絶な死と言える。

この家長の活躍により、嫡子政長は関ヶ原合戦後に1万石加増。のち7万石に加増され磐城平に移封となる。

2017年01月08日 まー兵部卿
佐貫城

館山道富津中央ICを下りT字路を右折→国道127号線→佐貫信号機(左手にミニストップ)を右折→喰い違い虎口の道を更に進む→(佐貫中や神社など通過)→左手に【佐貫城址入口】の標柱と説明板があり駐車場(《株式会社 ピーエス三菱 館山自動車道 染川橋 現場事務所》という看板が出ているので手前側に置く)もあるが入りづらい。CocaColaの看板がある《綾部商店》(他に鹿野山 天日干し せんべい 食料品)を過ぎたら行き過ぎです。佐貫駅からバスを利用した場合、天羽日東バスのマザー・神野寺方面行きで《牛房谷》停留所で降車。標柱・説明板の後ろに大手門石垣→三ノ丸→二ノ丸(標柱無し)→本丸。先人も云われてるが二ノ丸と本丸の間の空堀・土橋は見応え有り。三ノ丸・(本丸と二ノ丸の間の)空堀・本丸・展望台の標柱以外建っていません。ただ(竹)藪が激しく観るところは制限され消化不良に陥るかと。

2016年01月17日 藤井伊賀守
佐貫城

大手口の石垣は、近世のもので、あまり見栄えはしませんが、千葉県では貴重な遺構といっていいでしょう。

最大の見どころは、二の丸、本丸間の土橋と空堀。水がたまって水堀のようにみえ、雰囲気満点。

本丸背後の大堀切も素晴らしいです。

2015年10月15日 
佐貫城

佐貫町駅から徒歩で25分程。

まず大手口の石垣に目を奪われます。登り口には簡単な案内板もあり、そこで大まかに縄張りを確認し登城しました。比高は30メートル程、スニーカーで楽に登れます。

三ノ丸から二ノ丸に向かう道に残る岩盤を垂直に削った切岸が特徴的でした。道の途中には門跡のような場所も見受けられます。また本丸下東側の堀切も岩盤を削って切通しになっています。その他には二ノ丸と本丸間の土橋と空堀、本丸の東西両端には物見台跡(現在は展望台)等の遺構が残ります。

大手の石垣はきれいな切石で近世のものでしょうが、関東では珍しい虎口の石垣遺構として貴重。三ノ丸より上は自然地形を生かした構造なので、中世からあまり変わっていないと思われます。真里谷武田氏・里見氏・後北条氏が争った当時の雰囲気を色濃く感じることのできた城でした。




2015年09月21日 STRADA
佐貫城

県道163号線を佐貫中学校から東に600メートル程進むと、看板と城址入口が有り、その左手の道を上がると駐車場です。展望台まで行って帰って30分も掛かりませんでした。

2014年08月12日 征夷大将軍ヒトリモン
佐貫城

県道沿いに案内板と駐車場がありました。

佐貫城の周辺スポット情報

 本丸(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 土橋と空堀(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 川湊跡(遺構・復元物)

 馬出し(遺構・復元物)

 三之丸(遺構・復元物)

 縄張図と説明板(碑・説明板)

 三舟山陣跡(碑・説明板)

 三直城(周辺城郭)

 小久保藩陣屋(周辺城郭)

 根木田入口脇山砦(周辺城郭)

 日月神社(寺社・史跡)

 日枝神社(寺社・史跡)

 宮醤油店(御城印)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 登城口(その他)

 木戸跡(その他)

 木戸跡(その他)

 門跡(その他)

 旧勝隆寺跡・内藤家長の墓(その他)

 旧勝隆寺跡・松平勝隆の墓(その他)

 天神神社跡(その他)

 八幡神社跡(その他)

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