佐貫城(さぬきじょう)

佐貫城の基本情報

通称・別名

亀城

所在地

千葉県富津市佐貫小字小和田谷1102-1他

旧国名

上総国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

築城主

武田義広

築城年

応仁年間(1467〜1469)

主な改修者

里見義弘、阿部正鎮

主な城主

真里谷武田氏、里見氏、足利氏、加藤氏、内藤氏、松平氏、柳沢氏、阿部氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

空堀、石垣、土塁、井戸

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

飯野陣屋(千葉県富津市)[6.8km]
造海城(千葉県富津市)[8.6km]
真武根陣屋(千葉県木更津市)[11.4km]
笹子城(千葉県木更津市)[15.0km]
大戸城(千葉県君津市)[15.8km]

佐貫城の解説文

佐貫城(さぬきじょう)は千葉県富津市佐貫にあった佐貫藩の藩庁の城。

概要
佐貫城は、真里谷氏(真里谷武田氏)によって築かれた平山城。里見氏の支配下に入った天文6年(1537年)以降里見義弘が拠り、久留里城と共に真里谷氏及び後北条氏への最前線として重要な役割を果たした(ただし、近年の古文書研究により、後北条氏が同城を占拠して城代を置いていた時期も存在していたことが判明している)。里見氏安房移封以降も城郭として維持され、17世紀末から18世紀初頭の一時期を除き、明治維新まで維持された。

歴史・沿革
鎌倉大草紙に長尾三家の一つ総州長尾家が見え、この総州長尾家が佐貫に拠ったとされる。佐貫城もこの長尾氏により築かれたとする説もある。
応仁年間、武田義広により築城された。
天文6年(1537年)、真里谷氏に跡目争いが生じ、真里谷信隆の拠った佐貫城は真里谷信応を支援する足利義明・里見義堯等により攻められ落城した。
天文14年(1545年)、北条氏康が一時佐貫城を占領。以後、里見氏と後北条氏の争奪の舞台となる。
弘治元年(1555年)、北条氏康が再度佐貫城を占領、同盟関係にあった結城晴朝に報じる。
弘治2年(1556年)、里見義弘が佐貫城を奪還して同城から水軍を率いて鎌倉を攻撃する。
永禄2年(1559年)、この頃は再び後北条氏が占拠しており、北条家臣が城代を務める。
永禄5年(1562年)、上杉謙信に古河御所を追われた古河公方足利義氏が、北条氏康の保護の下に佐貫城に仮の御所を置く。
永禄6年(1563年)、この頃、里見義弘が再度佐貫城を奪還、足利義氏は鎌倉へと退避する。
永禄10年(1567年)、後北条氏との間で三船山合戦が生起したが、この際、里見義弘は佐貫城より出陣した。
天正6年(1578年)、里見義弘が佐貫城で病死。安房国にいた里見義頼が、嫡男梅王丸と城代加藤信景を攻めて屈服させて家督を継承、以後里見氏の本拠は安房に移る。
天正18年(1590年)、小田原の役後里見氏が安房一国に減封され、内藤家長が入城した。
元和8年(1622年)、内藤家長の子政長に代わり、武蔵深谷から松平忠重が封ぜられた。
寛永10年(1633年)、忠重の駿河田中への移封に伴い、松平勝隆が入った。
元禄元年(1688年)、除封された勝隆の子重治に代わり、柳沢吉保が入城した。...

佐貫城の口コミ情報

ジェフィ様[2017年04月08日]
佐貫城の城下町には、宮醤油という、当時からやっている、お店がありました。歴史漂うお店で、城の帰りに見る価値があると思います。

殺三千世界鴉⚡️晋作様[2017年01月28日]
小田原征伐後、徳川家康の江戸お討ち入りにより、内藤家長が上総天羽郡佐貫2万石で入封する。

三河一向一揆では父清長と袂を分かち、家康のもとで一揆鎮圧に活躍。以降、掛川城、三方ヶ原、長篠、小牧長久手、小田原と主な合戦に従軍。
天正17年には、秀吉から豊臣姓を賜る。

慶長5年、家長は鳥居元忠とともに伏見城に籠城し、挙兵した西軍を迎え撃つ。
この時、「西軍を相手に正々堂々と総大将の名乗りを挙げて討死しないと三河武士の名折れ」という元忠と、「東軍が西上するための時間稼ぎをするために討死の事実を隠して、可能な限り西軍を翻弄すべし」とする家長の間で意見の相違が生じた。
結果、総大将の元忠は石段に腰掛けて堂々と名乗って切腹し、その首は西軍の手によって梟首となる。
一方、西ノ丸の守将であった家長は得意の弓で防戦するも燃えさかる炎の中に身を投じる。
結果、彼の首は発見されなかった。
対照的とはいえ、どちらも徳川家三河武士の意地を貫いた壮絶な死と言える。

この家長の活躍により、嫡子政長は関ヶ原合戦後に1万石加増。のち7万石に加増され磐城平に移封となる。

まー宮内卿様[2017年01月08日]
館山道富津中央ICを下りT字路を右折→国道127号線→佐貫信号機(左手にミニストップ)を右折→喰い違い虎口の道を更に進む→(佐貫中や神社など通過)→左手に【佐貫城址入口】の標柱と説明板があり駐車場(《株式会社 ピーエス三菱 館山自動車道 染川橋 現場事務所》という看板が出ているので手前側に置く)もあるが入りづらい。CocaColaの看板がある《綾部商店》(他に鹿野山 天日干し せんべい 食料品)を過ぎたら行き過ぎです。佐貫駅からバスを利用した場合、天羽日東バスのマザー・神野寺方面行きで《牛房谷》停留所で降車。標柱・説明板の後ろに大手門石垣→三ノ丸→二ノ丸(標柱無し)→本丸。先人も云われてるが二ノ丸と本丸の間の空堀・土橋は見応え有り。三ノ丸・(本丸と二ノ丸の間の)空堀・本丸・展望台の標柱以外建っていません。ただ(竹)藪が激しく観るところは制限され消化不良に陥るかと。

藤井伊賀守様[2016年01月17日]
大手口の石垣は、近世のもので、あまり見栄えはしませんが、千葉県では貴重な遺構といっていいでしょう。

最大の見どころは、二の丸、本丸間の土橋と空堀。水がたまって水堀のようにみえ、雰囲気満点。

本丸背後の大堀切も素晴らしいです。

león伊豆守大途様[2015年10月15日]
佐貫町駅から徒歩で25分程。

まず大手口の石垣に目を奪われます。登り口には簡単な案内板もあり、そこで大まかに縄張りを確認し登城しました。
比高は30メートル程、スニーカーで楽に登れます。

三ノ丸から二ノ丸に向かう道に残る岩盤を垂直に削った切岸が特徴的でした。道の途中には門跡のような場所も見受けられます。また本丸下東側の堀切も岩盤を削って切通しになっています。
その他には二ノ丸と本丸間の土橋と空堀、本丸の東西両端には物見台跡(現在は展望台)等の遺構が残ります。

大手の石垣はきれいな切石で近世のものでしょうが、関東では珍しい虎口の石垣遺構として貴重。
三ノ丸より上は自然地形を生かした構造なので、中世からあまり変わっていないと思われます。
真里谷武田氏・里見氏・後北条氏が争った当時の雰囲気を色濃く感じることのできた城でした。


STRADA様[2015年09月21日]
県道163号線を佐貫中学校から東に600メートル程進むと、看板と城址入口が有り、その左手の道を上がると駐車場です。展望台まで行って帰って30分も掛かりませんでした。

ひとりもんの副将軍様[2014年08月12日]
県道沿いに案内板と駐車場がありました。

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