飯野陣屋(いいのじんや)
飯野陣屋の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 千葉県富津市下飯野833他
旧国名
- 上総国
分類・構造
- 陣屋(古墳利用)
天守構造
- なし
築城主
- 保科正貞
築城年
- 慶安元年(1648)?
主な改修者
- -
主な城主
- 保科氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 土塁、横堀(水堀)
指定文化財
- 県史跡(飯野陣屋濠跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
佐貫城(千葉県富津市)[6.7km]
真武根陣屋(千葉県木更津市)[8.1km]
造海城(千葉県富津市)[12.9km]
笹子城(千葉県木更津市)[13.1km]
秋元城(千葉県君津市)[13.6km]
浦賀城(神奈川県横須賀市)[15.4km]
佐原城(神奈川県横須賀市)[18.7km]
千本城(千葉県君津市)[19.8km]
衣笠城(神奈川県横須賀市)[20.7km]
久留里城(千葉県君津市)[20.8km]
飯野陣屋の解説文
[引用元:Wikipedia「飯野陣屋」の項目]
飯野陣屋(いいのじんや)は、千葉県富津市にあった陣屋。飯野藩の藩庁が置かれた。
概要
飯野陣屋は飯野藩の藩庁が置かれていた、富津市の小糸川下流に広がる沖積平野上にある陣屋である。構造的には本丸・二の丸・三の丸がある東側の内邸(うちやしき)と西側の外邸(そとやしき)に分けられる。
創建年代については諸説あるが、飯野藩の藩主であった保科氏が加増の結果、大名となった1648年に創建されたとの説が有力である。総面積は約17万6000m2と陣屋としては規模が大きく、日本三大陣屋のひとつとされており[1]、また構造的に防衛を考慮された城郭的色彩が強い点などから、江戸時代以前に既存の城郭があって、飯野藩の成立後に増改築がなされたとの説もある。
廃藩置県後、飯野陣屋は一時飯野県の県庁として利用されたが、飯野県が木更津県に合併された後は利用されることもなく、陣屋内に居住していた旧飯野藩士もやがて離散し、遺棄された。陣屋当時の建物はすでに無いが、濠と土塁は良く残されており、特に保存状態の良い内邸を囲む外濠が千葉県の史跡に指定(1967)されている。
飯野陣屋の構造
飯野陣屋は富津市の小糸川下流に広がる標高約7メートルから8メートルの沖積平野上にある。後述するように飯野陣屋は古墳時代に築造された内裏塚古墳群の中に造られており、古代の古墳は沖積平野上に残るかつての砂丘跡である微高地に造られたと考えられているが、飯野陣屋全体としては築造当初、敷地の多くは低湿地帯であったと考えられている。陣屋の規模は南北約280メートル、東西約350メートルあり、陣屋としては大規模で、飯野陣屋は越前敦賀陣屋、長州徳山陣屋と並んで日本三大陣屋の一つに数えられていたという。陣屋は大きく分けて本丸・二の丸・三の丸がある東側の内邸(うちやしき)と西側の外邸(そとやしき)に分けられる[2]。
内邸
内邸は全体を千葉県史跡に指定されている幅5メートルから6メートル、深さ1.2メートルから2メートルの外濠が囲み、外堀の内側には高さ約2メートルの土塁が築かれている。この外濠と土塁は現在もかなり良く残っている。全体の面積は外濠の面積を含め約128000m2である。元来、内邸への入り口は本丸東側の大手門、三の丸西側の搦手門、そして本丸南側の門の3か所のみであったが、現在はもっと多く、7か所から内邸部分に入ることが可能になっている[3]。
飯野陣屋の本丸と二の丸、三の丸は主軸方向にずれが見られ、本丸と二の丸、三の丸はその築造時期が異なるのではないかとの説もある[4]。
本丸
飯野陣屋東南部、東西約210メートル、南北約160メートルで、面積は約34000m2ある。本丸の北部、西部を取り囲むように二の丸があり、本丸の東部、南部は飯野陣屋の内邸を囲む外濠と土塁に囲まれ、本丸と二の丸の間にもかつては内濠と土塁があったが、現在ほとんど消滅してしまっている。本丸内部には藩主が住む邸、藩庁があった。本丸の東側には大手門があり、また本丸南側にも門があった[5]。
大手門は藩主の邸へ向かう道筋を防御するために、門内に幾重にも折れ曲がった枡形と呼ばれる四角形をした土塁が造られており、複雑な造りとなっていた。枡形も現在そのほとんどが消滅している[6]。
また幕末から明治期の本丸内には、大手門内側の枡形の近くに池があったことが古地図などからわかるが、この池は発掘の結果、18世紀以前と考えられる古い時代の飯野陣屋の濠跡であったことが判明しており、飯野陣屋は改築がなされたことがあることがわかる。また後世池となった濠が造られた後に、大手門内側の枡形が造られたことも判明したが、大手門、大手門枡形の築造時期は今のところ不明である[7]。
二の丸
二の丸は本丸の北側と西側とを囲むような鍵形をしており、面積は約31000m2である。本丸と二の丸との間と同じように、二の丸の外側にある三の丸との間にも内濠があったが、現在は一部残存するものの、ほとんど埋め立てられている。なお二の丸西側の内濠は、6世紀末に築造されたとされる前方後円墳、三条塚古墳の外側の周濠を利用して築造されたと考えられている[8]。
二の丸東側外側には枡形の張り出し部分があり、それと対応するように二の丸東側にも張り出し部分が見られる。この張り出し部分から北西方向に向かって、当時の街道筋が伸びており、張り出しは飯野陣屋の街道筋に面する部分の防御を強化するために設けられた施設と考えられている[9]。
二の丸の敷地内には主に上級藩士の邸が並んでいた。その他、二の丸には煙硝蔵と飯野神社があった。煙硝蔵は、終末期古墳の方墳である稲荷塚古墳があった場所に建てられた。飯野神社は本丸側になる東側以外の三方向を土塁で囲まれていたが、現在は三条塚古墳に隣接する西側の土塁のみ、痕跡が残っている。
三の丸
三の丸は二の丸の北側と西側とを囲むような鍵形をしている。面積は約51000m2で、内邸では最も広い。三条塚古墳の墳丘南側には二の丸と同じく上級藩士の邸が並び、三の丸西側には搦口に当たる内邸への入り口があった。この入り口から南側は防御のために土塁を二重にしていた。しかし三の丸の多くは雑木林であったようで、西側では墳丘長122メートルの前方後円墳である三条塚古墳が大きな面積を占めていた[10]。
三条塚古墳は当初、飯野陣屋の物見櫓的な役割を果たしていたと考えられている。古墳の東側墳丘の一部を崩して、江戸時代末期、藩校である明進館が建てられた[11]。
また西側の外側周濠は、飯野陣屋三の丸の濠の一部として利用され[12]、飯野陣屋の三の丸西側にある土塁の一部は、三条塚古墳の内周濠と外周濠との間の周堤を利用したものと考えられている[13]。その他、三条塚古墳の墳丘西側には弓の稽古場である角場が設けられていた。
外邸
内邸の西側に広がり、総面積約48000m2である。内邸との間は濠で区切られ、外邸と外部との間にも細い濠があった。現在は外邸と外部を区画する濠は埋め立てられている。外邸には中級藩士が住む邸と、下級藩士が住む長屋が9棟あった[14]。
その他の施設
飯野陣屋外、本丸南側には牢屋があった。牢屋の南側には終末期古墳の方墳である亀塚古墳がある[15]。
歴史
飯野藩と飯野陣屋の創建
飯野藩の藩主となる保科家は、甲斐武田家の家臣から徳川家康の家臣となり、1600年(慶長5年)以降、信濃高遠藩の藩主となっていた。当時の保科氏の当主であった保科正光は、1617年(元和3年)に徳川秀忠の四男である保科正之を養子とし、正之を後継者とした[16]。
保科正光には実弟である保科正貞がいたが、正光と不仲であったこともあって廃嫡となった。しかし正貞は1629年(寛永6年)に幕臣となり、まもなく上総国飯野を中心に3000石の領地を与えられた。1633年(寛永10年)には4000石の加増が行われ、さらに1648年(慶安元年)には大坂定番に任じられ、関西の摂津中心に1万石の加増がなされ、所領が計1万7000石となり、大名となった[17]。これは保科正之が将軍秀忠の実子として認められたために保科姓から松平姓となる可能性が高くなったことにより、保科家を残すために徳川家光が配慮をしたとも言われている。なお、飯野藩の成立の経緯から、正之を家祖とする会津松平家が、飯野藩主保科家の本家筋となった。
大名となった保科家は、所領が房総と関西に二分されていたため、陣屋も2か所設けられた。上総国飯野と摂津国豊島郡浜村(現大阪府豊中市浜町)である。上総飯野に建てられた陣屋を飯野陣屋と呼び、摂津浜村に建てられた陣屋を浜村陣屋と呼んだ[18]。
飯野陣屋の創建時期については諸説がある。まず早い説としては、保科正貞が上総国飯野に初めて所領を与えられた1629年(寛永6年)説がある。その他1631年(寛永8年)説、保科正貞が大名となった1648年(慶安元年)説、さらには元禄年間(1688年 - 1704年)の四つの説があるが、慶安年間(1648年 - 1652年)に建てられたと考えられている浜村陣屋と同じく、保科正貞が大名になった1648年(慶安元年)説が有力である[19]。
なお、飯野陣屋は規模が大きな陣屋であることと、前述のように防御面を考慮した城郭的色彩も強いことなどから、江戸期、保科氏の陣屋が建てられる以前から城郭があって、古い城郭が幾度かの拡張が行われて飯野陣屋となったのではないかとの説も唱えられているが[20]、これまでの飯野陣屋の発掘結果からは、陣屋は建て替えが行われたことがあるが、江戸時代以前に城郭があったことは証明されておらず、飯野陣屋は現在のところ1648年(慶安元年)に保科正貞が創建したものとされている。
飯野藩歴代藩主と飯野陣屋
歴代の飯野藩主は、多くの場合大坂定番や大坂加番といった大阪での勤務に任じられることが多く、また江戸城門番や日光祭礼奉行に任じられることも多く、所領の多くが関西方面にあったこともあって[21]、藩主や上級藩士が千葉の飯野で過ごすことは少なく、飯野陣屋には代官や手代を派遣し、主に江戸の上屋敷や大坂に在住していたものと考えられている[22]。
これは歴代の飯野藩主の中で飯野に墓所があるのが2代保科正景のみであることや[23]、発掘調査の際に発掘される遺物の多くが19世紀台のものであることからも明らかである[24]。
幕末から明治にかけての飯野陣屋
飯野藩10代藩主である保科正益は、戊辰戦争時に謹慎処分を受けるが許され、1867年(慶応3年)末には飯野に戻った。その後1869年(明治2年)には各地にあった飯野藩の領地は、全て飯野近郊の82か村に集められ、保科正益は同年の版籍奉還により飯野藩知事となった。この頃、飯野藩の藩士の多くが飯野に在住するようになったと考えられている[25]。
明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県によって飯野県が成立し、飯野陣屋は飯野県県庁となったが、わずか4か月後の11月には木更津県に合併された[26]。
飯野県が木更津県に合併された後も、飯野陣屋の出土品の中に明治前半期にしては珍しい板ガラスが見られることから、しばらくの間は居住を続けていた旧藩士もいたと考えられる[27]。しかし明治中期以降、陣屋内に居住していた旧藩士たちのほとんどが離散して、やがて建物は取り壊されていき、濠と土塁が残る現在の状況になっていった。
内裏塚古墳群と飯野陣屋
飯野陣屋の特徴のひとつとして、古墳時代に造営された内裏塚古墳群の中に造られたという点が挙げられよう。陣屋の内部には6世紀末に造られたと推定される墳丘長122メートルの前方後円墳である三条塚古墳と、7世紀に造営されたと考えられる方墳の稲荷塚古墳 があり、また陣屋南側にあった牢屋のそばにはやはり7世紀に造営されたと考えられる方墳の亀塚古墳がある。
また外邸のすぐ北方には三条塚古墳と同時期に造られたと考えられている前方後円墳の蕨塚古墳があるなど、陣屋周辺にも多くの古墳が見られる。
なぜ飯野陣屋が古墳を取り込む形で造られたのかはかっきりとはわからない。また本丸南側には亀塚古墳があるが、本丸が亀塚古墳を避けるように造られているのに対して、二の丸の敷地内にある稲荷塚古墳は煙硝蔵となり、二の丸と三の丸との間の濠や、三の丸と外邸との間の濠が三条塚古墳の外側周濠を利用しているなど、二の丸と三の丸は敷地内の古墳を積極的に利用しており、本丸と二の丸、三の丸とでは古墳の利用の仕方が異なる点を注目する説もある[28]。
発掘の経緯
飯野陣屋の跡地は、旧藩士の離散後はその多くが畑地や山林となっていたが、1980年代に入ると開発の手が伸び、住宅の建設が行われるようになった。そのため1981年より随時発掘が行われている[29]。
参考文献
- 稲荷口遺跡調査会『飯野陣屋』稲荷口遺跡調査会、1982年
- 八田英夫「飯野藩と陣屋」
- 小沢洋『飯野陣屋濠跡発掘調査報告書』富津市教育委員会、1985年
- 須田茂『房総諸藩録』崙書房出版、1985年
- 千葉県教育委員会『千葉県中近世城跡研究調査報告書』千葉県教育委員会、1988年
- 鳴田浩司「飯野陣屋」
- 小沢洋『三条塚古墳』富津市教育委員会 財団法人君津郡市文化財センター、1990年
- 諸墨知義『財団法人君津郡市文化財センター発掘調査報告書第79集、飯野陣屋二の丸跡』財団法人君津郡市文化財センター、1993年
- 千葉県教育委員会『千葉県所在中近世城館詳細分布調査報告書Ⅱ』千葉県教育委員会、1996年
- 外山信二「飯野陣屋」
- 富津市教育委員会『平成10年度千葉県富津市内遺跡発掘調査報告書』富津市教育委員会、1999年
- 諸墨知義「飯野陣屋本丸跡」
- 富津市教育委員会『平成11年度千葉県富津市内遺跡発掘調査報告書』富津市教育委員会、2000年
- 小沢洋「飯野陣屋三の丸跡」
- 小沢洋「三条塚古墳」
- 小沢洋『内裏塚古墳群の概要』、富津市教育委員会、2008年
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飯野陣屋の口コミ情報
2023年04月13日 マタローちゃん大宰少弐
飯野陣屋
現在は細く浅そうな堀が四角く巡っているが、嘗ては深く幅広い堀だったと言う。その雰囲気は残しており、栃木県の足利氏館に雰囲気が似ている。しかしこちらの方は176000㎡と東京ドーム3.5個分と言う桁違いの広さ。そのためか、この城郭の中は個人の敷地が混在しているため、観光する際は迷惑が掛からないよう注意が必要である。
2023年03月28日 大炊助とりゅぼす
飯野陣屋
陣屋跡とはいえ、その敷地面積は広く、県史跡となっている南側濠跡をはじめ、周囲をぐるりと濠で囲んでいる立派な陣屋跡です。東側濠跡もきれいに残っています(往時は立派な虎口、枡形から大手門へと続いていたようですが、今は神社への参道となっています)。流石は日本三陣屋のひとつと言われるだけのことはあります。南側の濠も水を湛えており、形状は確認できませんが、調査時に立派な薬研堀であることが確認された(濠跡は個人所有)とのこと。飯野陣屋周辺は古墳もいくつかあり、西側の濠は三条塚古墳の外溝を利用していたり、神社付近に土塁とおぼしき盛り土が現存したりしています。
2023年02月15日 いれぶん武蔵守
カットスタジオ beatle[飯野陣屋 御城印]
写真でわかる通り、店長の石井敏明さんはビートルズファンで、NHKのどじまん出場経験者でもある。15分ほどの訪問でも笑い声が絶えない会話が出来るほど気さくな方でした。
住所:富津市下飯野249-4
電話:0439-87-3870
営業時間:9時~19時
定休日:毎月曜と第2.3火曜
2023年01月15日 ハニワ右大臣
飯野陣屋
古墳の隣りにある陣屋で、神社がありますよ
2022年08月25日 ぬっぴー上総介
飯野陣屋
古墳の跡に作られた陣屋で、裏には神社があり、車でリア攻めできました。
2022年08月13日 Nabeppu左馬頭
飯野陣屋
御城印を買い求める場合、平野青果といいのラーメンでしたが、平野青果は既に閉店しており、買い求めることは出来ません。代わりに平野青果から南東に230m程行った所にあるCUT STUDIO BEATLEにて買うことが出来ます。店のご主人は、とても気さくな方です。
2021年08月10日 国府左京大夫城介
富津陣屋[飯野陣屋 周辺城郭]
幕末の江戸湾を守る海防陣屋の一つ
【歴史】
天正18年(1590)に、旗本小笠原氏が富津を領地としたことから、その居所として建てられた。その後、旗本の江戸在住に伴い廃止となった。
江戸湾の海防を担っていた白河藩が文政5年(1822)に、館山の波佐間陣屋からこの地に移転した。
その後、幕府代官、忍藩、会津藩、柳川藩、二本松藩、前橋藩に引き継がれていった。
慶応4年(1868)4月に、請西藩主・林忠崇により富津陣屋の武具(大砲や小銃)が接収された。前橋藩の家老小河原左宮はその責任をとって自害している。後に、一部藩士が旧幕軍に協力したことを新政府側に追及され、勘定奉行白井宣左衛門は自害した。同年9月に陣屋は取り壊され、同10月には敷地も払い下げられている。
(説明版等から一部抜粋)
【遺構】
富津陣屋、白井宣左衛門自刃、小河原多宮自刃の三つの石碑がある。
陣屋の遺構自体は残ってはいないが、宅地開発時の発掘調査の際に建物跡や白洲跡、大量の陶磁器類が発見されている。
【感想】
遺構は一切残っておらず、石碑も茂みに隠れるように立っている。発掘した資料や、建物跡・白洲跡の写真は残っていないのは残念の一言。往時の姿は、絵図面で残っており、それによると結構大きな陣屋だったみたいです。
個人的に気になったのは、石碑の「小河原多宮自刃」の名前が間違っていると思うのですが…
【アクセス】
木更津駅若しくは青堀駅から「富津公園」行きに乗車し、「かじや本店前」若しくは「仲町」で下車し、徒歩5分。
【写真】
1:説明版
2:石碑(小河原多宮自刃・白井宣左衛門自刃・富津陣屋跡)
2021年08月02日 国府左京大夫城介
富津台場[飯野陣屋 周辺城郭]
江戸幕府が造り、明治政府が改築した台場
【歴史】
文政4年(1821)に、江戸湾の警備体制が変更され、安房の洲崎台場(現・館山市)が廃止され、富津に移された。翌文政5年に、白河藩が富津台場を築いた。安政5年(1858)に日米修好通商条約が締結されると、房総の各台場は徐々に廃止されていったが、富津台場は幕末まで残っていた。
明治14年(1881)に、明治政府によって3年の歳月をかけて改築した。大正4年(1915)に除籍となり、大正11年(1921)から昭和20年(1945)の間は、旧陸軍技術本部の実射試験場・富津射場と運用された。正式名称:富津元洲堡塁砲台
【遺構】
富津公園の「中の島」が台場跡になる。100×250ほどの台形状となっており、周囲を幅20~40mの水堀で囲んでいる。この水堀は海水を引き込んでいる。北側に近代式の石垣による虎口があり、南側の高台に5つの窪地があり、そこが砲台の跡となっている。高台の東側にコンクリートで固めれた区画があり、その下には煉瓦で組まれた弾薬庫が残っている。
また、富津岬自体が軍用地であったため、富津公園内には、監的塀、射入窖やトーチカも残っている。
【感想】
現在残っているのは江戸幕府の遺構ではなく、明治以降の戦争遺構となっています。台場の状態は、品川台場と同じような状態でした。しかし、富津公園内に点在するトーチカ等の遺構は半分くらい藪に埋まったり、道が分かりにくい状態になっているのは残念です。それでも、このような戦争遺構を間近で見える遺構はそうそうないです。
さて、江戸後期に房総地方には多くの台場が築かれていますが、その幾つかは松平定信の白河藩が築き、駐屯していたとのことです。しかも、老中時代に江戸湾海防の提言をした本人ということで、お鉢が回ってくるのは少し酷い気がします。そのため、白河藩の財政は急激に逼迫したようで、子の定永の代に三方領替え(白河→桑名→忍→白河)で桑名へ転封しています。その後、忍・会津・柳川・二本松・前橋の藩が駐屯していたようです。
【アクセス】
木更津駅若しくは青堀駅から、「富津公園」行きのバスに乗り、終点で下車し、徒歩2分。
富津公園の駐車場(無料)は利用可能。
【写真】
1:説明版
2:北側の水堀
3:虎口
4:弾薬庫
5:第一海堡
6:竹ヶ岡台場(造海城)
7:砲台跡
8:トーチカ
2021年08月02日 けんけん右京大夫まる
飯野陣屋
千葉県富津市。御城印は本丸内の平野青果さんか近隣の飯野ラーメンさんでいただけます。土塁と水堀ね遺構が見られ、周りに古墳も点在します。
2021年07月24日 マグロ常陸介祐平
飯野陣屋
県の文化財に指定されている外周を囲む水堀が良く残っています。藩校と物見櫓があった飯野神社裏の古墳に向かいましたが、雑草と木の枝に阻まれ断念しました。近くの浄信寺には二代藩主保科正景の墓があります。
2016年01月17日 藤井伊賀守
飯野陣屋
水堀、土塁が良く残っています。
2015年05月04日 まー刑部卿
飯野陣屋
道路を走っていると左手に水濠が見えてきます。何箇所か入り口を過ぎて水濠が終わりそうなところを左折すると石碑がいっぱいあるところに出ます。ここが大手門跡。さらに左折。砂利道を進んでいきますがここは本丸跡だそうですが住宅地と化しています。神社の前の案内板の前に駐車しました。途中細い道路を通過しましたがそこはかつての水路もしくは水濠だったようです。二の丸側の水濠はアスファルト舗装されています。物見台や藩校のあった古墳は歩いてみたものの藪化で歩きにくいし視界が悪かったです。陣屋跡というと石碑しかないところがほとんどのため水濠があるところは珍しいです。