久留里城(くるりじょう)
久留里城の基本情報
通称・別名
- 雨城、霧降城、浦田城
所在地
- 千葉県君津市久留里448
旧国名
- 上総国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- 型式不明[2重2階?/1724年築/破却(廃城令)]、独立式望楼型[2重3階/1979年築/RC造模擬]
築城主
- 武田信長
築城年
- 康正2年(1456)
主な改修者
- 里見義堯、黒田直純
主な城主
- 真里谷武田氏、里見氏、後北条氏、大須賀氏、土屋氏、黒田氏
廃城年
- 明治5年(1872)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、土橋、井戸
指定文化財
- -
再建造物
- 模擬天守、碑、説明板
周辺の城
-
千本城(千葉県君津市)[3.6km]
真里谷城(千葉県木更津市)[6.5km]
秋元城(千葉県君津市)[9.8km]
佐是城(千葉県市原市)[13.0km]
大多喜城(千葉県夷隅郡)[13.6km]
笹子城(千葉県木更津市)[13.6km]
真武根陣屋(千葉県木更津市)[16.4km]
佐貫城(千葉県富津市)[17.6km]
庁南城(千葉県長生郡)[18.1km]
山之城(千葉県鴨川市)[20.5km]
久留里城の解説文
[引用元:Wikipedia「久留里城」の項目]
久留里城(くるりじょう)は、千葉県君津市久留里付近にあった日本の城。別名雨城・霧降城・浦田城とも呼ばれる[1]。
概要
久留里城は室町時代に上総武田氏の武田信長によって築かれた山城(古久留里城)で、以降は信長の子孫である真里谷氏が支配した。戦国時代には真里谷氏は衰え、代わって里見氏の拠る所となり、里見氏によって再構築され(新久留里城)、佐貫城と共に対北条氏の最前線を担った。その後、江戸時代には久留里藩の藩庁として再整備され、酒井氏の加増地となった17世紀末から18世紀半ばを除いて、近世城郭として明治維新まで維持された。
構造
久留里城は現在本丸のある近世城郭部に加え、安住原地区、怒田遺跡および山麓小櫃川河畔の近世居館部の4つの郭群からなる。この内、江戸時代には近世城郭部と近世居館部のみが城域として維持されたが、安住原地区については真里谷氏時代の遺構であり、里見氏時代には既に放棄されていたと考えられている。ただし、安住原地区は里見氏時代も引き続き使用されたと考える向きも多い。
遺構
山麓の近世居館部は一部の土塁を除き開発により消滅したが、車道で一部が削られたものの山上の遺構は比較的よく残り、天守台等の近世遺構に加え、堀切や削り残し土塁等の中世里見氏時代の遺構も見られる。また、山上は湧水が豊富で、男井戸・女井戸、お玉が池を始めとする、複数の水源が現在でも水を湛えている。
沿革
古久留里城
平将門の三男頼胤が築城したという伝説もあるが定かではない。
上総武田氏の祖となった武田信長が康正元年(1455年)に上総国守護代に任ぜられ、翌康正2年(1456年)に築城したといわれるのが史実に基づく最初の築城である。 戦国時代には、武田氏が戦乱や内紛により弱体化した機に乗じて里見氏がこれを抑えた(里見成義がここを開城させたとも、里見義堯が武田一族であった前城主武田真勝に城を譲らせたともいう)。
久留里城
天文4年(1535年)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在の城地に久留里城を築いた(ただし、年代に異説あり)。永禄7年(1564年)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落した。その後、再び里見氏が奪還した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は私戦を禁じた惣無事令違反により、秀吉の不興を買い安房一国の領有はゆるされたが、上総の所領を没収された[2]。この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平(大須賀)忠政が3万石を与えられ入城した。忠政は城下町整備に尽力し後の基盤が出来上がった。
その後、江戸時代には久留里藩の藩庁となった。慶長6年(1601年)松平(大須賀)忠政が関ヶ原の戦いの功により3万石加増の上、遠江国横須賀城に転封となった。代わって土屋忠直が2万石で入城した。土屋氏は延宝7年(1679年)改易となり廃藩、一時廃城となった。寛保2年(1742年)上野国沼田城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩した。黒田氏は明治維新まで居城し、明治5年(1872年)廃城令により久留里城の歴史は終わった。
昭和30年(1955年)に城郭跡地の国有地を借り受けて城山公園に整備を行った。昭和54年(1979年)には模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造された。江戸末期に実際に建っていたものは、現存する当時の文献や、礎石の配列状況からして2層2階であったと推定されているが、再建された天守は浜松城模擬天守をモデルとした2層3階であり、実際に建っていたものとは大幅に異なる。模擬天守内は展示物は全国に現存する天守閣のパネル展示くらいで、展望台として利用されている。
この城の周りでよく雨が降ることから、別名雨城と呼ばれている。
- 雨城
アクセス
最寄駅
「久留里駅」(JR久留里線)
最寄バス停留所
「久留里城三の丸跡」
- 高速バス【アクシー号】木更津金田BT・東京駅行
- ◆木更津金田BTで羽田空港行/成田空港行高速バスに乗り換えができる。
- 高速バス【カピーナ号】千葉駅行、安房鴨川駅(亀田病院)行
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久留里城の口コミ情報
2024年10月13日 hino
久留里城
久留里城をリア攻め 車で行きました、駐車場あり、そこから500m程登ると資料館、更に200m先に天守があります 山頂までの道路は広く資料館まで車で登れますが関係者以外は禁止の様です、身体の不自由な方は資料館まで車で登って良い旨の張り紙がありました。現在天守の中には入れませんが資料館は無料で見れます。
2024年07月30日 ニセッシー
火薬庫跡[久留里城 遺構・復元物]
急な斜面サンダルだときついですね。ベンチが一つありますよ。
2024年02月04日 昌幸近江守晩秋リア旅
大戸城[久留里城 周辺城郭]
久留里城の支城だった大戸城。
里見氏もしくはそれ以前の領主だった上総武田氏の築城とされています。
1590年の小田原征伐前夜には里見領でしたが、豊臣秀吉の天下統一後は上総を召し上げられたため廃城となりました。
大戸城は小櫃川に三方を囲まれ、北側を通る久留里街道を監視していました。(なお近世の河川工事により西側の流れがなくなりました)
主郭部分を「二条ノ台」、副郭を「登城ノ台」と呼んでいます。
長い間手付かずだったことに加え、2019年の2度の台風直撃で、かなりの荒れ城になっています。ただロケーションを見ると相当堅固な城だったように思われます。
【写真の説明】
①登城口。「落石注意」の黄色い看板が目印。
②登城路。当時は横堀だったかも?
③二条ノ台(主郭)背後の腰郭。
④腰郭上には堀切が。一番の見どころ。
⑤二条ノ台(主郭)。祠が複数建つ。
⑥主郭西側は比較的緩やかなため、腰郭を複数配す。
⑦変わって東側は崖。
⑧「登城ノ台」を見る。地図記号が“荒れ地”なのだが、正にその通り。これ以上の進軍は断念。
※「二条ノ台」へ行くには虎ロープを使い堀切を登ります。手袋必須でしょう。
※「登城ノ台」へ向かう途中に“ぬた場”(イノシシのお風呂)あり。
2023年12月20日 ムサコ駿河守
久留里城
久留里駅から徒歩よりも高速バスを使った方が便利ですが、御城印は駅のそばで販売しています。現在、本丸は残念ながら立ち入り禁止になっています。バス停は三の丸跡らしいですが、そこから資料館を望むと断崖絶壁、難攻ぶりが偲ばれます。
2023年09月13日 マグロ常陸介祐平
戸崎城[久留里城 周辺城郭]
石碑には、里見氏の家臣戸崎玄蕃が築城し、里見氏が安房一国に減封の際に廃城になったと記されています。
皇産霊神社に向かう坂道(大手道)登ると、枡形虎口に見えなくもない土塁(写真1枚目)に突き当たります。(二重の土塁の手前の虎口、左手は堀切?右手は土塁が二本とも先まで伸びる)
二重の土塁(写真2枚目)の間を抜けると、神社のある本丸らしき曲輪の下(写真3枚目)に出ます。神社の階段を登ると石碑の建つ低い土塁に囲まれた本丸?(写真4枚目)となります。ここに石碑があるのですが、石碑には「史跡 戸崎城址 当社殿裏」と記されています。
社殿裏からは土塁が伸びており、左手は空堀となっています。
土塁には横矢掛り(写真8枚目)が見られ、堀は徐々に大きくなっていきます。土塁が90度折れた50m程度先でやや高さのある櫓台のようになり途切れます。土塁内側の曲輪は広さを感じます。
全体的に、神社裏は密集した竹林となっており、肉眼では見通せますが、写真では単なる竹林にしか見えません。
久留里城から車で10分程度で、遺構もそこそこ残っており、高低差も少く、薮もそれほど気にならないお城です。
探検好きな方にはオススメです。
9月15日追記
戸崎城について、君津市生涯学習のサイトで「小櫃学」のページに詳しく解説がありました。土塁突き当たりの櫓台と推測したものは、虎口の片側で防衛的なものとのことでした。また、入口の枡形虎口のように見えたものも虎口ではなさそうでした。
まだまだ修行が足りません。
2023年09月04日 あんどー主計頭
久留里城
地震と台風の影響により、天守閣への道が閉鎖されておりました。天守は遠くから眺めました。来年までに直すとのことですので、再度来城を目指します!
二の丸跡にある資料館で縄文時代から近代までの展示がしっかりされてます。全面撮影禁止は残念ですが仕方ありません。
断崖絶壁の二の丸跡から眺める三の丸跡など麓は絶景です…(落ちたら助からん)
2023年05月22日 播磨守狂鬼人間
久留里城
この前の地震で瓦が滑り危険で天守付近立ち入り禁止です。
2023年04月14日 マタローちゃん修理大夫
久留里城
国道410号から脇道に入ると案内板がある。狭い道だがそのまま登って行くと短いトンネルがあり、そこを抜けると直ぐ左側にとても広い駐車場がある。一般の人はここに車を停めるのだが、お年寄りや身体の不自由な方は上まで車で行けるとの事。ここから天守までは徒歩で600m以上あるが、スロープとなっているので、疲労は階段より少ないかと。途中から三の丸を見下ろす事が出来て、この城の巨大さが解る。本丸には模擬天守があり、中はコンクリートの展望台となっており無料。真ん中に階段があって少し殺風景な感じは北海道の松前城に似ている。天守の脇には元の天守台が残っている。見応え十分の城と言える。
2023年02月12日 ruiw0302
久留里城
駐車場は充分で余裕があり苦労はしなかった。駐車場から本丸まではかなりの急坂で、高低差は90mあり本丸までの距離は650mだった。道は舗装されていたけど、大雨の日には足元のケアには気をつけないと難儀するかも…。二の丸までつけば眺望もよく里見家の有りし日々を堪能できること間違いない。
2022年12月29日 イワノフ
久留里城
年末で二の丸の資料館は閉館してました(泣)いい天気でした。
2022年10月25日 RED副将軍
久留里城
里見氏の本拠地であり、真里谷武田氏や北条氏との激戦の城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳ですが、享徳年間(1452年〜1455年)に真里谷武田氏により真里谷城の支城として築かれたと云われます。
1550年頃、真里谷武田氏は内紛により弱体化し里見氏の侵攻により落城。里見氏の支配となり北進の前線基地として機能しました。
里見義尭は久留里城を本格的に改修し居城とします。
その後は、小田原北条氏の侵攻を幾度と受け1564年に北条氏康によって落城しました。しかし、1567年には北条氏を敗り、里見氏は久留里城を奪還。但し、軍記物の記録であり真実は定かではありませんが激しい争奪戦があったことは事実の様です。
1578年に当主の里見義弘が急死すると、長男で岡本城の里見義頼と次男の梅王丸との間で家督争いが勃発。
1580年に里見義頼は久留里城を攻略し、千本城で籠城する梅王丸を滅ぼしました。
以後は、里見氏は岡本城へ本拠地を移し、久留里城には城代として山本越前守が入城しました。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐において里見氏は豊臣方に付きましたが、小田原参陣の遅れや軍律違反などの理由をつけられて上総国の所領は没収。
関東に入部した徳川家康の所領となり、家康家臣の榊原康政の子である大須賀忠政を入部させました。
その後、土屋氏が入封し、一時は幕府直轄地にもなりましたが、1742年に黒田直純が入封し、明治に至りました。
見所
ここも山城好きならば登城は必須の名城と思います。
やはり一番の見所は南東の尾根筋でしょうか。
一般の観光客は模擬天守と資料館だけをみて降りる方が大半ですが、その先にはとんでもない城郭遺構が点在します。
垂直に掘削した大規模な岩盤堀切が連続します。深さは10m近くあり、垂直どころかオーバーハングしているのもあります。
大堀切と二重堀切の先の城域南端には切り通しの竪堀状通路が残っており、なかなかの残存度です。斜度があり足場も悪いので中に入るのならば注意が必要です。私も滑り落ちました💦
また、雨城とも呼ばれるだけあって水源が豊かな山城で、お玉ヶ池や男池、女池など現在でも水を湛えた井戸が点在しています。
ヤマビルが多い湿地帯なので冬期の訪城が必至です。
2022年08月13日 はやとのかぜ
久留里城
JR東日本の休日切符を利用して、久留里駅から登城。久留里駅までは、1時間に一本走っています。途中、湧水を汲める場所があるので、夏場は水筒か空ペットボトルがあると良いです。資料館は休みでした。ちょっとした山登り、途中トンネルもあります。
2022年04月29日 坂東のダイ
久留里城
古久留里城について 久留里城からの尾根伝いは危険 神明社から主郭までは不明瞭で迷います 真勝寺から段郭を上がるのがベストです 段郭上部からヤブになりヒルがいるので注意です 二重堀切まで見たら引き返すのが無難です
2021年06月12日 ぬっぴー上総介
久留里城
したの駐車場から、25分ぐらいかかります。虫除けは必須です。毛虫もいます。でも、眺めはいいです。
2021年05月05日 織田上総介晃司
久留里城
君津市森林体験交流センターに駐車場があります。
自然歩道は一昨年来の台風や大雨により通行止めとなってます(2021/5/1現在)
よって舗装道のみの登城となりますが、結構急な勾配となってます。舗装だからといってナメるべからず。
久留里城に行くなら虫よけスプレーは必須アイテム。吸血鬼の宝庫となってます。
模擬天守までなら蚊や蜂にのみ気をつければいいですが、天守奥の堀切を見るならヤマビルにも気をつけてください。
事実、今回2匹のヤマビルに献血されそうになりました。献血は赤十字の献血だけで十分です。
2021年04月11日 国府左京大夫城介
大戸城[久留里城 周辺城郭]
千本城の南東にある支城
【歴史】
築城年代は不明。
築城者は、伝承では里見義実となっているが、真里谷武田氏が築城したと考えれている
天文の内訌で安房を追われてた里見義豊が、真里谷信清から滞在先として与えられているが、翌年犬掛の戦いで大半を喫し、戦死(自害)している。その後、久留里城が里見氏の勢力圏に入っていることから、大戸城も里見氏の支配下になっている。小田原征伐後に廃城となった。
【遺構】
千本城の南東1.2kmにあり、小櫃川の断崖に接する比高30mほどの台地にある。
かつては三方を河川に囲まれた天然の要害であったが、現在は河川改修されている。
城内は、複数の曲輪で構成されているようではあるが、近年の自然災害の影響で倒木が多く、北側の遺構の確認はできなかった。登城口から登っていくと祠があり、その背後に岩盤を掘削した深さ10mほどの堀切がある。その堀切を登ったところが主郭となっており、西側には腰曲輪や竪堀がある。小櫃川に面した東側完全な断崖になっている。
【感想】
房総の城に多く見られる近年の自然災害の影響が色濃く残っており、全てを見ることは不可能なお城です。
登城口は南側にあり、登城して直ぐの所にある堀切は、やはり房総の城の特徴である岩盤を掘削して造られたものでした。この堀切を直登しないと、主郭に入れないので、軍手等が必要です。主郭は完全に倒木と藪に支配され、遺構が分かりにくい状態になっていますが、腰曲輪や台地下まで伸びている竪堀を確認することが出来ます。
また、ネットの情報によると、猪が生息しているようなので、登城する際は気を付けてください。
【アクセス】
久留里線・上総松岡駅から徒歩で20~30分。ただし、徒歩の場合、国道410号(新道)のトンネル内を歩く時は注意してください。歩道がない上、ヘッドライトを点けずに走ってくる車もいますので気を付けてください。
【写真】
1:南側からの遠景
2:登城口
3:堀切
4:主郭
5:竪堀
6:腰曲輪
2021年04月04日 寺左京大夫にゃん
久留里城
舗装された道を登ってアクセスできますが、勾配はかなりあります。資料館(無料)の傍に、画像の新井白石像がおわします。
2021年03月12日 衛英下総守
久留里城
車で行ったが、駐車場までの道が思ったより狭かった。城はいい感じの山城で、資料館の裏に新井白石の銅像があった。
2020年12月01日 愛甲太閤【相模の狂人】
堀切[久留里城 遺構・復元物]
本丸から東に伸びる尾根上、最初の堀切から尾根北側のトレイルを歩いてゆくと右上に現れます。少し奥まっていますが右側の尾根を見ながら進んでいけば見落とすことはありません。
そびえ立つ岩盤の尾根を鋭く切り裂いていて、本丸側は完全な垂壁です。大きな木が何本も生えているところが温暖な房総らしいと言えるでしょうか。模擬天守あたりの風景をイメージしていると、これが同じ久留里城かと思うようなワイルドな光景が広がります。
ここまではハイキング気分で入れます。暖候期には虫除けスプレーをお忘れなく。
2020年11月29日 愛甲太閤【相模の狂人】
竪堀状通路[久留里城 遺構・復元物]
本丸から東の尾根沿いに進むと、最末端に二重堀切があります。そこからさらに降りてゆくと切通状の通路、さらに竪堀状に降りてゆく通路が続きますが、この通路が見事です。
傾斜は急ながら、明治時代にでも掘削された切り通しの道を思わせるような、崖に挟まれた道が30mほど、ほぼ一直線に続きます。崖にびっしり生えた苔もまた、古道のような雰囲気をもたらしています。
本丸からはもちろん2本の堀切からも相当距離があり、かつ度重なる災害で二重堀切までの通路が崩落していて、踏み跡の不明瞭な堀切を降りる場所があります。山慣れた人向けです。
2020年11月19日 てんてん♪下総守
久留里城
夏訪れた時同様駐車場奥の登城口にはロープが張られ閉されたままでした。まだ昨年の台風による倒木や土砂崩れなどの爪跡が残っているようです。仕方なく今回も舗装された坂道を登りました。
でも、二ノ丸から本丸へ続く通路には重機が入り整備中でしたし、火薬庫への尾根道方向を見上げると作業されている方がいらしたので、再び開放される日は近いのかもしれません。(この日は資料館がお休みでお話を伺うことができなかったので未確認ですが…)
急坂を登ると、本丸・二ノ丸を中心に小さな曲輪が点々としています。どこもかしこも堅固な守り。本丸に付設された弥陀曲輪下の切岸は、際に立ち覗きこむと崖下に吸い込まれそうな感覚に陥ります。見学者にはワクワクが止まりませんが、別名「雨城」というこの城。攻め手は濡れた岩盤と滑る粘土質の土に頭をかかえ、守り手も足場の確保に苦労したことでしょう。
そして、本丸から怒田方面へ人一人歩くのがやっとの細い道を進むと現れるのが見事な断面の岩盤堀切♪これは圧巻です♪♪とにかく感動します‼︎
ですが、ここにいたるまで距離は短いものの片側はほぼ垂直な崖です。今の時期は落ち葉で足元が滑りやすく、雨が多い時期はもっと危険なのでトレッキングシューズがマストだと思います。
今回はここまででしたが、尾根の先にはまだまだ見どころが盛り沢山とのこと。未踏の上ノ城と合わせてしばらく通いつめることになりそうです♪
2020年11月16日 ともっち♪河内守
森の里[久留里城 関連施設]
2020/11現在
久留里城 御城印販売してます♪
建物内にトイレもあります
2020年09月21日 ハム子勘解由次官
久留里城
・城へ向かう途中、一本道ですが車一台分の幅しかないですが一方通行ではありません。
しかも対向車が来ても寄せるスペースが無いです。見晴らしも悪いため運頼みです。
・身障者がいる場合、現在の資料館である二の丸まで車で上がれます。非常に長い急な坂が続きます。車椅子など身障者の方は二の丸まで行くことをおすすめします。
・資料館に車椅子トイレは有りますが、
階段しかないため二階には上がれません。ですが一階にも展示が少しあります。
・二の丸から本丸までの一本道はそもそも狭く両側崖です。
一部が崩れていて、ロープが張り巡らされていますが通行可能です。
2020年09月05日 左近衛中将 しげ
久留里城
本丸、二の丸は結構な山の上です。三の丸は現在は水田となって、ほぼ遺構は破壊されているらしいですね…
2020年08月14日 mtmt
久留里城
高低差がかなりきつい坂を登りなんとか到着しました。いい運動の良いお城です。
2020年07月10日 昌幸近江守晩秋リア旅
上ノ城[久留里城 周辺城郭]
古久留里城ともいう。
上総武田氏の祖、武田信長の築城とされる。
武田氏が弱体化すると里見氏の統治するところとなり、城は改修され現在の場所へ移動。
尾根続きだった古城は、その後砦としての役割を担ったのではないか。
【写真の紹介】
①神明神社の上にある土塁に囲まれた曲輪。
城内の一番低い位置にあり、武者溜まり
だったのではないか。
②武者溜まりを登った先にある堀切。
③千葉の山城感満載の細尾根。
歩いていると、多くの削平地が見られる。
(かなりの広さを有するものもあり)
堀切は高低差があり、降りられる所を探す
のに一苦労だった。
2020年01月19日 愛甲太閤【相模の狂人】
上ノ城[久留里城 周辺城郭]
華やいだ雰囲気のある久留里城から、北西に伸びる尾根を近世久留里城と反対側に入った小さな山頂部が古久留里城で、現地に残っている案内板には「上ノ城」とありました。主郭部に通じる山道はあるようですが不明瞭で、西側の一部の曲輪には間伐された杉が放置される等して、かなり荒れています。迷いやすい箇所や土の急斜面で手を使うような場所もあります。山慣れた人向けでしょう。
城は真勝寺裏山の数段に広がる曲輪と、山頂周辺に点在しています。山頂周辺の空堀、土塁、虎口などはかなり巨大なものもあって驚かされます。
2019年12月09日 昌幸近江守晩秋リア旅
久留里城
今秋の台風の影響で、本丸までの登山道と煙硝曲輪方面の山道が閉鎖しています。舗装道にて登城可能です。また断水のため山上のトイレが使用できません。麓の駐車場が唯一使用可能です。
千葉県屈指の山城、I日も早い復旧を願っています。
2019年09月29日 雑賀
久留里城
令和1年9月の台風15号による影響で現在(9月末)、模擬天守・資料館とも閉館しております。
久留里街道から入り民家を抜ける城址への細い道は使えるので、駐車場までは行ける状態になっておりました。
こちらを始め近隣の城址はもちろん、県全体の被害の早期の復旧を祈っております。
2019年05月02日 勝呂真勝中務丞の三男
久留里城
真里谷武田氏の久留里古城。上之城。ここを無血開城した勝呂真勝が開基した真勝寺にも足を運び久留里を満喫。城攻め初心者なのに無理をしました。見逃した堀切や曲輪がたくさんあると思います。土の橋があるとのことでしたがよく分からなかった。資料館で縄張り図をもらい途中途中消えかけている山路を探しながらの城攻め。ヤマビルやマダニがいましたので行かれる方はご注意を。
2018年02月21日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
久留里城
平頼胤の伝説
久留里城の最初の築城主は平将門三男、平頼胤であるという伝説があるが、将門の子に頼胤なる人物はいない。頼胤という名を聞いた時、真っ先に思い浮かぶのは千葉氏であろう。「胤」の字は常胤よりの千葉氏の通字であり、常胤の五代後の千葉介が千葉頼胤である。何か関係があるのではないだろうか?
久留里城の東に久留里神社がある。治安元年(1021)の創建で由緒によれば、千葉氏の遠祖平忠常が浦田妙見堂として勧請したのが始まりとされている。「久留里記」には平将門の天女伝説が描かれているそうで、平将門は天女を妻とし、長男千葉、次男相馬、三男東少輔が生まれるが、天女は天に帰り、妻を偲んだ将門が建てたのが久留里神社であるとされている。後に三男東少輔頼胤が参詣すると「城は浦田山に築き、久しくこの里に留まるべし」との御託宣があり、久留里城(浦田城)を築城したという。天女伝説は忠常の子常将のものと同じであり、千葉、相馬、東は千葉六党である。さらに東氏の初代の名は胤頼という。
恐らくは、東氏の関係者が武田氏以前に居館等を設けたのが、こうした伝説として語り継がれたのではないか?
2018年02月21日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
久留里城
久留里の寺社仏閣
久留里城があまりにもよく整備されていた為、城の写真のみで投稿上限に達してしまったが、久留里城周辺にも歴代城主に関わる寺社仏閣がある。久留里神社は治安元年(1021)、平忠常が浦田妙見堂として勧請したのが始まりとされ、源頼朝も戦勝祈願に訪れたという。以降、武田氏・里見氏・大須賀氏・土屋氏・酒井氏・黒田氏と歴代城主が崇敬してきた。眞勝寺は武田(勝)真勝が開基で、黒田直養の墓がある。正源寺は里見義堯の母の菩提寺である。円覚寺は土屋忠直開基の寺、円如寺は黒田氏の祈願所である。
2018年02月21日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
久留里城
上ノ城と久留里城
上ノ城は武田氏時代のもので、里見氏時代には既に破棄されたとの考えが従来言われて来たものだが、近年では里見氏時代も上ノ城は使われていたとする考えもある。「房総の城郭」において、松本勝氏は眞勝寺の存在、また、現在久留里城とされている部分のみが近世も再整備され使われたことが従来の考えを生んだものと考えている。大多喜城と栗山の関係に通ずるものがある。
確かに、3郭の土塁や南側の堀切などは戦国時代前半のものと言われると違和感がある。だが、北側眞勝寺付近の棚田状の曲輪は明らかに古い山城のものである。ここから考えるに、元々の上ノ城は眞勝寺から斜面上に広がって行き、詰城が山頂に築かれ、後に里見氏が久留里城築城時に上ノ城の山頂部分のみを再整備して利用していたのだろう。対北条が最も考慮すべき点である里見にとって、北方の警備を固めるのは重要であったであろうから、上ノ城を物見砦として利用したのではないだろうか?
上ノ城も城域であったとすると、久留里城は非常に巨大な城であったことになる。さすが里見の本拠である。
2017年07月20日 カーネル
久留里城
久留里線上総松丘駅から
久留里線が、9時の次が14:30というローカルっぷりなので、駅前から羽田行きのリムジンバスに乗ろうとするが、路線バスじゃないから途中下車はダメだよと断られる。しょうがないので6km先の久留里城まで歩くことに
すでに2時間歩いているし、強風と大雨でくじけそうになるが国道140号を北上ほどなく千本城址の看板があるけど、見なかったことにして北上し続ける。国道140号は胃袋のような形をしてて遠回りなので、細いショートカットする道を進むと、土砂で崩れたたり藪で覆われてたりありましたが、戻りたくない一心で強行突破すると、一つ北の平本駅の手前に出れます。
ここからは、松丘駅周辺になかった歩道があるので助かります。ほどなく正面の山に久留里城がみえ、大きな案内の看板に従って山を登ると、上総松丘駅から1時間半で久留里城。城へは旧道を歩くと、火薬庫、掘跡を抜けて二ノ丸の博物館。男女井戸脇を登ると天守閣。曲輪も多数あり看板がそれぞれ建ってます
同じルートを使う人は、なかなかいないと思いますが、上総松丘駅から久留里城を経由すると久留里駅まで2時間
2017年04月23日 たらちゃんs#s
久留里城
昔、久留里城何回も行った。ここは最高だった。機会があったら、またいきたい。
2017年03月25日
久留里城
久留里城に行って、お城擬きの模擬天守だけではもったいない。ぜひ、武田氏時代の久留里古城も、ご覧ください。山城初心者には、難易度高めですが、巨大な、大堀切に、二重堀切など、一見の価値あり。夏場、雨天時は、オススメできませんが。
2016年10月01日 綱島出雲守八雲
久留里城
滝沢馬琴 著「南総里見八犬伝」の里見氏の居城であるが、物語の発祥は久留里城ではなくもう少し南にある滝田城です。残念なことにこの「城めぐり」には登場していない。道の駅「三芳村」の北に数キロ滝田郵便局そばに入口の看板が有り今も山城の遺構を残している。
久留里城模擬天守閣内は土足厳禁。備品のスリッパに履き替えが必要です。登山靴での登城は面倒くさいです。
2016年09月03日
久留里城
アプリを始める前に、車で行きましたが、今回は電車で行きました。木更津駅から、久留里線に乗るのですが、6時から22時までの間、一時間に一本あるのですが、何故か10時代はありませんでした。
ちょうど10時代に着いたので、木更津観光案内所で、君津市のパンフレットを頂き、久留里城の行き方の説明を聞きました。久留里駅周辺には、すぐわかるところには、観光案内所はなく、木更津の観光案内所の方の話では、現在は、久留里城の資料館みたいな所が観光案内所になっているようです。
久留里駅から、久留里城へは、東南約2キロとの案内があり、少し歩くと、車で5分、徒歩30分という看板があります。
駅で待っているタクシーはなく、呼ぶ形をとる、電話番号がありました。久留里の城下町は、水が綺麗なことでも有名で、井戸を見ながら散策できます。久留里城近くには、駐車場もあり、そこから、復興天守まで歩く間に、お玉が池や、新井白石之像等があります。久留里城は、戦国時代の山城で、本丸に二重櫓、二の丸に長屋塀、ふもとの三の丸に御館を配置していたそうです。
2016年01月17日 藤井伊賀守
久留里城
みんな模擬天守を見てお城に来たーと帰ってしまうようですが、尾根続きにこそ、遺構がのこっています。目を見張るような、大堀切がたくさんあります。見ないと損。
2015年07月19日 永眠武蔵守釋 葱進
久留里城
久留里駅からは案内板が至るところにあり、よほどのことがない限り迷うことはないでしょう。高速バスなら「久留里城三の丸跡」が最寄りです。
駐車場から二の丸までは急坂を上ります。どれだけ急かは、入口に杖が用意されていることでお察し下さい。ルートはアスファルトで舗装された道路と山道の二ルート、後者は火薬庫跡・堀切・薬師曲輪経由で二の丸跡にある資料館(無料、基本的に月曜休み)に着きます。資料館からさらに上ると本丸跡、現在は天守台跡および模擬天守があります。
2013年03月02日 ぽ修理大夫
久留里城
誰でも二の丸まで車で行けるようにして欲しい。雨の日は攻略大変だよ。足の早い人でも駐車場から天守閣の往復で25分はかかります。
2012年12月23日 はやえもん壱岐守行動休息中
久留里城
久留里駅から歩いて約25分久留里城資料館と書いてあり途中急な坂があり歩く幅も厳しいです資料館は休日は月曜日休館ですが祝日で月曜日の時は火曜日が休館になります入場は無料です今日は晴れてはいませんが天候はが降っていないので良かったです
2012年05月12日 ぎっちゃん
久留里城
天守(模擬ですが)と中世遺構の両方が楽しめます。資料館の方も親切でした(^o^)
2010年12月05日 中務大輔平八郎
久留里城
模擬天守が目立っていますが、実は尾根に残る堀切が素晴らしい城です
2010年08月10日 会津武士白虎隊
久留里城
何年か前に、行って来ました。別名が雨城、行ったらその気持ちが わかりました。皆さんも行きましょう。
久留里城の周辺観光情報
「郷土を掘る」「城と武士」「信仰と文化」の3部構成で市内の出土物や武士の使用した刀剣、鉄砲、調度品、絵馬、神楽道具など様々な展示と解説を行っているほか、君津発祥の上総掘り用具も展示されています。
詳細はこちら
きみつふるさと物産館では地元農家の旬のとれたて農産物や、お酒、加工品、お土産に工芸品、衣類染物の販売の他、喫茶・お食事処をご利用できます。
情報提供:君津市経済部観光課
詳細はこちら
久留里城の周辺スポット情報
鶴の曲輪(遺構・復元物)
久留里曲輪(遺構・復元物)
お玉が池(遺構・復元物)
波多野曲輪(遺構・復元物)
土塀跡(遺構・復元物)
弥陀曲輪(遺構・復元物)
天守台跡(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
竪堀状通路(遺構・復元物)
二重堀切(遺構・復元物)
火薬庫跡(遺構・復元物)
久留里城再建記念碑(碑・説明板)
丹生廟遺跡(碑・説明板)
上ノ城(周辺城郭)
大戸城(周辺城郭)
戸崎城(周辺城郭)
城山神明社(寺社・史跡)
久留里神社(寺社・史跡)
君津市久留里観光交流センター(御城印)
資料館脇トイレ(トイレ)
もりのさと(トイレ)
トイレ(トイレ)
もりのさと(駐車場)
駐車場(駐車場)
森の里(関連施設)
戸崎城上り口(その他)