土気城(とけじょう)
土気城の基本情報
通称・別名
- 金城、貴船城
所在地
- 千葉県千葉市緑区土気町826
旧国名
- 上総国
分類・構造
- 連郭式平山城
天守構造
- -
築城主
- 大野東人?
築城年
- 神亀年間(724〜729)?
主な改修者
- 酒井氏
主な城主
- 大野氏、千葉氏、土気氏、畠山氏、酒井氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)、竪堀、馬出、喰違虎口、住居跡
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
大椎城(千葉県千葉市)[3.5km]
本納城(千葉県茂原市)[5.3km]
中野城(千葉県千葉市)[6.1km]
東金城(千葉県東金市)[6.5km]
犬成城(千葉県市原市)[10.2km]
西野城(千葉県山武郡)[10.8km]
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御茶屋御殿(千葉県千葉市)[11.7km]
多部田城(千葉県千葉市)[11.8km]
根古屋城(千葉県八街市)[12.2km]
土気城の解説文
[引用元:Wikipedia「土気城」の項目]
土気城(とけじょう)は、千葉県千葉市緑区土気町にあった日本の城。
概要
土気城は神亀年間(724年-729年)に大野東人によって築かれたと伝わるが、後に千葉氏の勢力下に入り長らく千葉氏の武将が拠った。後に中野城主の酒井定隆が攻め、その後150年間酒井氏が本拠とした。
歴史・沿革
神亀年間(724年-729年)に大野東人によって築かれた貴船城が起源とされ、中世土気城の大手口にも貴船神社が祭られていた。
室町時代、土気荘の地頭職を得た千葉氏の勢力圏となり、室町時代には千葉氏の流れを汲む土気氏が当地の地頭職を得て土気城に拠った。
室町時代後期には一時大関城主の畠山重康の勢力下となったが、1487年(長享元年)に原氏と組んだ中野城主酒井定隆に追われ、翌1488年(長享2年)に酒井氏が移り、以降酒井氏が滅びるまでの100年強同氏の一族が拠った。後定隆は三男隆敏と共に土気から東金に移り、隆敏は東金酒井氏の祖となった。
1564年(永禄7年)、第二次国府台合戦で土気酒井氏は里見氏に組し、里見氏の敗退後北条氏に組した東金酒井氏を含む北条勢に攻められた。この際、搦め手のクラン坂方面から北条勢が攻め寄せたとされるが、酒井胤治が良く守りこれを撃退した。
その後、土気酒井氏も北条氏に降り、1590年(天正18年)の小田原征伐では酒井氏は北条方として小田原城に篭城した。この役で北条氏が滅ぶと、酒井氏も運命を共にし、土気城も豊臣方に接収され廃城となった。
構造
土気城は東に向けて突き出した舌状台地上に占地し、台地上に切れ込んだ谷と空堀を利用して台地上を遮断し、城域は三角形状を有する。
城域内は本丸・二の丸・三の丸及び出丸に区分されており、それぞれを空堀が遮断するが、特に二の丸と三の丸の間の空堀は二重になっている。出丸は、三の丸の端に位置する貴船神社が鎮座した郭と、井戸沢の向かいの尾根上に築かれた水沢郭の二つがあり、三の丸端の郭は馬出様となっている。
前述馬出状の出丸から三の丸二の丸を経る経路が大手道となるが、本丸から直接金谷方面に下りる経路が搦め手にあたり、比高差のあるこちらの経路には空堀を兼ねたクラン坂と呼ばれる切通しが設けられている。
考古資料
遺構
二の丸及び出丸は開発され旧状を一部失っているが、それ以外の郭は良く残り、土塁および空堀が現存する。また、1564年(永禄7年)の第二次国府台合戦の激戦地となった、クラン坂と呼ばれる本丸・二の丸へ繋がる切通しが残る。
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土気城の口コミ情報
2023年04月09日 マタローちゃん大宰少弐
土気城
ナビを便りに狭い農道を進むと、突然左側に案内看板と祠が出現。さらに奥へ進むと「土気城趾ひまわりの郷」という老人ホームが現れた。城はこの敷地内である。その脇に柵があり主郭部分はその奥らしい。許可を得れば見学出来るらしいが、今回は早朝なので遠慮した。
2023年01月29日 国府左京大夫城介
大網城[土気城 周辺城郭]
土気酒井氏の重臣板倉氏の居城
【歴史】
築城者、築城年代共に不明。
土気酒井氏の重臣である板倉氏の居城と言われている。
この板倉氏で著名な人物として、大網の長峯(大網城から北に1km程の所)という場所に屋敷を構えた板倉長門守や、本納城城代板倉右衛門がいる。
【遺構】
土気城の東に約2.6kmに位置する要害山と呼ばれる丘陵(標高40m)に築かれている。
南北に細長い尾根に堀切を設けて、いくつかの曲輪があり、その切岸はほぼ垂直となっている。一番南にあるⅠ郭が大きく櫓台らしき高まりもある。また、城の東側には居館跡らしき周囲より高い平場がある。
なお、大網高校がある北側の丘陵は、現在東金線により断たれているが、城域であった。
【感想】
土気城の東を守る拠点であるため、大網白里市を一望できます。また、往時は敵対していた東金酒井氏の本拠である東金方面も視認できたと思われます。城自体はそこまで大きくありませんが、曲輪は垂直切岸と岩盤を削った堀切で守られており、少数の兵でもある程度は守れる造りとなっています。
城内は遊歩道らしき場所は藪はないのですが、それ以外の場所は藪が凄く、遺構を確認しずらい箇所が多いです。
現代でも、この城はある意味アクセスが難しい城です。登城口自体は2か所あり、それぞれ城内にある日吉神社と浅間神社の参道となっています。しかし、その登城口が中々の曲者で、日吉神社は旧大網小学校の校庭に、浅間神社は個人宅っぽい場所を通っていくことになります。特に、浅間神社ルートは知らなければ、絶対に入ることができないです。日吉神社も今は問題ないですが、小学校が現役の頃はどうしていたのでしょうね
【アクセス】
大網駅から徒歩で10分程。
【写真】
①遠景(右側が大網城)
②旧大網小学校の校庭から
③Ⅱ郭(日吉神社)
④浅間神社
⑤登城道(浅間神社参道)
⑥垂直切岸
⑦堀切(Ⅰ郭北)
2022年10月10日 千葉相模守早雲
土気城
第二次国府台合戦で土気城主酒井氏は北条方の攻撃を退けたようです。
三の丸は現在は畑が広がっています。二の丸と本丸は私有地にあるため、窺い知る事が出来ません。しかし、本丸と二の丸の間、城の搦手に当たるクラン坂は通行可能。その切り通しの深さと長さが、防御力の高さを物語っています。北条方も手を焼いたに違いありません。
全体的に藪とゴミが目立つのが残念です。
ゴミは持ち帰りましょう🙋♂️
1.切り通しの入口付近。
2.左が本丸(実城)側。
3.左右のどちらからも狙い撃ち。
4.所々折れている。
5.折れの先で振り返ると切り通しの高さがよく分かる。
6.右手は金谷曲輪。本丸から段郭のように連なる。
7.金谷曲輪の先。堀切かな?
8.左手にも曲輪があったと思われるが、相当高い。
2022年05月10日 寺左京大夫にゃん
土気城
土気城址クラン坂。荒れ放題だが通行は可能。
2016年12月10日
土気城
本丸は、施設になっていますが、断りを入れれば、入れます。
2016年08月19日 雑賀
土気城
本丸は施設の中になっており、残念ながら見ることは出来ませんが
空堀や土塁、曲輪は点在しております.
ただ先の口コミの通り、藪に覆われ見通しは今ひとつ…ながら、切通しには驚かされます.
本丸・二の丸に続くクラン坂と呼ばれる搦め手になるこの切通し.第二次国府台合戦の際、攻めあがる北条軍を酒井氏が撃退したという話も納得できます.
くねくねと続く切り通しを抜けると…JRの線路の上に!甲冑を付けていた気持ちが一気に 21世紀に引き戻されました.
駐車場はありませんが、城址看板から更に進むと1台分ほどの空き地はあります.
2016年08月11日
土気城
城跡説明板がある三の丸跡の畑奥に、土塁と、土橋、空堀が残ります。
馬出跡の奥にも、空堀や土塁がのこっています。
2016年05月03日 みぃ釆女佑
土気城
見事な切通は一見の価値あり
2016年05月03日 みぃ釆女佑
土気城
見事な切通は一見の価値あり
2016年01月17日 藤井伊賀守
土気城
せっかくの良好な遺構が、ガサ薮で台なし・・・。千葉市よ、もう少し整備してくれませんかね?