土気城(とけじょう)
土気城の基本情報
通称・別名
- 金城、貴船城
所在地
- 千葉県千葉市緑区土気町826
旧国名
- 上総国
分類・構造
- 連郭式平山城
天守構造
- -
築城主
- 大野東人?
築城年
- 神亀年間(724〜729)?
主な改修者
- 酒井氏
主な城主
- 大野氏、千葉氏、土気氏、畠山氏、酒井氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)、竪堀、馬出、喰違虎口、住居跡
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
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土気城の解説文
[引用元:Wikipedia「土気城」の項目]土気城(とけじょう)は日本の城。所在地は千葉県千葉市緑区土気町。
【概要】
土気城は神亀年間に大野東人によって築かれたと伝わるが、後に千葉氏の勢力下に入り長らく千葉氏の武将が拠った。後に中野城主の酒井定隆が攻め、その後150年間酒井氏が本拠とした。
【歴史・沿革】
土気城は神亀年間に大野東人によって築かれた貴船城が起源とされ、中世土気城の大手口にも貴船神社が祭られていた。
室町時代、土気荘の地頭職を得た千葉氏の勢力圏となり、室町時代には千葉氏の流れを汲む土気氏が当地の地頭職を得て土気城によった。
室町時代後期には一時大関城主の畠山重康の勢力下となったが、長享元年原氏と組んだ中野城主酒井定隆に追われ、翌長享2年酒井氏が移り、以降酒井氏が滅びるまでの100年強同氏の一族が拠った。後に定隆は三男隆敏と共に土気から東金に移り、隆敏は東金酒井 氏の祖となった。
永禄7年、第二次国府台合戦で土気酒井氏は里見氏に組し、里見氏の敗退後北条氏に組した東金酒井氏を含む北条勢に攻められた。この際、搦め手のクラン坂方面から北条勢が攻め寄せたとされるが、酒井胤治が良く守りこれを撃退した。
その後、土気酒井氏も北条氏に降り、天正18年の小田原征伐では酒井氏は北条方として小田原城に篭城した。この役で北条氏が滅ぶと、酒井氏も運命を共にし、土気城も豊臣方に接収され廃城となった。
【構造】
土気城は東に向けて突き出した舌状台地上に占地し、台地上に切れ込んだ谷と空堀を利用して台地上を遮断し、城域は三角形状を有する。
城域内は本丸・二の丸・三の丸及び出丸に区分されており、それぞれを空堀が遮断するが、特に二の丸と三の丸の間の空堀は二重になっている。出丸は、三の丸の端に位置する貴船神社が鎮座した郭と、井戸沢の向かいの尾根上に築かれた水沢郭の二つがあり、三の丸端の郭は馬出様となっている。
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土気城の口コミ情報
2016年12月10日 立花飛騨守
土気城
本丸は、施設になっていますが、断りを入れれば、入れます。
2016年08月19日 雑賀
土気城
本丸は施設の中になっており、残念ながら見ることは出来ませんが
空堀や土塁、曲輪は点在しております.
ただ先の口コミの通り、藪に覆われ見通しは今ひとつ…ながら、切通しには驚かされます.
本丸・二の丸に続くクラン坂と呼ばれる搦め手になるこの切通し.第二次国府台合戦の際、攻めあがる北条軍を酒井氏が撃退したという話も納得できます.
くねくねと続く切り通しを抜けると…JRの線路の上に!甲冑を付けていた気持ちが一気に 21世紀に引き戻されました.
駐車場はありませんが、城址看板から更に進むと1台分ほどの空き地はあります.
2016年08月11日 立花飛騨守
土気城
城跡説明板がある三の丸跡の畑奥に、土塁と、土橋、空堀が残ります。
馬出跡の奥にも、空堀や土塁がのこっています。
2016年05月03日 みぃ釆女佑
土気城
見事な切通は一見の価値あり
2016年05月03日 みぃ釆女佑
土気城
見事な切通は一見の価値あり
2016年01月17日 藤井伊賀守
土気城
せっかくの良好な遺構が、ガサ薮で台なし・・・。千葉市よ、もう少し整備してくれませんかね?