高品城(たかしなじょう)

高品城の基本情報

通称・別名

高篠城

所在地

千葉県千葉市若葉区高品町469-1他

旧国名

下総国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

馬加千葉氏

築城年

15世紀中期

主な改修者

主な城主

馬加千葉氏

廃城年

遺構

土塁、堀切、横堀(空堀)、切通し

指定文化財

再建造物

周辺の城

千葉城(千葉県千葉市)[2.3km]
小中台城(千葉県千葉市)[4.5km]
木出城(千葉県四街道市)[6.0km]
多部田城(千葉県千葉市)[6.1km]
曾我野陣屋(千葉県千葉市)[6.3km]
生実城(千葉県千葉市)[6.5km]
御茶屋御殿(千葉県千葉市)[7.4km]
有吉城(千葉県千葉市)[8.1km]
馬加城(千葉県千葉市)[8.5km]
実籾城(千葉県習志野市)[8.8km]

高品城の解説文



高品城(たかしなじょう)は、現在の千葉県千葉市若葉区高品町にあった日本の城。

歴史・沿革 

築城時期は不明であるが、千葉の中心部から本佐倉城に続く北年貢道と呼ばれる古道沿いに位置し、後期千葉氏の拠点を守る最前線の城として機能していたと考えられる。

千葉氏は本佐倉城に移った後も、千葉妙見宮(千葉神社)で元服を行うことを原則としており、千葉昌胤の元服のときには妙見宮に近い「高篠」に立ち寄って、命名のためのくじをひき、装束や隊列を整えたという記録が残っている。「高篠」は高品の旧名である。

このとき、重要な役割を担った安藤豊前守が城主、またはその一族と考えられている。

城跡の西側には、安藤勘解由が開基した等覚寺という寺院がある。本尊である千葉市指定文化財の薬師如来座像には銘文が残り、城主と思われる勘解由以下30人以上の協力によって1571年に作られたものであることがわかる。

遺構 

堀切や空堀、切通し、土塁などが一部に残っている。

アクセス 

  • 京葉道路貝塚インターチェンジより車で5分。
  • JR総武本線東千葉駅より徒歩15分。

高品城の口コミ情報

2022年09月10日 ファン掃部助トム治郎
高品城



千葉駅から歩いて一時間弱。総武本線線路際の丘陵にありました。等覚寺☀️の境内でポチ。近くに佐倉と千葉の寒川港を結ぶ北年貢道という小道がとおり江戸時代に佐倉藩の年貢を江戸に運ぶ経路だったようです。

2022年05月22日 陸奥守新九郎
高品城



現在はマンションが建っています。発掘調査で堀に区画された複数の曲輪が確認されています。千葉氏にとっては重要なお城だったようです。

2021年06月05日 ぬっぴー上総介
高品城

少し小高い場所にあります。
いまは住宅になっていました。
「城」という感じではありませんでした。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
高品城

安藤氏は何処から来たのか?
 高品の安藤氏は原氏の郎党であったとされる。高品城主・千葉中諸社への使者の他にも、原氏の郎党として活動していた事が史料から見受けられる。天正13年(1585) 、千葉介邦胤は自身の重臣である森山衆に朱印状を出した。朱印状には千葉氏末期の家老原若狭守親幹と並んで、安藤備中守の名が記されている。安藤氏は原氏配下の中でも高い地位にいたのだろう。
 そのような地位にいながらも、安藤氏の出自は不明である。その姓と春日神社の存在からおそらくは藤原氏であると考えられる。地域的にみれば、古代に下総に下向したと思われる藤原氏の子孫か、千田藤原氏郎党の末裔であろうと考えられる。しかし調べて見ると、津軽安藤氏と関わりがあるのではないかと思わせる事項があった。
 津軽安藤氏は奥州に一大勢力を築いた安倍氏の出自であったという。「安藤系図」によれば、前九年合戦で討死した安倍貞任の弟、白鳥行任の孫にあたる白鳥和任が、御家の滅亡後に平泉の藤原惟衡の養子となったとされる。和任の子季任は本姓の安倍と藤原姓を合わせて安藤と号し、「安藤太郎」と名乗ったという。これが安藤氏の始まりとされる。
 安藤氏はその後津軽を中心に奥州に勢力を広げる。一方、奥州以外で勢力を持った安藤氏もいたとされている。常陸佐竹氏の家臣に安藤と名乗った一族が居り、津軽安藤氏と同族であると考えられている。「藤崎系図」では、安倍貞任の曾孫高任の代に、藤崎を離れ常陸国白鳥郷(茨城県鉾田市礼)に移住したとされている。この子孫が常陸安藤氏であると考えられる(「藤崎系図」では安倍貞任の子高星を安藤氏の祖としており、「安藤系図」とは異なる。しかしどちらも安倍氏の遺児が安藤氏となった点では共通している)。
 常陸安藤氏は家紋を「丸に上がり藤・丸に下がり藤・丸に木瓜」としていたとされる。これはいずれも本姓を藤原氏とする家が用いた家紋である。
 地縁的な事を考えると、高品の安藤氏はこの常陸安藤氏の一族であったと考えられる。千葉氏は土地柄そして家柄から、常陸平氏の大掾一族と深い関わりを持っていた。千葉常胤の母は鹿島政幹の娘であり、馬加康胤は一時期大掾満幹の養子となっていた。常陸安藤氏の一族がこうした大掾一族と千葉氏の交流の中で千葉氏に臣従し、下総へと移住したのではなかろうか?

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
高品城

 貝塚・高品から萩台までの寺山地域は城跡・館跡とされる物が密集している地域である。自分が確認しただけでも高品城を含めて10もの城跡・館跡がある。その殆どが台地の縁・川沿い・集落傍という下総地域の城の特徴を満たしており、城館があっても不思議ではない。「千学集」によれば、現在の千葉刑務所より東の地域が諸侍の屋敷地であったという。同様の屋敷地や屋敷地の侍達が拠点とする城が寺山地域にあったのかも知れない。
 高品城は千葉荘の北にある舌状台地を利用した城で、東側を川が流れている。川を挟んだ対岸の台地にも浅間城と呼ばれる城があったとされ、川が作った谷津を北に進むと原城・廿五里(つうへいじ)城・北前原城といった城があったとされる。高品城の西の台地には貝塚の集落があり、台地上の西光院周辺にも城があったとされている。
 高品城の城主は安藤氏であったとされる。安藤氏は金剛授寺(千葉神社)において行われていた千葉介後継者の元服式の際に、千葉中諸社への使者を務めていた。金剛授寺の寺侍の一人であったのであろう。高品城の南側には等覚寺があり、元亀2年(1571)に安藤勘解由が千葉寺の権代僧都宥朝を導師に招いて開創したという。安藤氏が戦国後半までこの地にいた事が窺える。
 元々この地を所領としていたのは原氏だった様だ。「香取社造営料足納帳」によると、応永13、14年(1406、1407)に原越前入道なる人物の所領として「高篠」の名がみえる。原氏は千葉常胤の曾祖父平常長の四男である常宗が、香取郡千田庄原郷を領した事に始まる古い一族である。常胤の10代後の千葉介氏胤の四男とされる孫次郎胤高が宗家の名跡を継ぎ、後の千葉氏重臣原氏へと続いた。原越前入道は胤高と同時代の人物で、胤高が名跡を継ぐより前の原氏の一族であったと見られている。原越前入道の所領は、信仰していた中山法華寺近くの小栗原・高石神と、原宗家の所領に近い長峯・高篠であった。原越前守家は後々原宗家の被官となるのだが、原越前入道の時代には既に原胤高と親密な関係を持っていたと見られている。胤高より2代後の原胤房が宗家一族の馬加康胤とともに千葉宗家を滅ぼす事になる。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
西光院・貝塚城[高品城  周辺城郭]

 高品城の東にある台地上に西光院という寺がある。ここにはかつて貝塚城という城があったとされる。千葉の町を見渡せる場所にあり、高品城と同じ様な役割を果たしていたと考えられる。貝塚城も西光院も仔細不明ではあるが、貝塚城の成立は平安・鎌倉期に遡ると考えられており、西光院の境内には永正八年(1511)と刻まれた板碑があった事から、長い期間に渡り利用されていた事が考えられる。
 貝塚城が誰によって築かれたのかも、歴代の城主も不明だが、室町・戦国期に限って言えば、城主ではないかと考えられる氏族はいる。本庄氏である。本庄氏は千葉常胤の6男東胤頼の孫胤方より始まる千葉氏系海上氏の一族である。武家ではなく寺社に仕える江戸時代で言う「寺侍」の筆頭であったようで、金剛授寺(現在の千葉神社)の住持に仕えていた。
 千葉介後継者の元服式の折には本庄氏が金剛授寺住持の御使として、高品城に入る前に後継者一行を出迎えた。高品城に入ると事前に決めた諱の候補を受け取って金剛授寺へと運び、神事によって決められた諱を高品城の一行に伝えるという重役を担っていた。また天文19年(1550)に執り行われた金剛授寺の遷宮式の際には千葉親胤が寄進した神馬を受け取る役割を果たした。
 どうやら、千葉氏が佐倉に拠点を移した後、千葉の差配は金剛授寺が担っていた様だ。安藤氏や本庄氏、その他金親氏や小河氏といった寺侍達は、金剛授寺のもとで日々の神事仏事の補佐をしながら、有事の際には千葉を守る兵士として働いていたのであろう。永正13年(1516)には上総国真名城主三上但馬守が千葉を攻めており、金剛授寺住持・範覺が兵を率いて戦ったという。亥鼻城をはじめとする千葉一帯の城は、この時も利用されていたのかも知れない。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
等覚寺[高品城  寺社・史跡]

 元亀2年(1571)に安藤勘解由が千葉寺の権代僧都宥朝を導師に招いて開創したという。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
春日神社[高品城  寺社・史跡]

 創建不詳。元々現在地より東側の字宮ノ腰にあったという。明治43年(1910)に宮ノ腰から字山中にある高峯神社の境内に移転し、村社春日神社と改称した。高品城の鬼門を守っていたと考えられる。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
浅間城[高品城  周辺城郭]

 東寺山排水路の流れる谷津沿いにある。高品城の対岸にあり、安藤氏などの千葉・原氏重臣、もしくは寺山氏の城であったと思われる。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
原城[高品城  周辺城郭]

 東寺山排水路の流れる谷津沿いにある。正確な位置は不明だが、正福寺の辺りにあったのではないかと考えられる。「千葉実録」には、寛正年間(1460~1466)に原胤親の子原光胤が下総国原村に移住したとあり、大野に移る前の原光胤が居城にしていた可能性が考えられる。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
廿五里城[高品城  周辺城郭]

 東寺山排水路の流れる谷津沿いにある。「つうへいじ」と読む。現在は殿山ガーデンと呼ばれる施設が置かれており、遺構はほぼ見られない。建武元年(1334)の板碑が見つかっており、この頃には武家が居住していたと考えられる。永禄3年(1560)、千葉胤富が「寺山城」の大須賀薩摩丸に出陣を要請しており、この「寺山城」が廿五里城ではないかとみられている。また永禄8年(1565)に木内胤統が「寺山城」に移ったともある。大須賀氏は千葉六党、木内氏は千葉氏家老である事から、重臣が利用する拠点であった事が考えられる。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
北前原城[高品城  周辺城郭]

 東寺山排水路の流れる谷津沿いにあったとされるが位置は不明。かつてはこの地域まで川が流れていたと考えられる。みつわ台団地の造成で城跡どころか土地の形も大きく変わってしまっている。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
殿台城[高品城  周辺城郭]

 葭川沿いの館跡の一つ。萩台館の対岸にある。萬蔵院という寺と正八幡大神があり、関係があると思われる。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
萩台館[高品城  周辺城郭]

 葭川沿いの館跡の一つ。位置も詳細も不明だが、白幡大神のある辺りが跡地かと思われる。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
源館[高品城  周辺城郭]

 葭川沿いの館跡の一つ。動物公園の東側にあったと見られるが、正確な位置は不明。周辺には殿内街道、大堀込などの字名があるという。源町には薬王寺や神明社などがあり、源館との関係が疑われるが仔細不明。「寺山殿」という千葉氏家臣の城であった可能性があるとされている。応永17年(1410)には寺山新兵衛入道、寺山五兵衛入道、木内五郎左衛門が寺山に所領を持っていたとされる。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
南屋敷館[高品城  周辺城郭]

 葭川沿いの館跡の一つ。土塁と堀に囲まれた館で15世紀に使用されたという。城主等は不明だが、寺山氏ではないかと思われる。現在は宅地開発で消滅。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
曽場鷹神社跡[高品城  その他]

 亥鼻城の鬼門にあった神社で、「千学集」において千葉の守護神とされている。側高神社は香取地域に多く見られる神社で、曽場鷹(側高)大明神は伝承によれば香取神の命令で陸奥の馬2,000疋を捕らえている。香取神の配下の神であったのだろうか?明治期に大六天神社に合祀された。

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
紅嶽弁財天[高品城  寺社・史跡]

 嘉応2年(1170)、夢で弁財天を見た千葉常胤が創建したとされる。

高品城の周辺スポット情報

 南屋敷館(周辺城郭)

 源館(周辺城郭)

 萩台館(周辺城郭)

 殿台城(周辺城郭)

 北前原城(周辺城郭)

 廿五里城(周辺城郭)

 原城(周辺城郭)

 浅間城(周辺城郭)

 西光院・貝塚城(周辺城郭)

 紅嶽弁財天(寺社・史跡)

 春日神社(寺社・史跡)

 等覚寺(寺社・史跡)

 曽場鷹神社跡(その他)

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