西光院・貝塚城

西光院・貝塚城([高品城  周辺城郭])

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西光院・貝塚城の口コミ情報

2020年10月11日 山内侍従伊右衛門俊胤
 高品城の東にある台地上に西光院という寺がある。ここにはかつて貝塚城という城があったとされる。千葉の町を見渡せる場所にあり、高品城と同じ様な役割を果たしていたと考えられる。貝塚城も西光院も仔細不明ではあるが、貝塚城の成立は平安・鎌倉期に遡ると考えられており、西光院の境内には永正八年(1511)と刻まれた板碑があった事から、長い期間に渡り利用されていた事が考えられる。
 貝塚城が誰によって築かれたのかも、歴代の城主も不明だが、室町・戦国期に限って言えば、城主ではないかと考えられる氏族はいる。本庄氏である。本庄氏は千葉常胤の6男東胤頼の孫胤方より始まる千葉氏系海上氏の一族である。武家ではなく寺社に仕える江戸時代で言う「寺侍」の筆頭であったようで、金剛授寺(現在の千葉神社)の住持に仕えていた。
 千葉介後継者の元服式の折には本庄氏が金剛授寺住持の御使として、高品城に入る前に後継者一行を出迎えた。高品城に入ると事前に決めた諱の候補を受け取って金剛授寺へと運び、神事によって決められた諱を高品城の一行に伝えるという重役を担っていた。また天文19年(1550)に執り行われた金剛授寺の遷宮式の際には千葉親胤が寄進した神馬を受け取る役割を果たした。
 どうやら、千葉氏が佐倉に拠点を移した後、千葉の差配は金剛授寺が担っていた様だ。安藤氏や本庄氏、その他金親氏や小河氏といった寺侍達は、金剛授寺のもとで日々の神事仏事の補佐をしながら、有事の際には千葉を守る兵士として働いていたのであろう。永正13年(1516)には上総国真名城主三上但馬守が千葉を攻めており、金剛授寺住持・範覺が兵を率いて戦ったという。亥鼻城をはじめとする千葉一帯の城は、この時も利用されていたのかも知れない。

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