千葉氏館推定地
千葉氏館推定地([千葉城 その他])
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千葉氏館推定地の口コミ情報
2025年06月02日 ラッセル小弓公方右京亮
1126年(大治元年)6月1日(旧暦)に平常重が本拠を上総国大椎から千葉に移し、『千葉』を名乗った。『千葉』という地名は、もともとあった。
千葉氏は平安時代末期から戦国時代まで下総国を支配していた関東の武士団。
千葉氏の館が何処にあったのか、未だに大きな謎として解決されていない。猪鼻城跡で行われた発掘調査では、館と思われるものは見つかっていない。かつて「御殿跡」と呼ばれた現在の裁判所あたりにあったのではないかとのする説がある。
千葉に本拠を移した常重の子・常胤は、源頼朝を助け、鎌倉幕府の創設に大きく貢献し、頼朝のもと、10年足らずで下総国・上総国をはじめ全国各地に広大な所領を獲得し、幕府の中でも有力な御家人に成長した。
これらの領地は、その後六人の子が受け継いだ。これを千葉六党といい、惣領である千葉介を中心に強力に一族が団結した。
この領地は子、孫に引き継がれたが、上総千葉氏と下総千葉氏に大きく分けられた。
康正元年(1455)一族の馬加康胤や原胤房に攻められ、当時の宗家は滅亡してしまう。その後、跡を継いだ馬加系の千葉氏は、拠点を本佐倉城へ移している。
2020年07月23日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
「御殿跡」という地名から千葉氏の館が置かれていたのではないかとされる場所。江戸時代に東金御成街道が開通した際、千葉には千葉御茶屋御殿と千葉御殿の二つの御殿が置かれていたとされる。千葉御殿が置かれた地がここであるともされ、「御殿跡」は千葉氏館ではなく千葉御殿を指している可能性がある。船橋御殿や越谷御殿の様に在地豪族の館跡地が提供された例もあるので、元々千葉氏館があった地を御殿として利用した可能性も考えられるが、千葉氏が千葉を離れてより100年以上経っている為、御殿を造った頃には跡形も無く消滅していた事も考えられる。