無量山浄光院大経寺

無量山浄光院大経寺([和井田氏屋敷  寺社・史跡])

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無量山浄光院大経寺の口コミ情報

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
天正14年(1586)、関根兵吾を開基として暁翁上人が創建。かつては京都知恩院末寺であったが、後に下総国小金東漸寺の末寺となった。慶安元年(1648)に寺領7石を賜る。開山暁翁上人は慶長12年(1607)9月9日に入寂し、開基関根兵吾は寛永7年(1630)4月9日に死去したが、その子孫は『新編武蔵風土記稿』編纂当時も八條村に在住していたという。

風土記稿執筆者が寺僧に聞いた話によれば、江戸小石川傳通院の念佛堂の本尊は元々大経寺の本尊であったが、故あって公儀の命令で移し、その後は阿弥陀を本尊としたという。

大経寺周辺、もしくは持昌院の周辺には中島兵庫の屋敷があったとされる。中島兵庫とは大経寺開基関根兵吾と同一人物である。『埼玉苗字辞典』によると、中島兵庫は粕壁宿の関根帯刀家の分家であり、八條村中島に住み姓を関根から在名である中島に変えたが、後に家勢が衰えて姓を関根に戻したという。

関根氏は紀姓春日部氏の一族であり、美濃国の清和源氏多田氏の名跡を継いで美濃土岐氏に仕えた後、粕壁に戻り関根に復姓したという。その一族が甲斐武田氏に仕え、多田新十郎の代で太田資正・北条氏政に仕えた。小田原征伐で岩槻城が落城した後、新十郎の三人の息子帯刀・左京之助・八郎左衛門が粕壁で新田を開いたという。

大経寺の創建年からして中島兵庫は関根氏が後北条家臣であった頃から八條に住んでいたとみられる。中島を称していた事から中島兵庫は持昌院周辺に住んでいたのだろうが、大経寺の開基・大檀那であった事を鑑みると大経寺周辺に居を構えていた事も考えられる。

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