山崎城(やまざきじょう)
山崎城の基本情報
通称・別名
- 岡部館
所在地
- 千葉県野田市山崎字梅台
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 岡部長盛
築城年
- 天正18年(1590)
主な改修者
- -
主な城主
- 岡部長盛
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
木野崎城(千葉県野田市)[4.9km]
花輪城(千葉県流山市)[6.4km]
宇田家屋敷(埼玉県越谷市)[7.3km]
前ヶ崎城(千葉県流山市)[9.3km]
金野井城(千葉県野田市)[9.3km]
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越ヶ谷御殿(埼玉県越谷市)[9.6km]
布施城(千葉県柏市)[9.7km]
松ヶ崎城(千葉県柏市)[9.8km]
小金城(千葉県松戸市)[10.7km]
山崎城の口コミ情報
2025年12月19日 マグロ常陸介祐平
山崎城
今川、武田、徳川と主を変えて生き抜いた、岡部正綱の子の岡部長盛が小牧・長久手の戦いや上田城攻め等の戦功により、天正18年(1590年)家康の関東入国の際に下総山崎に1万2000石を賜り築いたお城(陣屋)です。翌天正19年には近隣の堤台城に移動したようですので、移動後にも藩士が詰めていたとはされるようですが、藩庁としては僅か1年間のみ使用されたことになります。慶長14年(1609年)になると丹波亀山に加増移封され、堤台城も廃城になっています。長盛に関しては、正綱の子ではないとの説もあるようで、松平康元の娘(洞仙院殿)を家康の養女として継室としており、目立った戦功があったとは思えないのに5万石まで加増されていて、なにか特別なものを感じます。
周辺に遺構らしきは見当たりません(写真3~5枚目)。日本城郭大系には、「西側に江戸川の低湿地を控えた海抜16メートルの平坦な台地にあった。北と南の谷津が入り込んで、空堀的な役割を果たしていた。」とあり、谷津を堀代わりとする簡易的なお城(陣屋)だったのかもしれません。
城址に建つ海福寺(写真1,2枚目)は、慶長4年(1599年)に長盛と母親が先祖の菩提を弔う為に建立したお寺で、長盛の母の供養塔(写真6枚目)があり、明治維新以降は東京に在住した岡部氏の菩提寺となったようで、明治20年に亡くなった岸和田藩12代藩主岡部長寛の墓(写真7枚目)が建っています。
2025年08月27日 jyoukaku西市佑護
山崎城
海福寺の山門前に、岸和田城主岡部長盛開基の碑があります。寺とその周辺は北側の道路からみると、高くなっています。遺構は確認できませんでした。
2023年12月20日
山崎城
お寺の境内になります。駐車場もあります。最寄りの梅郷駅からも歩ける距離です。
2022年08月07日 マグロ常陸介祐平
堤台城[山崎城 周辺城郭]
山崎藩岡部氏の城跡です。19年間居城したようですが遺構は残っていないようです。近くの堤台八幡の案内板に城に関する記述があります。
2013年08月21日 しー武蔵守
山崎城
1590年(天正18年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、譜代の家臣・岡部長盛に1万2000石を与えた。藩庁は下総国葛飾郡山崎(現在の千葉県野田市山崎)に置かれた。これが下総山崎藩の立藩である。
1591年(天正19年)には、領内である堤台(現在の千葉県野田市堤台)に堤台城を築城した。
長盛は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、下野国において上杉景勝の牽制を務めた。1609年(慶長14年8月)、長盛は丹波亀山藩に加増移封され、ここに下総山崎藩は廃藩となった。
Wikipediaより
2012年10月05日 野舘宮内少輔サラマンダー
山崎城
2012年10月5日15時30分(25分)
『岸和田城主岡部長盛公開基、曹洞宗、海福寺』の周りを自転車で一周しましたが、由来や云われ等はありませんでした…
最後に本堂をお参りして終了としました









