柿木女體神社
柿木女體神社([和井田氏屋敷 寺社・史跡])
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柿木女體神社の口コミ情報
2022年04月14日 長森原
下妻街道沿いにある柿木女體神社には、天正3年(1575)に常陸石下の豊田城が落城した際、城主豊田治親の夫人と子どもがこの地に落ちのび、草加に土着したとの伝承が残されています。
常陸石下の豊田氏は、平安時代後期の前九年の役(1051〜1062)の功労により豊田郡を与えられその地を治めていましたが、下妻の多賀谷氏の謀略により城主・豊田治親が家臣に毒殺され天正3年に豊田城は落城しています。
柿木女體神社のすぐ東を通る下妻街道は、源頼義・義家らが前九年の役の際に奥州に向かうのに使ったとされる古道で、その道筋は千住〜草加〜野田〜坂東〜水海道〜石下〜下妻〜益子〜喜連川を通り喜連川で奥州街道に接続するものでした。
果たして豊田治親の奥方とその子が落城後、(下妻街道を伝って?)草加に落ちのびたのが事実かどうかは今ではわかりませんが、そのような伝承が生まれる背景として石下と草加の2つの地が、下妻街道という古道で結ばれ古来から人の往来や交流が盛んであった事は確かなようです。
(ちなみにGoogle mapで下妻街道の道筋設定して検索してみたら、豊田城跡から柿木女體神社まで徒歩だと約10時間でした)
写真3枚目は、常総市地域交流センター内に展示されている豊田治親公暗殺シーン。多賀谷氏に通じた家臣・飯見大膳に毒殺されたとされています。