八條殿社古墳
八條殿社古墳([和井田氏屋敷 寺社・史跡])
和井田氏屋敷 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:寺社・史跡)、「八條殿社古墳」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
八條殿社古墳の口コミ情報
2021年06月17日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
八潮市唯一の古墳。明治42年(1909)に八條八幡神社に合祀されるまで、古墳上に八條殿社があった。『新編武蔵風土記稿』によると、御神体として古磚2基を置き、1つは弘安7年(1284)、1つは應安4年(1371)5月27日宗源禪門と彫られていたという。
八條殿社は八條氏を祀っていたとされる。この八條氏については、野與党渋江氏の八條五郎光平、九条兼実三男の八條左大臣義輔、八條上杉氏の八條近江守房繁の3名が候補として挙がっている。『新編武蔵風土記稿』では八條左大臣義輔について取り上げているが、「附会(こじつけ)」だろうと一蹴している。
残る2名であるが、御神体に刻まれた年代からすると、『吾妻鏡』建暦3年(1213)5月17日の項に「澁江五郎光衡」として記述のある八條五郎光平を祭神とするのが妥当と思われるが、社家であった新井家が所蔵する『紙本着色八條殿社神像』の存在が気にかかる。
『紙本着色八條殿社神像』に描かれた祭神は白馬に乗っている。江戸後期、栗原信光が著した『先進繍像玉石雑誌続篇』に八條近江守房繁について詳しく書かれており、そこに掲載された木村長光『八條近江守藤原房繁肖像』によると、房繁は白馬に乗っていたとされる。
八條上杉氏は扇谷上杉氏の前身となる二橋上杉氏の上杉左近将監朝定が埼玉郡八条領に住んだ事を始まりとする。永正の頃の当主近江守房繁は馬の名手であり、小笠原民部少輔植盛より甲斐源氏伝来の馬術を学んだ後に八条流馬術を開基したという。多くの門弟を得て、後世には八条流の流れを汲む高麗八条流を徳川秀忠・家光が学んだという。
八條上杉氏については、京都に拠点を置いたという「八条上杉氏」の存在もあり、どうも分かり難い所がある。房繁の存在も今の所は近世の文献しか見当たらず、どの程度信用して良いものか分からない。『六ケ村栄広山由緒著聞書』に登場する八条惟茂は房繁と同時代の人物であり、惟茂のモデルが房繁であった可能性もある。
2021年06月17日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
旧家阿川氏
八條殿社の周辺には八條村の旧家阿川氏の屋敷があったとされる。阿川氏については『新編武蔵風土記稿』にも「旧家の者三郎兵衞」として紹介されている。
阿川氏の祖先阿川掃部助盛康は防州大内氏の大内教弘・政弘等に仕え、長門国三隅庄周辺を所領としたという。阿川氏は盛康─三郎弘康─孫七郎康政─掃部允綱康─彌七郎康次と続き、天文3年(1534)7月20日に豊後国にて康次が討死すると、弟の彌七郎康長が跡を継いだ。
天文20年(1551)、陶尾張守晴賢が謀反を起こすと康長は石見国に退去、康長の子三郎兵衛康久は関東に移り、岩槻配下として後北条氏に仕えたという。天正18年(1590)に岩槻城が落城すると阿川氏は八條村に土着。『新編武蔵風土記稿』編纂時の三郎兵衛は5代目であったという。
後北条家臣の所謂「岩槻衆」については『小田原衆所領役帳』に記載が無く、岩槻衆に属していたと思われる「中島兵庫」や「阿川三郎兵衛康久」についても正確な所領は分からない。