妙見島

妙見島([長島高城  その他])

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妙見島の口コミ情報

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
 長島の東を流れる江戸川には23区唯一の自然島である妙見島が浮かんでいる。自然島といってもその姿から自然を感じる事は無い。島のほぼ全域を工場が占めており、島の周囲はコンクリートの防潮堤でしっかりと囲められていて、人工島と言われても違和感を覚えない。見るものと言ってもかつての妙見堂の名残と言える妙見社が申し訳程度にあるぐらいで、そもそもの妙見堂自体が一之江の妙覚寺に移されてしまっている。歴史を知らねば気にも留めない場所だろう。
 貞治元年(1362)に妙見堂が建立された事が妙見島に関する最古の記録とされている。関東で妙見と言えばまず思い浮かぶのが千葉氏の存在であり、妙見島は千葉氏による葛西地区進出の足掛かりであると言われている。
 常胤より代々下総守護を務める千葉氏が下総国に属する葛西地区への影響力を強める事は何ら不思議ではなく、また江戸川上流には下総国府が置かれていたとされ、千葉氏にとっても長島の湊が重要であった事は想像に難くない。
 妙見島に妙見堂が建立された貞治年間は千葉氏にとって微妙な時期であった。文和元年(1352)に起きた武蔵野合戦の戦功によって千葉介氏胤は上総守護に任命された。しかし文和4年(1355)に上総守護の座が佐々木導誉に替えられ、氏胤はこれに強く反発した。佐々木導誉の代官の入国を妨害し、入国した後も上総の御家人達が下知に従わないという状態で、導誉はこれを足利尊氏に訴えた。尊氏は導誉の言い分を全面的に認めて導誉に従わない者を罰する事を許可した。それでも事態は好転しなかった様で、貞治元年(1362)には氏胤を上総守護に再任させる事となった。しかし氏胤が上総国の浄光明寺領を押領したことが訴えられ、貞治3年(1364)に再び守護を解任される。氏胤は鎌倉にて尊氏の子で初代鎌倉公方である足利基氏から叱責を受けた様で、鶴岡八幡宮下宮に立て籠もるという事件まで起こした。
 妙見堂の建立はこうした上総国を巡る氏胤と室町幕府の対立関係がある中で行われている。自らの置かれた立場に危機感を覚えた氏胤が、下総守護としての地位を誇示するために行った事なのかも知れない。氏胤の母が八幡庄曽谷の曽谷氏の出自であるので、それも関係しているのだろうか?翌貞治4年(1365)、氏胤は千葉六党の東氏の所領がある美濃国にて29歳の若さでその生涯を閉じる。

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