鬼窪尾張繁政館

鬼窪尾張繁政館([江ヶ崎城  周辺城郭])

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鬼窪尾張繁政館の口コミ情報

2025年09月05日 マグロ常陸介祐平


平姓野与党鬼窪氏の館です。鬼窪氏は、野与小六郎行基の子の鬼窪六郎定綱の系統と行基の弟九郎大夫経長の孫南鬼窪小四郎行親の2系統が存在するようです。館の南西約700mには白岡八幡神社があり(写真1,2枚目)、源義家が佐々木高綱に代参させ、土着の武士鬼窪某に社殿を造立させたと伝わります。白岡八幡神社の南東側の遺跡「入耕地館跡」が14世紀から15世紀半ばにかけての鬼窪氏の居館と推定されており、高麗経澄軍忠状に見える「鬼窪にて旗揚」は観応の擾乱の際に鬼窪氏が足利尊氏について参戦したことによるものと推測されているようです。

戦国期の鬼窪氏の動向はよくわかっていないようですが、白岡市の生涯学習センターの仮説として、室町時代前期に鬼窪氏は関東管領上杉氏と関係が深く、上杉朝房が信濃守護を務めていますが、長野県北部に鬼窪姓が多いのはこの時に同行して土着した可能性があるのではないかと仮説を立てています。また、16世紀半ばに鬼窪尾張繁政がこの地に館を築いたのは、河越夜戦で上杉氏が北条氏に敗れ、上杉氏から離脱した鬼窪氏が本貫に戻り帰農したととの推測も興味深い内容です。

宅地化により遺構は消滅していますが(写真3枚目)、江戸時代に名主を務めたご子孫が今もお住いです。帰農した鬼窪(鬼久保)氏は風土記稿に旧家者として取り上げられ、家に伝わる古文書は江戸時代以降のものですが、白岡市の文化財に指定されています。また、館のすぐ西側には繁政が開基となる寿楽寺が建ちます(写真4~7枚目,8枚目は小久喜久伊豆神社)。

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