善仲寺館
善仲寺館([川越城 周辺城郭])
川越城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「善仲寺館」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
善仲寺館の口コミ情報
2025年11月11日 マグロ常陸介祐平
善仲寺が城址となります。古尾谷氏の館とも古尾谷氏の家臣中氏の館ともされます。古尾谷氏も中氏も伝承が多い割には複雑で、分かりにくい一族です。
古尾谷氏は、道長流の藤原氏で、鎌倉時代に石清水八幡宮寺の荘園古尾谷庄の預所内藤判官盛時の子孫とされ、太平記に古尾谷民部大輔・同兵部大輔の名が見られます。いつまでこの地に藤姓古尾谷氏がいたのかは、よく分かりませんが、一族からは茨城県石岡市の足利氏満により大増地区に移され、古尾谷隠岐守治貞(治の文字は小田氏治の偏諱)は正法寺を開基しています。治貞の子孫は佐竹氏の家臣として秋田藩士になっています。風土記稿では、延徳元年(1489年)の扇谷上杉定正の書状に古尾谷氏の名が見られ、横浜市金沢区の龍源寺の天正10年の梵鐘に古尾谷中務少輔平重長法名道傅とあり、先祖ではないかとし、小田原所領役帳にのる河越衆古尾谷周防(伊豆伊東内屋形に18貫、河越衆は伊豆に所領を持つものが多い)は、中氏の仕えた古尾谷氏ではないかとしています。古尾谷中務少輔重長は、関東古戦録に見られる、三浦半島の城ヶ島を守備した古尾谷中務少輔重忠と同一人物と思われます。
中氏は、藤姓中氏と村山党平姓中氏が見られ、どちらなのかよく分かりません。また、小田原所領役帳の時代に河越衆古尾谷氏が健在ですが、中氏が善仲寺館の城主とされています。ちなみに、古尾谷の地は所領役帳では太田美濃守(資正)の所領とされており、中氏はこの時点で太田氏の寄子になっているようです。また、中氏からは、古尾谷を名乗る者もいたとされ、上記の平姓古尾谷氏は、中氏の可能性もあるように思えます。中氏は、所沢市の三ヶ島地区や古尾谷に近い南畑に子孫が繁栄しています。(内容は上手く整理できません。)
遺構としては、善仲寺の背後に土塁と空堀が残っています。立ち入り禁止となっていますが、墓地脇の薮の隙間から覗見すると空堀が確認できます。余呉さんの縄張り図では、枡形が残っているようですので、見られないのは残念でした。
善仲寺は、中筑後守資信が主君古尾谷近江太郎信秀(古谷院安養無着居士)の菩提を弔う為に自身の居館に仙波(川越市内)から移したとされ、元々境内に別々にあった2人の墓石を縦に2段合体させた不思議なお墓がたっています。お墓の背後には、板碑が並び、周囲に立つ江戸時代の立派な墓石は、川越藩松平伊豆守信綱の家臣、松井氏(遠江松井氏の庶流で八代城主松井氏と同族、400石)のものです。
古尾谷氏に関しては、「古尾谷小誌」というボリュームのありそうな1冊の本にまとめられているようです。









