方穂故城
方穂故城([小田城 周辺城郭])
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方穂故城の口コミ情報
2025年08月08日 マグロ常陸介祐平
鎌倉時代には、「吾妻鏡」に片穂平五、片穂平六、南北朝時代の「北畠分限帳」には、片穂刑部少輔の名が見られ、片穂(方穂)氏が館を構えていたものとされています。北畠親房書状によると、暦応4年(1341年)の小田城攻めに際して、高師冬などの北朝軍の本陣が玉取に敷かれたとあり、本城もしくは近くにある玉取城が使用された可能性があるようです。室町中期には、小田氏の一族久保田氏が居城したとされ、天正8年(1580年)に久保田内匠助英孝が下妻多賀谷氏に滅ぼされる迄、小田氏の別邸として使用され、庭園には築山、泉水、花畑等があり、地域の人からは、「玉取の里」や「お花畑」と呼ばれたようで、お城の別名は「花畑城」となっています。
江戸時代になると、堀秀政の弟で、大久保忠隣の改易に連座して奥平家昌の預かりとなっていた堀利重が、大阪夏の陣(1615年)で松平忠明の軍に加わり戦功を挙げ、元和8年(1622年)に罪を許されて、新治郡内で1万石を与えられ、「玉取藩」を立藩しこの地に陣屋を構えます。延宝6年(1679年)3代藩主堀通周が大阪加番赴任中に発狂して家臣を切りつけ、玉取藩は改易となっています。
お城(陣屋)は、現在「花畑近隣公園」となっています。公園は、全体的に微高地となっており、プールのある北西部分は、かなり薄めの虎口状の土盛りが見られ、公園の東側にも北東部に折れがある土塁が残っています。残る遺構は、陣屋時代のものと思われます。大変歴史のあるお城ですが、石碑や説明板などはなく、公園を掃除していた方もお城ということをご存知ではありませんでした。
2022年06月24日 nirl雅楽允
花畑城とも。残念ながら、城跡である旨の説明版などは見当たらず。