中久喜城(なかくきじょう)
中久喜城の基本情報
通称・別名
- 亀城、栃井城、中岫城、岩壺城
所在地
- 栃木県小山市中久喜字城の内
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 小山政光
築城年
- 久寿2年(1155)
主な改修者
- -
主な城主
- 小山氏、結城氏
廃城年
- -
遺構
- 土塁
指定文化財
- 国史跡(小山氏城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
小山城(栃木県小山市)[4.0km]
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中久喜城の解説文
[引用元:Wikipedia「中久喜城」の項目]中久喜城(なかくきじょう)は下野国寒川郡(現在の栃木県小山市中久喜)にあった平安時代末期から戦国時代にかけての日本の城。別名:亀城、栃井城、中岫城、岩壺城。
中久喜城跡は、祇園城跡、鷲城跡とともに小山氏城跡として、国の史跡に指定されている。
【歴史・沿革】
中久喜城は、1155年(久寿2年)に小山政光が築いたものとされる。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。
中久喜城は江川と西仁連川に挟まれた舌状台地の南端に位置している。両河川は中久喜城の南で合流しており、西仁連川がもたらす氾濫原が南方に広がる要害の地であった。
小山氏にとっては下総国結城方面への備えの城であり、鎌倉時代には下野国守護を務めた小山氏の拠点のひとつとなった。しかし室町時代に入ると下野守護の座は高氏や下野宇都宮氏、関東管領上杉氏に移り、こうした流れに抵抗した小山義政は1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて小山で反乱を起こし、この時に小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城の5城のうち、岩壺城に相当するのが中久喜城と考えられている。
小山氏は義政の乱で鎌倉府の追討を受けて断絶するが、同族の結城家から養子を迎えることで再興している。そののち安土桃山時代の1590年(天正18年)に小山高朝の子で、結城政勝の養子となった結城城主結城晴朝がこの城に隠居したという記録がある。
また、中久喜城がある舌状台地を古くは「北山」と称したが、天正年間に小山氏と同族の結城氏の和解の際、「中久喜」と改めたという伝承が残る(付近には和談坂と呼ばれる坂があり、この和解にちなむものであるという)。
以上のように、中久喜城は祇園城、鷲城と並んで小山氏の主要な居城であったと考えられている。
1601年(慶長6年)に結城氏が越前国へ転封となったとともに、廃城になったと考えられている。
【構造】
台地先端の通称「城の内」に、長辺120メートル、短辺100メートル前後の主郭を構え土塁をめぐらし、さらにその北西の台地先端部分にも土塁を構えている。その東に万年寺跡があり、「万年寺曲輪」と呼称される。...[続きを見る]
中久喜城の口コミ情報
2020年08月11日 けらりんば甲斐守
中久喜城
中久喜城へは北側の県道から入るように案内板がついていますが、舗装はされているものの道も細くほぼ農道です。適当な駐車スペースもありません。また土塁の前に石碑と説明板が建てられていますが、遺構の大半はJR水戸線を挟んで南側です。むしろ案内板はありませんが、南側の国道50号BPから線路に向かって北上、城址西側の新興住宅地の端に路駐し、畦道を歩き城攻めした方が良いと思います。
本郭は耕作放棄され荒れ放題ですが、西側から南側にかけて堀や土塁が良好に残っています。線路によって分断されているため、石碑が建つ北側へは安全のためにも必ず近くの踏切を使ってください。
2015年12月28日 まー刑部卿
中久喜城
水戸線の線路脇で城跡への道は道幅が狭く特に川を渡る橋で狭まるため断念しました。軽自動車なら通行可。住宅地のところは停められません。
2015年04月23日 小山の寅さん
中久喜城
季節感を味わうことができる散歩にとてもよい城跡です。国指定史跡です。