榎本城(えのもとじょう)
榎本城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 栃木県栃木市大平町大字真弓
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 小山宗長
築城年
- 文治元年(1185)
主な改修者
- -
主な城主
- 小山氏、北条氏、結城氏、本多氏
廃城年
- 寛永17年(1640)
遺構
- 土塁、堀
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
栃木城(栃木県栃木市)[5.6km]
御城(栃木県小山市)[5.8km]
鷲城(栃木県小山市)[5.8km]
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榎本城の解説文
[引用元:Wikipedia「榎本城」の項目]
榎本城(えのもとじょう)は、栃木市大平町榎本(下野国都賀郡榎本)にあった日本の城。
現況
榎本城のあった場所には石碑が建っている。また堀や土塁のあとが周辺に残っている。
歴史
文治元年(1185年)に小山宗長が築城したといわれ[1]、小山城の支城として成立したと思われる。
戦国時代の永禄元年(1558年)に榎本高綱が城主となったが、同7年(1564年)に皆川俊宗に攻められて戦死しするなど、皆川氏、佐野氏、北条氏、結城氏らの接点として、いくたびか戦乱に巻き込まれた[2]。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の折、榎本城主の近藤綱秀は北条氏照の命で八王子城を守っていたが討死した。榎本城は、城主が留守の間に結城晴朝に攻められ落城し、以降結城氏の管理下に入った。
江戸幕府成立後の1605年(慶長10年)、本多忠純が1万石で榎本城に入り榎本藩が成立する。その後大坂夏の陣での活躍などにより加増され2万8000石となった。本多忠純の死去後、藩主は本多政遂、本多犬千代と継いだが、犬千代は寛永17年(1640年)5月13日に5歳で死去し、榎本藩は無嗣断絶により改易となり、榎本城も廃城となった。
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榎本城の口コミ情報
2023年06月19日 マグロ常陸介祐平
富田城[榎本城 周辺城郭]
富田氏代々の居城で、江戸時代初期には短期間ですが富田藩の陣屋として北条氏重が居住したようです。
城址となる大平西小学校の北側線路沿いには城山といわれる岡があり土塁とされているようですが、そこそこの幅があり自然地形を利用したように感じられます。近くの富田城の内公園には、土塁に見えなくもない丘がありますが、栃木市のHPには「近くを走る電車が見渡せる小高い丘が特徴的な公園」とあり謎のままです。
2021年06月26日 マグロ常陸介祐平
榎本城
石碑の周辺に深い空堀らしきが確認できます。周囲は私有地の為、立ち入れません。本多忠純が1605年に榎本藩を立藩し近世城郭として整備されたと思われますが、江戸時代初期の28000石の平城にしては街も発展しておらず城址以外に目立った史跡もありません。
2015年12月28日 まー刑部卿
榎本城
サイトのマップを追ってみると門構えがしっかりした民家の蔵にあたります。そこから一度道路に出ると右手にお墓がありそこを通り過ぎて先人の言われた通り北へ200m弱行くと車でも左折出来る道幅の道路があるので左折し100m弱で石碑と説明板があります。個人宅のため中は入れないが堀跡のようなのが見ることができます。残念なのが説明板の前に石碑があり撮影に苦労すると思います。畦道をその個人宅の入口側(サイトマップの城跡位置)へ回ると正面に矢倉台のような一段高いところに社が見て取れます。車はお墓の前に駐車しました。そのあたりしか停められません。
2011年08月16日 半日皇帝下野守
榎本城
城の遺構が数ヶ所に点在しており、看板や石碑がある場所は、サイトの地図から北方2〜300mの所にありました。
看板を探すのに20分くらい周辺をウロウロ歩いてしまったぁ(´A`)