皆川城(みながわじょう)
皆川城の基本情報
通称・別名
- 法螺貝城、螺貝城
所在地
- 栃木県栃木市皆川城内町
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 皆川秀光
築城年
- 応永元年(1394)
主な改修者
- -
主な城主
- 皆川氏
廃城年
- 天正19年(1591)
遺構
- 曲輪、帯曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口
指定文化財
- 市史跡(皆川城址)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
栃木城(栃木県栃木市)[5.9km]
不摩城(栃木県栃木市)[7.1km]
榎本城(栃木県栃木市)[8.7km]
唐沢山城(栃木県佐野市)[8.8km]
御城(栃木県小山市)[8.9km]
西方城(栃木県栃木市)[9.0km]
壬生城(栃木県下都賀郡)[10.8km]
佐野城(栃木県佐野市)[12.8km]
小山城(栃木県小山市)[13.7km]
鷲城(栃木県小山市)[13.7km]
皆川城の解説文
[引用元:Wikipedia「皆川城」の項目]
皆川城(みながわじょう)は、栃木県栃木市皆川城内町(下野国都賀郡皆川)にあった中世の日本の城。栃木市指定史跡。
歴史・沿革
皆川氏の居城で、螺旋状にできていることから「法螺貝城」(ほらがいじょう)とも呼ばれる[1]。
当初、寛喜年間(1229年 - 1232年)に皆川宗員によって築かれたが、この皆川氏は元享3年(1323年)に断絶した。新たに勃興した長沼氏の血を引く皆川氏によって皆川城が築かれたが、その年代には諸説ある。かつては応永元年(1394年)に皆川秀光によって築かれたとされた[2]が、これには時間的矛盾が生じる。「皆川正中録」では築城主を皆川氏秀としているが、その父の皆川秀宗が築いたとも言われ[3]、皆川氏の菩提寺である金剛寺の案内板はこの説を採り、永享元年(1429年)の築城としている。
皆川氏は戦国時代に入ると、北の鹿沼城を攻略した宇都宮氏から圧力を受け、従属と離反を繰り返した。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、皆川広照は北条氏に与して小田原城へ篭城したため、皆川城は豊臣方の上杉景勝勢に攻められ、降伏した(戦わずに明け渡したという説もある)。しかし、広照は小田原城包囲直後に脱出して徳川家康の陣所に駆け込み、家康の取り成しによって豊臣秀吉に所領を安堵された。翌年、広照は本拠を栃木城に遷し、皆川城は廃城となった。
1964年(昭和39年)5月19日に皆川城址は市指定史跡となり、栃木市が管理している。現在、標高147メートルの城山に皆川城址公園が整備されている[4]。
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皆川城の口コミ情報
2024年09月16日 昌幸近江守晩秋リア旅
箱森城[皆川城 周辺城郭]
皆川城の支城とされる箱森(はこのもり)城。
字舘堅(やかた)という地名が残り、そこを中心に水路に囲まれた楕円形の区域が城跡とされます。北側に大沼、南に舘沼という2つの沼に挟まれ、当時は浮城のように見えたでしょう。城主は森戸氏とも長沼氏とも言われています。
1960年代の航空写真を見ても、付近はすでに農地となっていて城はかなり前に消滅してしまいました。水路を追っていくと話の通り楕円形になりました。当時の堀跡で間違いないでしょう。
【写真の説明】
①北側の堀跡1
②北側の堀跡2。写真を撮った位置には大沼があった。
③東側の堀跡
④西側の堀跡
⑤南側の舘沼跡。2010年代までは干上がっていたが整備され調整池として復活
⑥道路脇にある祠。位置は郭の真ん中。箱森城に関係するものだろうか?
2024年07月08日 武蔵守のむげん
皆川城
公民館の広い駐車場が利用可能。螺旋状の遊歩道を登っていくと本丸付近まで到達可能。道が舗装されているので、軽装でも十分登城できます。遺構は曲輪、切岸、竪堀など。
2024年06月21日 昌幸近江守晩秋リア旅
金剛寺[皆川城 寺社・史跡]
皆川城の南西にある慈眼山金剛寺。
皆川氏歴代の菩提寺です。
下野国の名族藤原秀郷を祖とする皆川氏は五郎秀宗の時にこの地に移りその子氏秀に至り皆川姓を名乗り、永享元年(1429)観音山に皆川城を築きました。
皆川広照は乱世を生き抜いた知将で、敵対する宇都宮氏と宇都宮氏を支援する佐竹氏の攻勢を防ぐため、北条氏政の養女を室に迎える事で北条方に属することを明確にします。また織田信長に馬を献上し、武田氏滅亡後上野に入った滝川一益と良好な関係を築いていたようです。
豊臣秀吉による小田原攻めでは、北条方として小田原城に籠城するも、家臣約100名を引連れ小田原城を脱出し秀吉陣営に駆け込みます。広照は秀吉から助命を認められ徳川家康に身柄を預けられます。
その後は徳川氏の家臣となり旗本として江戸幕府に仕えました。
皆川城の麓に建つ金剛寺は、城とセットで行って欲しいところです。
何より素晴らしいのは、戦国時代より遺骸は必ず菩提寺である金剛寺に葬られ一代も欠けることなく現在に至っていることです。
【写真の説明】
①お寺の参道
②本堂
③皆川家歴代墓標の入口
④歴代当主の墓が建ち並ぶ
⑤金剛寺から見える皆川城
2024年06月19日 マグロ常陸介祐平
大平山城[皆川城 周辺城郭]
北条氏照の北関東進撃に対して皆川氏照が佐竹氏の援軍とともに陣を敷いたお城です。大平山神社は焼け落ち、城は北条氏に占拠され、広照は草倉山に陣を移し抵抗しますが、徳川家康や佐竹義宣の薦めもあり北条氏に降伏、北条氏の養女を嫁に迎え宇都宮氏攻めでは北条方の先陣をつとめています。
大平山神社の東側の奥宮入口が入城口となります。少し山道を登ると奥宮のある曲輪があり(写真6枚目)、さらに進むと高さのある石垣が現れます(写真3枚目)。石垣の上の小さな曲輪には北側から登ることができます。その曲輪の西側には低い石垣がある腰曲輪があり(写真1枚目)、南東方向に下る尾根道を進むと、先には堀切があるようですが、神社の背後でもあり、人目につくため引き返しました。石垣まで戻り北に向かう尾根(写真7枚目)を進み、岩場の急坂を登ると左手に小さな祠のある曲輪(写真4枚目)、正面の一段上には本丸の虎口(写真5枚目)が現れます。本丸には富士浅間神社(写真2枚目)が鎮座し、二段構造(写真8枚目)になっており、帯曲輪で囲まれ、北西側には二段の小さな腰曲輪が確認できます。全体的に整備されており、見やすいお城となっています。
大平山には大平山神社、大曲駐車場、謙信平(上杉謙信が兵馬の訓練を行い景色に目を見張ったとされる)などの広い削平地が見られ、これらも曲輪として機能していた可能性もあるようです。
幕末には、水戸の天狗党が1ヶ月半にわたり大平山神社の塔頭の連祥院に陣をはっており、あじさい坂を登り切った鳥居の先には標柱が立っています。
大平山の麓にある大中寺(先人様が詳しく口コミされています)は、上杉謙信と北条氏康が同盟を結んだお寺として知られていますが、皆川氏に縁のあるお寺で、皆川氏照の孫娘の墓の他、家臣の川田氏や白澤氏、白石氏(佐竹氏の系統で岩瀬城主白石志摩守宗義の子孫と伝わるらしい)の墓があります。川田氏の墓碑にある因幡守や藤三郎は、金剛寺(皆川城の麓にある菩提寺)に伝わる譜代討死帳によると諏訪砦や草倉山で討死したとされており、北条氏との激戦を物語っています。白石氏の兎毛は栃木出張で討死、白澤氏の右馬助はそれ以前の川田原で討死しており、天正期の武士の厳しさがわかります。
大平山はアジサイの名所ですので、この時期の訪問がオススメです。
2024年06月06日 昌幸近江守晩秋リア旅
大中寺[皆川城 寺社・史跡]
太平山南麓にある大中寺は、はじめ真言宗の寺として久寿年間(1154~1155)に建てられましたが、その後、快庵妙慶禅師(かいあんみょうけいぜんし)が延徳元年(1489)に曹洞宗の寺として再興しました。
6世住職快叟(かいそう)が叔父だった縁で、上杉謙信はこの寺を厚く保護し、永禄4年(1561)焼失していた伽藍の修復を行いました。永禄11年(1568)謙信が関東の覇権を争っていた北条氏康と和議を結んだのもこの寺です。
そして徳川家康の信任を受けたこの寺は、江戸末期まで、曹洞宗寺院の管理にあたる三寺院(これを関三刹という)の筆頭の寺として天下に号令する地位にあり、江戸品川に宿所を置いて事務をとりしました。
また山門は江戸時代に皆川城の搦手門を移築したと伝わります。
歴史の通り古刹の威厳漂うお寺でした。
参道沿いの紫陽花が花を咲かせ始めていて綺麗でした。これからもっと綺麗になるはずです。
今回見逃してしまいましたが、「大中寺の七不思議」というのが伝わり、境内7箇所に説明板が設置されているそうです。次はそれも見に行こうかな。
【写真の説明】
①参道
②皆川城の搦手門の移築とされる山門。
③本堂1
④本堂2。一本の木から造った彫刻物が印象に残った。
⑤参道の巨杉
2024年05月05日 真田家に憧れる右京亮りか
皆川城
本丸まで遊歩道が綺麗に整備されており、とても登りやすく、登山が苦手な方でも子供でもそんなに疲れないちょうどよい距離♪立派な竪堀を見ながら楽しく攻城できました🏯⛰️
2023年11月14日 陸奥守新九郎
皆川城
コンパクトなお城です。段々に造成した帯曲輪と竪堀が見所です。
2023年06月16日 RED副将軍
皆川城
技巧的で巨大な竪堀、横堀が特徴的な山城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。
築城年代には諸説があり、寛喜年間(1229年〜1232年)に皆川宗員によって築かれたと云われるが、白山台にあった別城ともされ、この皆川氏は1323年には断絶しています。
また、1394年に長沼氏一族の皆川秀光によって築かれたとも、1429年に皆川秀宗が築いたとも伝わりますが、ん1440年には皆川秀宗が皆川城を本拠地にしていたのは確かな様です。
皆川氏は、宇都宮氏に従属していましたが、小田原から北条氏政・北条氏直の父子が侵攻してくると北条氏に従いました。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐において、当主の皆川広照は小田原城に籠城します。皆川城は豊臣勢の上杉景勝に攻められ降伏。皆川広照は小田原城から脱出し、徳川家康の仲介で豊臣秀吉に降伏。助命され所領も安堵されました。
翌1591年、皆川広照は栃木城を新たに築いて居城とし、皆川城は廃城となりました。
見所
標高147mの城山に築かれており、皆川城址公園として整備されています。
別名の「法螺貝城」の名の通り、山頂に主郭を置き螺旋状に腰郭、帯郭を配する特徴的な縄張りです。
特に南西の巨大竪堀が中腹から麓まで落ちており、公民館が居館跡で大規模な空堀、土塁が残ります。
また、城域の南側は公園整備されていることに対し、北側は山城地形がそのまま残っており、西の丸から北に降りると三条の巨大竪堀、北東部の桝形、横堀と北側がメインとなりました。
行き方は、麓の皆川公民館を目標に設定。公民館の広い駐車場が利用でき、トイレもあります。
皆川城址公園として整備されており比高は80mくらいです。
※夏期であり堀には下草が茂り、天気が良過ぎたため写真はゼブラ化。全く映えてませんが良い山城です。
2023年04月23日 千葉相模守早雲【権六】
皆川城
城山に数え切れない程の曲輪が段々に展開され、所々に設けられた竪堀で横への移動を遮断しています。また要所要所に枡形を設け防御力を強化しています。
南面にある2つの竪堀は整備された道からよく見えますが、北面の三重竪堀は遊歩道から分け入り、足場は悪くなるのでご注意を。ですが、それに見合う素晴らしい遺構を見ることが出来ます。
整備された道を歩くも良し。道を逸れて木々に隠された遺構を探すも良し。楽しみ方はあなた次第!
1.駐車場の目の前に竪堀が姿を現す。
2.小さめの竪堀。
3.本丸北側斜面の段曲輪。
4.畝状の土塁かな?
5.本丸。城址碑と展望台があります。
6.三重竪堀①
7.三重竪堀②
8.南面の竪堀。
2022年08月03日 織田上総介晃司
皆川城
皆川公民館(栃木市役所皆川出張所)に駐車場あり。
主郭に向かうクネクネした道を登ると別名・法螺貝城と云われるのも納得できます。
主郭への道から脱線すると荒々しい城の遺構をみることができます。
2022年07月12日 大膳大夫しろし
皆川城
久しぶり2度目の攻城でしたがたっぷりと堪能しました。駐車場からの登り口に案内が有ります。反対側の鉄塔の先の虎口の痕跡の辺りも整備されているともっと良かったですが、7月の暑い時に行ってもよく草がはらってありとても見やすかった。本丸の展望台に吹く風が最高!
2022年02月12日 しゅう関白
皆川城
皆川城は別名法螺貝城というらしいが。登城してみるとグルグルと回りながら登るのは法螺貝の形状そのものだと思います。また堀はなかなか深く、さらに竪堀もあり戦いの城だとわかりました。
2021年09月17日 オノマトペ
皆川城
9月は彼岸花がきれいでした。山の下から見上ると迫力がありますが、本丸まで道はゆるやかで登りやすい。地元の方も散歩にみえているようです。蛇がいたので、苦手な方は気をつけて。乗代雄介『皆のあらばしり』を読んで、興味を持って訪れました。
2021年04月28日 crea参議
皆川城
駐車場は公民館にあります。コンパクトですが、山城の面影が良く残っていて攻めがいがありますよ。
2021年04月18日 マグロ常陸介祐平
皆川城
史跡公園として城山全体がほぼ裸山になっており遺構が確認しやすい状態です。本丸の山頂からは360度の展望が見渡せます。近くの金剛寺には皆川広照など皆川氏歴代の墓があります。
2021年02月05日
金剛寺[皆川城 寺社・史跡]
皆川氏開祖の長沼氏~現代の一番最近亡くなった皆川氏子孫までの墓があります。ここまであるとこってなかなかないと思います❗皆川城見学したら、代々の墓を詣りして下さいな!
2019年10月03日 長森原
皆川城
車ではなく公共交通機関で皆川城へ行く場合は、栃木駅からコミュニティバス「ふれあいバス皆川樋ノ口線」を利用して、乗車20分・運賃200円で行くことができます。城址最寄バス停は「皆川郵便局前」です。
バスの本数自体は少ないので、事前に栃木市HPで最新の時刻表を確認しておく事をお勧めします。
2019年05月04日 ニジュウ上野介☆彡
竪堀[皆川城 遺構・復元物]
南西の堅堀。折れがあり横矢が掛かり敵の進入をしずらくしている。
2017年05月14日 mas.k上野介61th
皆川城
グルグルとサザエのように山を登ると頂上が本郭です。
後世に作られた道は登りやすくて良いのですがいくつかの郭が壊されているようで微妙な気持ちにさせられます。比較的簡単な縄張りですが、所々でしっかり遺構が残っているのがうれしいです。
2016年05月15日 土塁ルイ
皆川城
よく歴史本などで戦国期の築城について説明したイラストを見かけますが、実際の山城は樹木で隠れており、その遺構を見渡すことはなかなかできません。
皆川城は麓から、山頂(本丸)、階段状の帯郭や腰郭、竪堀、土塁等が確認でき、土の遺構好きにはたまらない城趾です。
また、東北道・佐野藤岡IC➡栃木IC間の左前方に至近距離で見ることができます。
この時期、下草も多くなってきましたが是非一度リアルで訪れてみて下さい。
2016年04月10日 まー刑部卿
皆川城
先人の駐車場が広いのは皆川地区公民館のことを言っています。そのため、この公民館を目指すといいでしょう。なお入り口がわかりづらく墓地に行ったりしてしまいました。竪堀はありますが復元ですが西桜平に行く途中に下に降りるところには堀切が残っています。ニノ郭付近には井戸跡があります。公民館の駐車場は居館跡であり土塁も残存。公園になっているため歩きやすいです。
2013年02月11日 【隠者】史学会帰新参
皆川城
栃木駅の近くにレンタサイクルがあり。詳細は駅観光案内所まで。自転車で皆川城まで30分ほどかかった。曲輪がよく残り、土塁、虎口、掘も残る。よく整備されている。
皆川城の周辺スポット情報
竪堀(遺構・復元物)
井戸と池(遺構・復元物)
三重竪堀(遺構・復元物)
皆川城説明板(碑・説明板)
説明坂(碑・説明板)
水戸天狗党大平山本陣跡の標柱(碑・説明板)
尻内城(周辺城郭)
大平山城(周辺城郭)
箱森城(周辺城郭)
金剛寺(寺社・史跡)
おとら様の墓(寺社・史跡)
大中寺(寺社・史跡)
トイレ(トイレ)
栃木市皆川公民館駐車場(駐車場)
栃木市おおひら歴史民俗資料館(関連施設)