皆川城(みながわじょう)

皆川城の基本情報

通称・別名

法螺貝城、螺貝城

所在地

栃木県栃木市皆川城内町

旧国名

下野国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

皆川秀光

築城年

応永元年(1394)

主な改修者

主な城主

皆川氏

廃城年

天正19年(1591)

遺構

曲輪、帯曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口

指定文化財

市史跡(皆川城址)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

栃木城(栃木県栃木市)[5.9km]
不摩城(栃木県栃木市)[7.1km]
榎本城(栃木県栃木市)[8.7km]
唐沢山城(栃木県佐野市)[8.8km]
御城(栃木県小山市)[8.9km]
西方城(栃木県栃木市)[9.0km]
壬生城(栃木県下都賀郡)[10.8km]
佐野城(栃木県佐野市)[12.8km]
小山城(栃木県小山市)[13.7km]
鷲城(栃木県小山市)[13.7km]

皆川城の解説文



皆川城(みながわじょう)は、栃木県栃木市皆川城内町(下野国都賀郡皆川)にあった中世の日本の城。栃木市指定史跡。

歴史・沿革 

皆川氏の居城で、螺旋状にできていることから「法螺貝城」(ほらがいじょう)とも呼ばれる[1]

当初、寛喜年間(1229年 - 1232年)に皆川宗員によって築かれたが、この皆川氏は元亨3年(1323年)に断絶した。新たに勃興した長沼氏の血を引く皆川氏によって皆川城が築かれたが、その年代には諸説ある。かつては応永元年(1394年)に皆川秀光によって築かれたとされた[2]が、これには時間的矛盾が生じる。「皆川正中録」では築城主を皆川氏秀としているが、その父の皆川秀宗が築いたともいわれ[3]、皆川氏の菩提寺である金剛寺の案内板はこの説を採り、永享元年(1429年)の築城としている。

皆川氏は戦国時代に入ると、北の鹿沼城を攻略した宇都宮氏から圧力を受け、従属と離反を繰り返した。

天正18年(1590年)の小田原征伐では、皆川広照は北条氏に与して小田原城へ篭城したため、皆川城は豊臣方の上杉景勝勢に攻められ、降伏した(戦わずに明け渡したという説もある)。しかし、広照は小田原城包囲直後に脱出して徳川家康の陣所に駆け込み、家康の取り成しによって豊臣秀吉に所領を安堵された。翌年、広照は本拠を栃木城に遷し、皆川城は廃城となった。

1964年(昭和39年)5月19日に皆川城址は市指定史跡となり、栃木市が管理している。現在、標高147メートルの城山に皆川城址公園が整備されている[4]

皆川城の口コミ情報

2026年03月15日 昌幸近江守按甲休兵
傑岑寺[皆川城  寺社・史跡]



傑岑寺(けっしんじ)は天文23年(1554年) 皆川山城守俊宗が壕外に西接する谷津山に創立し、翌年弘治2年(1555年)に大中寺(※皆川城のリア攻めマップに登録済)六世快叟良慶禅師の弟天嶺呑補和尚を招請して開堂しました。
創立の目的は当時武士豪族の間に盛んに行われていた禅を修める為と、元一族であった小山城主小山下野守高朝の孫政種の菩提を弔う為でした。

創立約30年後の天正14年(1586年)寺を現在の地森山に移転しました。時の住職は四世建室宗寅和尚で、和尚はなんと駿河の今川義元の弟であり、今川家滅亡により出家し大中寺で修行の上傑岑寺に住職中、徳川家康に見出されました。家康は皆川山城守広照と相談して自ら外護者となり寺の移転再興を成就して祈願寺としました。

また天正年間(1573〜1592年)、後北条氏に幾度も襲来を受けましたが、見事にそれを退けました。傑岑寺は皆川城の南の出城としての機能も持ち合わせていたようです。戦後皆川広照は双方の戦死者千余人の霊を弔うため、塚を築き施食料として寄進し弔霊を委ね託しました。

傑岑寺は皆川氏が創立しましたが、在任した和尚の縁で徳川氏にも手厚く保護された寺で、それらを示す文書が残っているそうです。

【写真の説明】
①参道入口。石碑には“傑岑禅寺”と刻まれている
②参道
③山門
④⑤本堂
⑥古い時代のお地蔵様
⑦ 傑岑寺から皆川城を望む

2026年03月13日 昌幸近江守按甲休兵
八幡宮[皆川城  寺社・史跡]



成就院と同様、皆川城の裏鬼門の方位に、皆川城のより近くに建立されました。
成就院が裏鬼門除けならば、八幡宮は裏鬼門の守護神。万一成就院が突破されれば八幡宮で防ぐということで理に適っています。

2026年03月13日 昌幸近江守按甲休兵
成就院[皆川城  寺社・史跡]



成就院は山岳仏教の修行寺院として平安末期に創建、背後の山地に「朝日塚古墳」があり、近くに創建当初の寺院もありました。
初代皆川城主、皆川紀伊守秀光の四男、栄賢が六世住職に就いた時、薬師堂を移築し、皆川城の鬼門の方位に持明院を創建し、自ら住職となります。その時に成就院は裏鬼門除けの寺院と位置づけられました。
前本堂は江戸時代天保年間に建てられました。しかし平成13年(2001年)の豪雨で裏山が崩れその土砂で半壊、檀家さんからの後押しもあり現在の地に新しい本堂が落成されました。

【写真の説明】
①山門
②山門脇の供養塔
③新本堂
④前本堂跡
⑤石碑(石の塔婆)鎌倉〜室町時代のもの
⑥成就院方面から皆川城を望む

2026年03月10日 昌幸近江守按甲休兵
千手院観音堂[皆川城  寺社・史跡]



Googleマップでは薬師堂で登録されています。
もともとは観音山(城山)に祀られていたが、皆川城築城にあたり現在の地に移されました。
霧降観音ともいい、城の危急の時に霧を降らせ敵から見えないようにさせる霊験があるとされています。
皆川広照は主君である松平忠輝の不行状の責を問われ改易謹慎となった時、この観音堂に蟄居していたとも言われています。
※後ろの山が皆川城

2026年03月09日 昌幸近江守按甲休兵
持明院[皆川城  寺社・史跡]



持明院は皆川城築城の際、皆川紀伊守秀光の四男栄賢が柏倉地内にあった寺を移祀し、皆川城の鬼門除けの役割を担いました。(栄賢は裏鬼門に建つ成就院の六世で、成就院は柏倉にある)

さて持明院といえば、京都智積院再興一世の玄宥が仏門に入った寺です。
享禄2年(1529年)吹上城主膝附宗長(吹上城は栃木城の周辺城郭で紹介)の子として生まれ、7歳から15歳まで修行をしました。皆川広照は19歳年下の甥にあたります。
玄宥はやがて紀伊の根来山円明寺の智積院に入り、日秀僧正の教えを受け、28歳の若さで日秀の後を継ぎ智積院主となりました。
しかし天正13年(1585年)豊臣秀吉の紀州征伐で、巨大な軍事力を有していた根来寺一派は標的となり、玄宥は弟子を引き連れ高野山へ逃れた後、各地の寺に身を寄せ智積院再興の灯を消さず時を待ちます。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康から智積院再興の許可が出て、翌年に京都東山の豊国神社境内の土地と坊舎を寄進され、念願の智積院再興を叶える事ができました。慶長20年(1615年)に豊臣家が滅びると、隣接の寺を吸収合併し真言宗智山派の総本山となるまでに至りました。

皆川広照が戦国の世を渡ってこれたのは、三英傑と誼を通じていた叔父・玄宥の助けがあったからかも知れません。

【写真の説明】
①②山門
③④参道
⑤本堂
⑥持明院から皆川城を望む

2026年03月09日 昌幸近江守按甲休兵
東宮神社[皆川城  寺社・史跡]



別名を春日神社といいます。
創建は奈良時代の神護景雲(※珍しい四文字元号)年間(767-770年)とされ、当時は疫病や自然災害除けを祈る小さな神社でした。

皆川氏との関係は、下野国芳賀郡長沼(現・栃木県真岡市)から長沼宗員が皆川に移封され皆川氏と称し、東宮神社付近に居を構えたことから始まります。
永享8年(1436年)に皆川山城守氏秀が皆川城築城にあたり代々崇敬してきた奈良の春日大社を勧請しました。このことにより、東宮神社は皆川城の守護社に昇格し東宮大明神と崇められるようになりました。
寛永19年(1642年)より皆川庄63ヶ村の総鎮守となり現在に至っています。

毎年春秋には戦国時代の武運長久の祈願祭にならって、春祭り(大祭)には流鏑馬及び飾り馬が、秋祭り(小祭)には七五三詣とお鹿さま(開扉祭)が開催されます。

【写真の説明】
①参道
②拝殿
③④社殿。江戸時代寛永10〜11年(1633〜34年)に改築された社殿。龍・獅子・虎などの縁起物の彫刻が確認でき、見応えがある。

2026年01月14日 昌幸近江守按甲休兵
尻内城(詰城)[皆川城  周辺城郭]



栃木市の尻内城。
佐野氏の一族佐野宗連が天文年間(1532~55年)に築いたと伝えられる山城です。
城の南は街道(現国道293号)が通り皆川領と接しています。東は壬生領・宇都宮領、西は佐野氏の本拠である唐沢山城へと通ずる道でした。尻内城は皆川氏と街道を監視する境目の城だったといえます。廃城は佐野氏が改易となる1614年と伝わっています。

さて尻内城は3つの城砦の集まりです。
・詰城
・本城 ※本アプリでは“尻内城”で登録済
・東出城
があり、当時の情勢や築城技術の進歩により増設され、中心も詰城→本城→東出城と移動していったと思われます。

本城から尾根を歩き5分で詰城に到着です。
円状の単郭に外周の犬走り、尾根が続いていたであろう(ゴルフ場建設で消滅したところあり)東西に武者隠しを設けたシンプルな縄張りです。見張り台と呼んでも良さそうですね。

また、私は会いませんでしたがマダニに噛まれた方もいるようです。マダニは寒くても動きは鈍くならないみたいで… 虫除けスプレーをかけましよう!

【写真の説明】
①急に現れた凸部。この上が詰城
②詰城は弱い段差があるようだ
③犬走り
④ 西に伸びる尾根に造られた武者隠し
⑤ 更に下ると堀切が残る
⑥西尾根から詰城を見る
⑦東にも尾根が伸びていただろうが、ゴルフ場開発で消滅。武者隠しは残った。
⑧東の武者隠しから見る詰城の切岸

2026年01月12日 昌幸近江守按甲休兵
尻内城[皆川城  周辺城郭]



栃木市の尻内城。
佐野氏の一族佐野宗連が天文年間(1532~55年)に築いたと伝えられる山城です。
城の南は街道(現国道293号)が通り皆川領と接しています。東は壬生領・宇都宮領、西は佐野氏の本拠である唐沢山城へと通ずる道でした。尻内城は皆川氏と街道を監視する境目の城だったといえます。廃城は佐野氏が改易となる1614年と伝わっています。

さて尻内城は3つの城砦の集まりです。
・詰城
・本城 ※本アプリでは“尻内城”で登録済
・東出城
があり、当時の情勢や築城技術の進歩により増設され、中心が詰城→本城→東出城と移動していったと思われます。

こちらでは本城の紹介です。
主郭の正面(東側)は3〜4の段郭を構え、背後(西側)は3条の堀切を造っています。
段郭は現在不明瞭ですが、背後の堀切がはっきりしておりこの城の見どころですね。

車は星宮神社に駐車可能。ただし入り口が急で車高の低い車は擦ってしまう恐れがありますので注意して運転してください。
神社からのアクセスは、並行するゴルフ場の境界(低地)を歩き、途中から山に取り付きます。10〜15分で到着です。

【写真の説明】
①段郭下には浅くなっているが堀切がある
②主郭の段郭
③主郭。土塁があったようだ
④ 堀切1
⑤ 堀切1付近には腰郭が備わる
⑥堀切2。3条の堀切の中で一番大きなもの
⑦堀切2を下ったところから
⑧堀切3

2026年01月09日 昌幸近江守按甲休兵
尻内城(東出城)[皆川城  周辺城郭]



栃木市の尻内城。
佐野氏の一族佐野宗連が天文年間(1532~55年)に築いたと伝えられる山城です。
城の南は街道(現国道293号)が通り皆川領と接しています。東は壬生領・宇都宮領、西は佐野氏の本拠である唐沢山城へと通ずる道でした。尻内城は皆川氏と街道を監視する境目の城だったといえます。廃城は佐野氏が改易となる1614年と伝わっています。

さて尻内城は3つの城砦の集まりです。
・詰城
・本城 ※本アプリでは“尻内城”で登録済
・東出城
があり、当時の情勢や築城技術の進歩により、詰城→本城→東出城と増設し、中心も移動していったと思われます。

こちらでは東出城の紹介です。
主郭東側は堀切と土橋があり、堀切は竪堀となり竪堀の脇に多くの段郭を備えています。竪堀は登城道としても使われていたかも知れません。腰郭を通って遠回りするので主郭になかなか入ることができません。主郭西側も同様馬出しと竪堀兼登城道があり、先述の通り新しい時代の縄張りといえます。

車は麓の愛宕神社の脇が公民館になっており、そこに駐車可能です。10分もあれば到着しますが、がれ場の上に落ち葉がのった所を登るので多少注意が必要です。

【写真の説明】
①主郭東側の堀切と土橋
②竪堀と変わり脇には段郭
③段郭は下まで続く
④ 写真左上に上がっていく主郭への動線
⑤ 主郭西側の虎口
⑥西側虎口を出て馬出しのような小郭
⑦西側の竪堀兼登城道
⑧馬出しの下は岩盤地形

2025年07月15日 マグロ常陸介祐平
尻内城(東出城)[皆川城  周辺城郭]



佐野昌綱の一族の佐藤治部少輔宗連が天文年間に築城し、子の弥七郎吉連が居城したとされます。鍋山衆のお城としては、最前線にあり、永野川と葛生街道が交差する突き出た山地に築かれています。

東端部は愛宕神社が建つ郭(写真1枚目)、その先には凱旋記念碑のある小さな郭があります(写真2枚目)。神社から西側に延びる尾根の急坂を登ると石の祠がある細長い郭があります(写真3枚目)。その先には堀切(写真4枚目)で仕切られた主郭とされるやや広い郭があり、西側に3段の腰郭が確認できます(写真5枚目)。主郭の先端には虎口が設けられ(写真6枚目)、1段下に2段の郭があります(写真7枚目)。

小さな山城ですが、お城としての体裁は整っていました。こちらのお城は出城とされ、今回訪問していませんが、本城は500m程南西にあり、さらにその西に出城があるようです。埼玉苗字辞典では、佐藤宗連のお城を愛宕城としており(出典不明記)、棟札に宗連の名がある星宮神社もこの出城の近くにあります。本城も機会があれば、登城したいと思います。

2025年04月22日 左衛門督蛙喜
皆川城



公民館に車を止めて法螺貝のような山の頂上にある本丸目指し、八重桜とヤマツツジが満開のなか、心地良い春の風に包まれてゆるやかな坂道を登りました。展望台には皆川氏の寄贈ベンチがあり、遠くの山々まで見渡せてとても良い景色でした。

2024年09月16日 昌幸近江守按甲休兵
箱森城[皆川城  周辺城郭]



皆川城の支城とされる箱森(はこのもり)城。
字舘堅(やかた)という地名が残り、そこを中心に水路に囲まれた楕円形の区域が城跡とされます。北側に大沼、南に舘沼という2つの沼に挟まれ、当時は浮城のように見えたでしょう。城主は森戸氏とも長沼氏とも言われています。

1960年代の航空写真を見ても、付近はすでに農地となっていて城はかなり前に消滅してしまいました。水路を追っていくと話の通り楕円形になりました。当時の堀跡で間違いないでしょう。

【写真の説明】
①北側の堀跡1
②北側の堀跡2。写真を撮った位置には大沼があった。
③東側の堀跡
④西側の堀跡
⑤南側の舘沼跡。2010年代までは干上がっていたが整備され調整池として復活
⑥道路脇にある祠。位置は郭の真ん中。箱森城に関係するものだろうか?

2024年07月08日 武蔵守のむげん
皆川城



公民館の広い駐車場が利用可能。螺旋状の遊歩道を登っていくと本丸付近まで到達可能。道が舗装されているので、軽装でも十分登城できます。遺構は曲輪、切岸、竪堀など。

2024年06月21日 昌幸近江守按甲休兵
金剛寺[皆川城  寺社・史跡]



皆川城の南西にある慈眼山金剛寺。
皆川氏歴代の菩提寺です。

下野国の名族藤原秀郷を祖とする皆川氏は五郎秀宗の時にこの地に移りその子氏秀に至り皆川姓を名乗り、永享元年(1429)観音山に皆川城を築きました。
皆川広照は乱世を生き抜いた知将で、敵対する宇都宮氏と宇都宮氏を支援する佐竹氏の攻勢を防ぐため、北条氏政の養女を室に迎える事で北条方に属することを明確にします。また織田信長に馬を献上し、武田氏滅亡後上野に入った滝川一益と良好な関係を築いていたようです。
豊臣秀吉による小田原攻めでは、北条方として小田原城に籠城するも、家臣約100名を引連れ小田原城を脱出し秀吉陣営に駆け込みます。広照は秀吉から助命を認められ徳川家康に身柄を預けられます。
その後は徳川氏の家臣となり旗本として江戸幕府に仕えました。

皆川城の麓に建つ金剛寺は、城とセットで行って欲しいところです。
何より素晴らしいのは、戦国時代より遺骸は必ず菩提寺である金剛寺に葬られ一代も欠けることなく現在に至っていることです。

【写真の説明】
①お寺の参道
②本堂
③皆川家歴代墓標の入口
④歴代当主の墓が建ち並ぶ
⑤金剛寺から見える皆川城

2024年06月19日 マグロ常陸介祐平
大平山城[皆川城  周辺城郭]



北条氏照の北関東進撃に対して皆川氏照が佐竹氏の援軍とともに陣を敷いたお城です。大平山神社は焼け落ち、城は北条氏に占拠され、広照は草倉山に陣を移し抵抗しますが、徳川家康や佐竹義宣の薦めもあり北条氏に降伏、北条氏の養女を嫁に迎え宇都宮氏攻めでは北条方の先陣をつとめています。

大平山神社の東側の奥宮入口が入城口となります。少し山道を登ると奥宮のある曲輪があり(写真6枚目)、さらに進むと高さのある石垣が現れます(写真3枚目)。石垣の上の小さな曲輪には北側から登ることができます。その曲輪の西側には低い石垣がある腰曲輪があり(写真1枚目)、南東方向に下る尾根道を進むと、先には堀切があるようですが、神社の背後でもあり、人目につくため引き返しました。石垣まで戻り北に向かう尾根(写真7枚目)を進み、岩場の急坂を登ると左手に小さな祠のある曲輪(写真4枚目)、正面の一段上には本丸の虎口(写真5枚目)が現れます。本丸には富士浅間神社(写真2枚目)が鎮座し、二段構造(写真8枚目)になっており、帯曲輪で囲まれ、北西側には二段の小さな腰曲輪が確認できます。全体的に整備されており、見やすいお城となっています。

大平山には大平山神社、大曲駐車場、謙信平(上杉謙信が兵馬の訓練を行い景色に目を見張ったとされる)などの広い削平地が見られ、これらも曲輪として機能していた可能性もあるようです。

幕末には、水戸の天狗党が1ヶ月半にわたり大平山神社の塔頭の連祥院に陣をはっており、あじさい坂を登り切った鳥居の先には標柱が立っています。

大平山の麓にある大中寺(先人様が詳しく口コミされています)は、上杉謙信と北条氏康が同盟を結んだお寺として知られていますが、皆川氏に縁のあるお寺で、皆川氏照の孫娘の墓の他、家臣の川田氏や白澤氏、白石氏(佐竹氏の系統で岩瀬城主白石志摩守宗義の子孫と伝わるらしい)の墓があります。川田氏の墓碑にある因幡守や藤三郎は、金剛寺(皆川城の麓にある菩提寺)に伝わる譜代討死帳によると諏訪砦や草倉山で討死したとされており、北条氏との激戦を物語っています。白石氏の兎毛は栃木出張で討死、白澤氏の右馬助はそれ以前の川田原で討死しており、天正期の武士の厳しさがわかります。

大平山はアジサイの名所ですので、この時期の訪問がオススメです。

2024年06月06日 昌幸近江守按甲休兵
大中寺[皆川城  寺社・史跡]



太平山南麓にある大中寺は、はじめ真言宗の寺として久寿年間(1154~1155)に建てられましたが、その後、快庵妙慶禅師(かいあんみょうけいぜんし)が延徳元年(1489)に曹洞宗の寺として再興しました。
6世住職快叟(かいそう)が叔父だった縁で、上杉謙信はこの寺を厚く保護し、永禄4年(1561)焼失していた伽藍の修復を行いました。永禄11年(1568)謙信が関東の覇権を争っていた北条氏康と和議を結んだのもこの寺です。
そして徳川家康の信任を受けたこの寺は、江戸末期まで、曹洞宗寺院の管理にあたる三寺院(これを関三刹という)の筆頭の寺として天下に号令する地位にあり、江戸品川に宿所を置いて事務をとりしました。
また山門は江戸時代に皆川城の搦手門を移築したと伝わります。

歴史の通り古刹の威厳漂うお寺でした。
参道沿いの紫陽花が花を咲かせ始めていて綺麗でした。これからもっと綺麗になるはずです。
今回見逃してしまいましたが、「大中寺の七不思議」というのが伝わり、境内7箇所に説明板が設置されているそうです。次はそれも見に行こうかな。

【写真の説明】
①参道
②皆川城の搦手門の移築とされる山門。
③本堂1
④本堂2。一本の木から造った彫刻物が印象に残った。
⑤参道の巨杉

2024年05月05日 真田家に憧れる右京亮りか
皆川城



本丸まで遊歩道が綺麗に整備されており、とても登りやすく、登山が苦手な方でも子供でもそんなに疲れないちょうどよい距離♪立派な竪堀を見ながら楽しく攻城できました🏯⛰️

2023年11月14日 相模守新九郎
皆川城



コンパクトなお城です。段々に造成した帯曲輪と竪堀が見所です。

2023年06月16日 ᴿᴱᴰ副将軍
皆川城



技巧的で巨大な竪堀、横堀が特徴的な山城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。
築城年代には諸説があり、寛喜年間(1229年〜1232年)に皆川宗員によって築かれたと云われるが、白山台にあった別城ともされ、この皆川氏は1323年には断絶しています。
また、1394年に長沼氏一族の皆川秀光によって築かれたとも、1429年に皆川秀宗が築いたとも伝わりますが、ん1440年には皆川秀宗が皆川城を本拠地にしていたのは確かな様です。
皆川氏は、宇都宮氏に従属していましたが、小田原から北条氏政・北条氏直の父子が侵攻してくると北条氏に従いました。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐において、当主の皆川広照は小田原城に籠城します。皆川城は豊臣勢の上杉景勝に攻められ降伏。皆川広照は小田原城から脱出し、徳川家康の仲介で豊臣秀吉に降伏。助命され所領も安堵されました。
翌1591年、皆川広照は栃木城を新たに築いて居城とし、皆川城は廃城となりました。

見所
標高147mの城山に築かれており、皆川城址公園として整備されています。
別名の「法螺貝城」の名の通り、山頂に主郭を置き螺旋状に腰郭、帯郭を配する特徴的な縄張りです。
特に南西の巨大竪堀が中腹から麓まで落ちており、公民館が居館跡で大規模な空堀、土塁が残ります。
また、城域の南側は公園整備されていることに対し、北側は山城地形がそのまま残っており、西の丸から北に降りると三条の巨大竪堀、北東部の桝形、横堀と北側がメインとなりました。

行き方は、麓の皆川公民館を目標に設定。公民館の広い駐車場が利用でき、トイレもあります。
皆川城址公園として整備されており比高は80mくらいです。

※夏期であり堀には下草が茂り、天気が良過ぎたため写真はゼブラ化。全く映えてませんが良い山城です。

2023年04月23日 千葉相模守早雲
皆川城



城山に数え切れない程の曲輪が段々に展開され、所々に設けられた竪堀で横への移動を遮断しています。また要所要所に枡形を設け防御力を強化しています。

南面にある2つの竪堀は整備された道からよく見えますが、北面の三重竪堀は遊歩道から分け入り、足場は悪くなるのでご注意を。ですが、それに見合う素晴らしい遺構を見ることが出来ます。

整備された道を歩くも良し。道を逸れて木々に隠された遺構を探すも良し。楽しみ方はあなた次第!

1.駐車場の目の前に竪堀が姿を現す。
2.小さめの竪堀。
3.本丸北側斜面の段曲輪。
4.畝状の土塁かな?
5.本丸。城址碑と展望台があります。
6.三重竪堀①
7.三重竪堀②
8.南面の竪堀。

2022年08月03日 織田上総介晃司
皆川城

皆川公民館(栃木市役所皆川出張所)に駐車場あり。

主郭に向かうクネクネした道を登ると別名・法螺貝城と云われるのも納得できます。

主郭への道から脱線すると荒々しい城の遺構をみることができます。

2022年07月12日 大膳大夫しろし
皆川城



久しぶり2度目の攻城でしたがたっぷりと堪能しました。駐車場からの登り口に案内が有ります。反対側の鉄塔の先の虎口の痕跡の辺りも整備されているともっと良かったですが、7月の暑い時に行ってもよく草がはらってありとても見やすかった。本丸の展望台に吹く風が最高!

2022年02月12日 しゅう摂政
皆川城



皆川城は別名法螺貝城というらしいが。登城してみるとグルグルと回りながら登るのは法螺貝の形状そのものだと思います。また堀はなかなか深く、さらに竪堀もあり戦いの城だとわかりました。

2021年09月17日 オノマトペ
皆川城



9月は彼岸花がきれいでした。山の下から見上ると迫力がありますが、本丸まで道はゆるやかで登りやすい。地元の方も散歩にみえているようです。蛇がいたので、苦手な方は気をつけて。乗代雄介『皆のあらばしり』を読んで、興味を持って訪れました。

2021年04月28日 crea大宰帥
皆川城



駐車場は公民館にあります。コンパクトですが、山城の面影が良く残っていて攻めがいがありますよ。

2021年04月18日 マグロ常陸介祐平
皆川城



史跡公園として城山全体がほぼ裸山になっており遺構が確認しやすい状態です。本丸の山頂からは360度の展望が見渡せます。近くの金剛寺には皆川広照など皆川氏歴代の墓があります。


2021年02月05日 
金剛寺[皆川城  寺社・史跡]

皆川氏開祖の長沼氏~現代の一番最近亡くなった皆川氏子孫までの墓があります。ここまであるとこってなかなかないと思います❗皆川城見学したら、代々の墓を詣りして下さいな!

2019年10月03日 長森原
皆川城



車ではなく公共交通機関で皆川城へ行く場合は、栃木駅からコミュニティバス「ふれあいバス皆川樋ノ口線」を利用して、乗車20分・運賃200円で行くことができます。城址最寄バス停は「皆川郵便局前」です。
バスの本数自体は少ないので、事前に栃木市HPで最新の時刻表を確認しておく事をお勧めします。


2019年05月04日 ニジュウ上野介☆彡
竪堀[皆川城  遺構・復元物]



南西の堅堀。折れがあり横矢が掛かり敵の進入をしずらくしている。

2017年05月14日 mas.k上野介61th
皆川城

グルグルとサザエのように山を登ると頂上が本郭です。
後世に作られた道は登りやすくて良いのですがいくつかの郭が壊されているようで微妙な気持ちにさせられます。比較的簡単な縄張りですが、所々でしっかり遺構が残っているのがうれしいです。

2016年05月15日 土塁ルイ
皆川城

よく歴史本などで戦国期の築城について説明したイラストを見かけますが、実際の山城は樹木で隠れており、その遺構を見渡すことはなかなかできません。

皆川城は麓から、山頂(本丸)、階段状の帯郭や腰郭、竪堀、土塁等が確認でき、土の遺構好きにはたまらない城趾です。

また、東北道・佐野藤岡IC➡栃木IC間の左前方に至近距離で見ることができます。

この時期、下草も多くなってきましたが是非一度リアルで訪れてみて下さい。


2016年04月10日 まー兵部卿
皆川城

先人の駐車場が広いのは皆川地区公民館のことを言っています。そのため、この公民館を目指すといいでしょう。なお入り口がわかりづらく墓地に行ったりしてしまいました。竪堀はありますが復元ですが西桜平に行く途中に下に降りるところには堀切が残っています。ニノ郭付近には井戸跡があります。公民館の駐車場は居館跡であり土塁も残存。公園になっているため歩きやすいです。

2013年02月11日 【隠者】史学会帰新参
皆川城

栃木駅の近くにレンタサイクルがあり。詳細は駅観光案内所まで。自転車で皆川城まで30分ほどかかった。曲輪がよく残り、土塁、虎口、掘も残る。よく整備されている。

皆川城の周辺スポット情報

 竪堀(遺構・復元物)

 井戸と池(遺構・復元物)

 三重竪堀(遺構・復元物)

 皆川城説明板(碑・説明板)

 説明坂(碑・説明板)

 水戸天狗党大平山本陣跡の標柱(碑・説明板)

 尻内城(周辺城郭)

 大平山城(周辺城郭)

 箱森城(周辺城郭)

 尻内城(東出城)(周辺城郭)

 尻内城(詰城)(周辺城郭)

 金剛寺(寺社・史跡)

 おとら様の墓(寺社・史跡)

 大中寺(寺社・史跡)

 東宮神社(寺社・史跡)

 持明院(寺社・史跡)

 千手院観音堂(寺社・史跡)

 成就院(寺社・史跡)

 八幡宮(寺社・史跡)

 傑岑寺(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 栃木市皆川公民館駐車場(駐車場)

 栃木市おおひら歴史民俗資料館(関連施設)

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