皆川城(みながわじょう)
皆川城の基本情報
通称・別名
- 法螺貝城、螺貝城
所在地
- 栃木県栃木市皆川城内町
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 皆川秀光
築城年
- 応永元年(1394)
主な改修者
- -
主な城主
- 皆川氏
廃城年
- 天正19年(1591)
遺構
- 曲輪、帯曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口
指定文化財
- 市史跡(皆川城址)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
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皆川城の解説文
[引用元:Wikipedia「皆川城」の項目]
皆川城(みながわじょう)は、下野国都賀郡皆川、現在の栃木県栃木市皆川城内町にあった中世の日本の城である。栃木市指定史跡。
歴史・沿革
皆川氏の居城で、螺旋状にできていることから「法螺貝城」(ほらがいじょう)とも呼ばれる[1]。
当初、寛喜年間(1229年 - 1232年)に皆川宗員によって築かれたが、この皆川氏は元享3年(1323年)に断絶した。新たに勃興した長沼氏の血を引く皆川氏によって皆川城が築かれたが、その年代には諸説ある。かつては応永元年(1394年)に皆川秀光によって築かれたとされた[2]が、これには時間的矛盾が生じる。「皆川正中録」では築城主を皆川氏秀としているが、その父の皆川秀宗が築いたとも言われ[3]、皆川氏の菩提寺である金剛寺の案内板はこの説を採り、永享元年(1429年)の築城としている。
皆川氏は戦国時代に入ると、北の鹿沼城を攻略した宇都宮氏から圧力を受け、従属と離反を繰り返した。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、皆川広照は北条氏に与して小田原城へ篭城したため、皆川城は豊臣方の上杉景勝勢に攻められ、降伏した(戦わずに明け渡したという説もある)。しかし、広照は小田原城包囲直後に脱出して徳川家康の陣所に駆け込み、家康の取り成しによって豊臣秀吉に所領を安堵された。翌年、広照は本拠を栃木城に遷し、皆川城は廃城となった。
1964年(昭和39年)5月19日に皆川城址は市指定史跡となり、栃木市が管理している。現在、標高147メートルの城山に皆川城址公園が整備されている[4]。
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皆川城の口コミ情報
2023年11月14日 陸奥守新九郎
皆川城
コンパクトなお城です。段々に造成した帯曲輪と竪堀が見所です。
2023年06月16日 RED副将軍
皆川城
技巧的で巨大な竪堀、横堀が特徴的な山城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。
築城年代には諸説があり、寛喜年間(1229年〜1232年)に皆川宗員によって築かれたと云われるが、白山台にあった別城ともされ、この皆川氏は1323年には断絶しています。
また、1394年に長沼氏一族の皆川秀光によって築かれたとも、1429年に皆川秀宗が築いたとも伝わりますが、ん1440年には皆川秀宗が皆川城を本拠地にしていたのは確かな様です。
皆川氏は、宇都宮氏に従属していましたが、小田原から北条氏政・北条氏直の父子が侵攻してくると北条氏に従いました。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐において、当主の皆川広照は小田原城に籠城します。皆川城は豊臣勢の上杉景勝に攻められ降伏。皆川広照は小田原城から脱出し、徳川家康の仲介で豊臣秀吉に降伏。助命され所領も安堵されました。
翌1591年、皆川広照は栃木城を新たに築いて居城とし、皆川城は廃城となりました。
見所
標高147mの城山に築かれており、皆川城址公園として整備されています。
別名の「法螺貝城」の名の通り、山頂に主郭を置き螺旋状に腰郭、帯郭を配する特徴的な縄張りです。
特に南西の巨大竪堀が中腹から麓まで落ちており、公民館が居館跡で大規模な空堀、土塁が残ります。
また、城域の南側は公園整備されていることに対し、北側は山城地形がそのまま残っており、西の丸から北に降りると三条の巨大竪堀、北東部の桝形、横堀と北側がメインとなりました。
行き方は、麓の皆川公民館を目標に設定。公民館の広い駐車場が利用でき、トイレもあります。
皆川城址公園として整備されており比高は80mくらいです。
※夏期であり堀には下草が茂り、天気が良過ぎたため写真はゼブラ化。全く映えてませんが良い山城です。
2023年04月23日 千葉相模守早雲
皆川城
城山に数え切れない程の曲輪が段々に展開され、所々に設けられた竪堀で横への移動を遮断しています。また要所要所に枡形を設け防御力を強化しています。
南面にある2つの竪堀は整備された道からよく見えますが、北面の三重竪堀は遊歩道から分け入り、足場は悪くなるのでご注意を。ですが、それに見合う素晴らしい遺構を見ることが出来ます。
整備された道を歩くも良し。道を逸れて木々に隠された遺構を探すも良し。楽しみ方はあなた次第!
1.駐車場の目の前に竪堀が姿を現す。
2.小さめの竪堀。
3.本丸北側斜面の段曲輪。
4.畝状の土塁かな?
5.本丸。城址碑と展望台があります。
6.三重竪堀①
7.三重竪堀②
8.南面の竪堀。
2022年08月03日 織田上総介晃司
皆川城
皆川公民館(栃木市役所皆川出張所)に駐車場あり。
主郭に向かうクネクネした道を登ると別名・法螺貝城と云われるのも納得できます。
主郭への道から脱線すると荒々しい城の遺構をみることができます。
2022年07月12日 弾正少弼しろし
皆川城
久しぶり2度目の攻城でしたがたっぷりと堪能しました。駐車場からの登り口に案内が有ります。反対側の鉄塔の先の虎口の痕跡の辺りも整備されているともっと良かったですが、7月の暑い時に行ってもよく草がはらってありとても見やすかった。本丸の展望台に吹く風が最高!
2022年02月12日 しゅう関白
皆川城
皆川城は別名法螺貝城というらしいが。登城してみるとグルグルと回りながら登るのは法螺貝の形状そのものだと思います。また堀はなかなか深く、さらに竪堀もあり戦いの城だとわかりました。
2021年09月17日 オノマトペ
皆川城
9月は彼岸花がきれいでした。山の下から見上ると迫力がありますが、本丸まで道はゆるやかで登りやすい。地元の方も散歩にみえているようです。蛇がいたので、苦手な方は気をつけて。乗代雄介『皆のあらばしり』を読んで、興味を持って訪れました。
2021年04月28日 crea治部卿
皆川城
駐車場は公民館にあります。コンパクトですが、山城の面影が良く残っていて攻めがいがありますよ。
2021年04月18日 マグロ常陸介祐平
皆川城
史跡公園として城山全体がほぼ裸山になっており遺構が確認しやすい状態です。本丸の山頂からは360度の展望が見渡せます。近くの金剛寺には皆川広照など皆川氏歴代の墓があります。
2021年02月05日
金剛寺[皆川城 寺社・史跡]
皆川氏開祖の長沼氏~現代の一番最近亡くなった皆川氏子孫までの墓があります。ここまであるとこってなかなかないと思います❗皆川城見学したら、代々の墓を詣りして下さいな!
2019年10月03日 長森原
皆川城
車ではなく公共交通機関で皆川城へ行く場合は、栃木駅からコミュニティバス「ふれあいバス皆川樋ノ口線」を利用して、乗車20分・運賃200円で行くことができます。城址最寄バス停は「皆川郵便局前」です。
バスの本数自体は少ないので、事前に栃木市HPで最新の時刻表を確認しておく事をお勧めします。
2019年05月04日 ニジュウ上野介☆彡
竪堀[皆川城 遺構・復元物]
南西の堅堀。折れがあり横矢が掛かり敵の進入をしずらくしている。
2017年05月14日 mas.k上野介60th
皆川城
グルグルとサザエのように山を登ると頂上が本郭です。
後世に作られた道は登りやすくて良いのですがいくつかの郭が壊されているようで微妙な気持ちにさせられます。比較的簡単な縄張りですが、所々でしっかり遺構が残っているのがうれしいです。
2016年05月15日 土塁ルイ
皆川城
よく歴史本などで戦国期の築城について説明したイラストを見かけますが、実際の山城は樹木で隠れており、その遺構を見渡すことはなかなかできません。
皆川城は麓から、山頂(本丸)、階段状の帯郭や腰郭、竪堀、土塁等が確認でき、土の遺構好きにはたまらない城趾です。
また、東北道・佐野藤岡IC➡栃木IC間の左前方に至近距離で見ることができます。
この時期、下草も多くなってきましたが是非一度リアルで訪れてみて下さい。
2016年04月10日 まー刑部卿
皆川城
先人の駐車場が広いのは皆川地区公民館のことを言っています。そのため、この公民館を目指すといいでしょう。なお入り口がわかりづらく墓地に行ったりしてしまいました。竪堀はありますが復元ですが西桜平に行く途中に下に降りるところには堀切が残っています。ニノ郭付近には井戸跡があります。公民館の駐車場は居館跡であり土塁も残存。公園になっているため歩きやすいです。
2013年02月11日 【隠者】史学会帰新参
皆川城
栃木駅の近くにレンタサイクルがあり。詳細は駅観光案内所まで。自転車で皆川城まで30分ほどかかった。曲輪がよく残り、土塁、虎口、掘も残る。よく整備されている。