壬生城(みぶじょう)
壬生城の基本情報
通称・別名
- 馬蹄城
所在地
- 栃木県下都賀郡壬生町本丸1-8-33
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 壬生綱重
築城年
- 文明年間(1469〜1487)
主な改修者
- -
主な城主
- 壬生氏、結城氏、日根野氏、阿部氏、三浦氏、松平氏、加藤氏、鳥居氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(水堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 二の丸門、説明板
周辺の城
-
児山城(栃木県下野市)[5.4km]
薬師寺城(栃木県下野市)[7.1km]
御城(栃木県小山市)[7.5km]
栃木城(栃木県栃木市)[7.6km]
西方城(栃木県栃木市)[8.6km]
横田城(栃木県宇都宮市)[9.3km]
上三川城(栃木県河内郡)[10.6km]
皆川城(栃木県栃木市)[10.8km]
犬飼城(栃木県宇都宮市)[12.0km]
小山城(栃木県小山市)[12.2km]
壬生城の解説文
[引用元:Wikipedia「壬生城」の項目]
壬生城(みぶじょう)は、栃木県下都賀郡壬生町にあった日本の城。江戸時代には下野国都賀郡、壬生藩の藩庁が置かれた。
概要
1462年(寛正3年)に壬生氏の始祖壬生胤業が、この城より北西にある常楽寺の西側・柵の内と呼ばれる場所に館を建てる。俗に壬生古城という。
文明年間(1469年-1486年)に壬生氏第2代当主壬生綱重によって築かれたとされる。
1590年(天正18年)小田原征伐で壬生氏第5代当主壬生義雄が病没し、壬生氏が滅んだ後は小山氏の旧領も併せて結城秀康の所領となった。
1600年(慶長5年)に結城秀康が越前に移封すると日根野吉明が1万5千石で信濃高島城から入封した。
1634年(寛永11年)には阿部忠秋が2万5千石で武蔵から入封した。
1639年(寛永16年)には三浦正次が2万5千石で下総矢作から入封した。
1692年(元禄5年)には松平輝貞が3万2千石で入封した。
1695年(元禄8年)には加藤明英が近江水口から2万5千石で入封した。
1712年(正徳2年)には加藤明英と所領を交代するように近江水口から鳥居忠英が3万石で封じられ、この後、明治維新まで鳥居氏8代の居城として用いられた。
天守や櫓はなく、比較的簡素な作りの城郭だったが、本丸御殿は江戸時代初期に将軍の日光社参の宿舎に用いられていた。
廃城後
明治維新での廃城後は、壬生では城跡は壊すのが良しとされ、本丸を残して堀や土塁は消滅して農地や宅地となった。本丸も1927年(昭和2年)に鳥居家の別邸が落雷により焼失後、鳥居家から壬生町へ寄付された。壬生町では公園が計画されていたが、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)に中学校用地として堀と土塁は西側と南側を残して青年団の勤労奉仕により削り埋め立てられ整地された。その後、2度に渡る校庭の拡張により本丸西側の堀と土塁が消滅。1986年(昭和61年)の中学校移転と前後して、1984年(昭和59年)から1987年(昭和62年)まで本丸や二の丸などの発掘調査が断続的に行われたが、あくまで記録保存のためであり、調査後は町立図書館や大ホールを備えた中央公民館、歴史民俗資料館、駐車場に整備された。残りも城址公園として再整備することになり、噴水が造られたほか最後まで残っていた本丸南側の土塁や堀は1989年(平成元年)に整形した石を組み合わせた石垣風に作り変えられ、廃城時の面影はなくなった[1]。
遺構
移築された城門が鹿沼市と小山市の民家に残る。
2020年(令和2年)に壬生城大手門(現在の足利銀行壬生支店付近)の礎石のうち5基が現存していることが判明。内訳は町内の民家2軒に3基、本丸の精忠神社に2基である。2021年(令和2年)に民家敷地にあった3基が城址公園内の芝生に移設された[2]。
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壬生城の口コミ情報
2024年11月17日 マグロ常陸介祐平
壬生城
京の地下官人、小槻姓の壬生胤業が、壬生の地に下り土着し、2代目の綱重が文明年間に築城したとされるようです。小田原征伐時に北条氏に属した義雄が病没して壬生氏が断絶すると、結城秀康の所領となり、慶長5年に秀康が越前に移ると近世大名として日根野氏が入ります。阿部氏、三浦氏、松平(大河内)氏、加藤氏と藩主は目まぐるしく入れ替わり、正徳2年(1712年)に鳥居氏が入り、幕末まで定着します。
現在は、本丸付近に公園化により改変された土塁と水堀(本来は空堀)が見られます。土塁の外側はいかにも作りかえましたという外観ですが、内側は当時を偲ばせる雰囲気を感じます。
江戸期の絵図が多く残っており、広大な城域で、本丸は三重の堀に守られていたことがわかります。また、別名を本丸のかたちから馬蹄城と呼ぶようですが、三重の堀のさらに外郭にあった追手門前の丸馬出が特徴的なお城で、その形から名ずけられたようにも感じられます。
本丸の北側に建つ常楽寺は、初代胤業が居住した古城付近に壬生家の菩提寺として創建されたお寺で、壬生氏歴代の墓(五輪塔三基)や最後の藩主鳥居氏の墓(合祀)があります。
2024年10月14日 さと
壬生城
城跡の土地には図書館や歴史博物館や市民ホールなどがあって、その中の歴史博物館には、よくある昔の生活の歴史などの展示よりも、壬生に縁のあった有名な方々の話や城内外の様子などの説明があり、思いのほか長く滞在していました。1階の事務室では壬生城の御城印(300円)が売ってました。お堀跡には鯉たちが泳いでいて、水も綺麗でした。
2024年09月23日 ハニワ右大臣
壬生城
公園としてしっかり整備して、図書館や資料館等があります
2024年05月08日 左近衛少将軍曹
壬生城
本丸の改変された土塁と堀だけかと思ってたら意外に遺構があった
2024年01月25日 RED副将軍
壬生城
公園化された壬生氏の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
文明年間(1469年〜1487年)に壬生綱重により築かれたと云われます。
壬生氏は、京都の下級公家である小槻氏の庶流とされ、1462年に壬生胤業が下野国都賀郡に下向したのが始まりとされます。また宇都宮氏庶流である日光山の横瀬氏一族ともされ諸説あります。
宇都宮氏に属しながら勢力を拡大し、永正年間(1504年~1520年)には壬生胤業の嫡男である壬生綱重が鹿沼氏を降して鹿沼城に本拠を移し、壬生城には子の壬生綱房が入城。
壬生氏は鹿沼領を侵食し、日光山御神領惣政所職として日光の経済的支配権も掌握したことにより戦国大名化しました。
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐において、壬生義雄は北条方としと小田原城に入城。しかし壬生義雄は小田原で病死したことにより、嫡子が無かった壬生氏は断絶。
北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入封すると壬生城には結城秀康が入城。
江戸時代になると日根野氏、阿部氏、三浦氏、大河内松平氏、加藤氏と目紛しく城主が入れ替り、
1712年に鳥居忠英が入封すると鳥居氏が8代続いて明治を迎えました。
見所
黒川と思川に挟まれた台地上に築かれた平城。
本丸が壬生城址公園として残り、本丸以外は壬生中学校の敷地や市街地となり消失。
往時の本丸は土塁と空堀が周囲を巡っていましたが、空堀は水堀となり公園化による改変を受けています。
2022年09月12日 マグロ常陸介祐平
箕輪城[壬生城 周辺城郭]
寛正3年(1462年)に小山高朝により築城されたと考えられているようです。永禄元年(1558年)に落城したと伝わるようで、この地域では、5月の節句に鯉のぼりを揚げない風習があるようです。
お城は、2つの曲輪で構成され、本丸と思われる神社のある南の曲輪には、東側を除く三方に土塁が残っています。北の曲輪との間には深い空堀も見られます。北の曲輪は私有地のようなので立ち入りませんでした。城址の入口まで車で行けますが、道が細いため200m程バックで戻ることになりました。
2022年05月30日 国府左京大夫城介
細井城(光明寺城)[壬生城 周辺城郭]
小山一門の細井光明が築いた平城
【歴史】
弘治2年(1556)に、小山高朝が細井光明に命じて築かせた。しかし、永禄3年(1560)に壬生氏に攻められ、細井光明は戦死し、落城した。天正年間に、光明の菩提を弔うために跡地に光明寺が建立された。
別名:光明寺城、家中城
【遺構】
壬生城から西に3.4kmに位置する方形の平城で、現在は光明寺となっている。主郭を囲う土塁に、その外側に空堀が掘られている。主郭の北東隅には櫓台がある。往時は更に外郭があったようだが、東側から北側にかけて残っているのみである。また、外郭の外側にも空堀が一部残っている。
【感想】
典型的な平地にある平城で、廃城後は寺院に転用されたパターンです。主郭周りの遺構は破壊されたところもありますが、概ね良好に残っています。外郭部は小学校や農地開発により半分以上なくなっていますが、残っている部分の外縁部には土塁もしっかりと残っています。
城の構造としては、主郭・堀・外郭・堀となっており、二重堀で守っていたようです。ただ、城の南側にある道路に接する部分で城側が若干低くなっている場所があり、もしかすると、更に外郭がもう一重あったのかもしれません。個人的な意見ですが、現状の遺構の規模だと、少なくとも宇都宮氏や壬生氏と対峙するために小山氏が築城させたにしてはあっさりとしすぎのような気がします。しかし、歴史的な事実としては、築城して四年で落城しているので、この位の規模でもおかしくはないかもしれませんが。
【アクセス】
東武日光線家中駅から徒歩15分。
光明寺の駐車場を利用可能。
【写真】
①光明寺正門
②主郭西側の空堀
③主郭北側の空堀
④櫓台
⑤主郭(光明寺)
⑥外郭
⑦外郭の空堀
2021年06月11日 中村 為之丞
壬生城
下台郭には 八幡宮があります。
ここは 当時の壬生城内で 現存する土塁の 上に建っています。
旧藩主の鬼門除けの祠。
昭和初期までは 掘りが 残ってました。
壬生藩士 中村為之丞、中村為綱(ためづな)の 旧家が この北東に ありましたが
現在は 分譲されています。
中村家は 国指定史跡になった 牛塚古墳を 昭和初期まで所有していました。
2021年03月08日 ダイナゴン
壬生城
壬生町歴史民俗資料館で鳥居氏関連の展示、また、精忠神社は鳥居元忠を祀り、畳塚があります。
2020年12月26日 備中守ダンゾウ
壬生城
城址公園として整備されていて、敷地内には郷土歴史館もあります
駐車場完備です
2020年08月14日 中務大輔たろさ
壬生城
町の中心部にある、今は公園となっている平城です。散歩コースにはオススメです。
2020年07月12日 真田上野介信吉
壬生城
時間的に余裕が無く、リア攻め出来ない場合でも、道の駅『みぶ』(高速道路兼用)にて御城印だけを買うことも可能です。
壬生城と御城印デザインについての説明書が封入されています。
※1枚300円。
2020年05月07日 恭任非参議侍従
精忠神社[壬生城 寺社・史跡]
せいちゅう、と読みます。
壬生藩鳥居家の祖、鳥居元忠公を御祭神とする。
説明するまでもないが、鳥居元忠の捨て身の奮闘は、後々その偉大な功績に免じて、鳥居家を改易の危機から救っている。鳥居家にとって、文字通り(守り神)となっているようだ。
また、社殿の後ろにある「畳塚」にもエピソードがあるのだが、あまり知られていないのが残念。
御朱印は本務神社である、雄琴神社で頂くことができるようになりました。(もちろん雄琴神社の御朱印もある。)
2020年01月04日 【籠城中】下野守智ぞう
壬生城
遺構はあまりなくビジュアル的にはちょっとな城ですが、歴史はかなり深いです。栃木オフ会としてはいつかここでやれないか?と民俗資料館の方にお尋ねした所、
任せてください!スペシャリストいますんで!と言われました~✨
かなり期待出来そうです✨
2019年12月15日 真田左衛門佐信繁
壬生城
現在は資料館や図書館があり、壬生中央公民館、壬生城址公園となっていますが……40年ほど前は、壬生中学校でした。
2014年05月11日 土塁ルイ
壬生城
駐車場完備の整備された公園です。
城内にある精忠神社は鳥居元忠を祀った神社で、伏見城→江戸城伏見櫓→精忠神社へと伝えられた鳥居元忠自刃の畳が埋められた「畳塚」があります。
2012年06月16日 尻啖え孫市権中納言
壬生城
城趾としては、あまり期待しない方がいいです。水堀には錦鯉と綺麗な現代建築石垣。