西方城(にしかたじょう)
西方城の基本情報
通称・別名
- 鶴ケ岡城
所在地
- 栃木県栃木市西方町本城
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 西方景泰
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 西方氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、竪堀、枡形虎口
指定文化財
- 国史跡(西方城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
不摩城(栃木県栃木市)[7.9km]
壬生城(栃木県下都賀郡)[8.6km]
皆川城(栃木県栃木市)[9.0km]
加園城(栃木県鹿沼市)[10.2km]
鹿沼城(栃木県鹿沼市)[10.8km]
栃木城(栃木県栃木市)[11.1km]
犬飼城(栃木県宇都宮市)[12.2km]
児山城(栃木県下野市)[12.2km]
横田城(栃木県宇都宮市)[12.7km]
御城(栃木県小山市)[13.1km]
西方城の解説文
西方城の口コミ情報
2024年10月28日 _ClaD雅楽頭夏でも山城
真名子城[西方城 周辺城郭]
墓地の後ろを通る登城路は草木が伸びて狭くなっており、最初は道と気づかずに通り過ぎてしまいました。
石切り場と二重堀切へは主郭からの道が見つけられず、途中で日が暮れたので別の日に再訪。無料パンフレット(円満寺の薬師堂にありました)の散策マップを見ながら「出口」と書かれた場所を探して下から行ったら、標識などはないものの、あっさり発見できました。ただし倒竹多数で歩きやすいとは言えず、そこから主郭への道も笹が多くて見つけにくい状態でした。
マップに記されたルートは墓地裏から登って二重堀切の脇を下りてくるというものですが、もう少し整備していただかないと、そのルート通りに歩くのは現状ではちょっと難しいかと思います。
2024年10月03日 昌幸近江守更に吉
二条城[西方城 周辺城郭]
西方城から東に伸びる尾根、平野部を見渡せる所に築かれた二条城。
二条城という名は、「新城(にいじよう)」もしくは「御城(みじょう)」が変化したものとされます。戦国時代にはすでに西方城の出城として存在しており、慶長8年(1603)に藤田能登守信吉が西方を領し西方藩が成立すると、改修され陣屋が置かれました。しかし大阪の陣で失態を犯し慶長20年(1615)改易。二条城も廃城となってしまいます。
縄張りは主郭を数段の腰郭で囲んだ輪郭式で、それぞれ高い城壁で守られています。主郭は鉢巻石垣が普請され、また北西隅には櫓台も残っています。陣屋の施設が置かれたであろう広い郭が2箇所あります。また現在ゴルフ場との境界にあたる西側尾根伝いは、巨大な二重の堀切を掘って、遮断しています。北側斜面には堀を設けて敵の斜面移動を抑えています。折れを伴う虎ロも複数あり大変技巧的です。
西方城のおまけみたいな扱いでは本当に勿体無い!趣向が違う城ですので、二条城もしっかり楽しんでもらいたいです。
※西方城の駐車場の隣の沢を渡ったらもうそこは二条城です。アクセス良好♪
【写真の説明】
①開山不動尊の奥の見映えする虎口。大手口にあたるのかな。
②段差をつけた腰郭が連なり、ひと工夫凝らしている。
③主郭南側の腰郭
④笹薮で分かりづらいが西側の二重堀切
⑤ 高い土塁に囲まれた主郭東側。最終防衛線という気合いを感じる。
⑥主郭の鉢巻石垣
⑦内側も石で補強していたようだ。
⑧主郭櫓台
2024年09月30日 尻啖え孫市権中納言
西方城
往路20分、城散策30分、帰路15分という感じ。急な坂もあるがまあまあお手軽登山で行ける。途中の竹藪は日光届かず暗い。いきなり不気味な井戸のような洞穴があるのはびびった。中に獣が住んでそうな感じですぐに退散した。帰路は奥まで進んでも道が整備されていなくて戻れず来た道を戻らないと行けない。登山道は整備されているが途中て倒木や滑りやすい坂もありトレッキングシューズが必要。また杖もあると便利。長袖長ズボンも。蜘蛛の巣も注意。藪の中なので冬の訪問がベターかも。イノシシ注意の看板多数で山麓の畑にはイノシシ対策の網が張り巡らされている。本丸などの地面もイノシシが根を食べるのか掘り返したであろう穴がボコボコしている。見所多いと言われているが経年劣化があり堀や土塁も浅く期待した割にはそれほど…と感じた。守谷城の方が見所がたくさんと感じた。あくまでも個人的意見。
2022年10月01日 カネゴン大膳大夫
西方城
山麓の二条城とセットがオススメです。見どころの説明板を見ながら遺構を堪能できるのも良いです。トレッキングポールあると便利です。写真は西方城 北側の堡塁です。
2022年08月03日 織田上総介晃司
西方城
長善寺を目指して進むと西方城の案内板が何ヶ所か現れますので迷うことなく行けると思います。
西方城見学者の駐車場があり、パンフレットも置いてあります。
砂防ダムを目指し、長善寺の裏手に登城口があるので右折。(案内板があるので迷うことはないでしょう)
城内は整備されており見どころポイントの說明板も随所にあるので遠方めぐらーや初心者にも優しい城です。
リア攻め後は道の駅近くの栃木天然温泉いきいき夢ロマンという入浴施設で疲れを取るといいでしょう。
2022年08月02日 織田上総介晃司
二条城[西方城 周辺城郭]
最初に断わっておきますが京都の二条城ではなく栃木の二条城です。
西方城の駐車場からすぐ登城口があり、迷わず本丸までたどり着くことでしょう。
下野には珍しく石積を利用している。
西方城に来たら併せてリア攻めすべき城です。
2022年07月05日 たんぼ
西方城
数度目の攻城です。
攻城の記録は皆さん残していらっしゃるので違う視点から。東武金崎駅で下車して、西方城を目指します。途中、ルート上にある西方公民館に立ち寄りました。西方城の精密な模型、西方を含む栃木関する歴史書が展示されており、ゆっくり読める休憩スペースが設置されていました。
パンフレットもあり、見どころが細かく記載されているので、攻城時は必ず携帯しましょう。
特に初攻城では絶対にあった方がいいです。
公民館には自動販売機もあり、攻城前後の拠点として最適かと思います。城跡は、以前は見つけられなかった石積みが確認できました。水路あとの暗渠もありましたが、看板等なくわかりづらい。
公民館には帰りも立ち寄りましたが、攻城後、歩いてきた西方城を俯瞰で見ながら飲むお茶は格別でした。
2022年02月22日 RED副将軍
二条城[西方城 周辺城郭]
二条城といっても、栃木県のじゃない方の二条城です。
西方城のすぐ近くですが、こちらも必見です。
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。元々は西方城の支城であったとの説が有力です。小田原征伐後に西方領は結城秀康に与えられましたが、関ヶ原の戦い後に結城氏は越前国に移封。その代わりに、関ヶ原では上杉軍から徳川軍に鞍替えした藤田信吉が入封。西方城の南東側の標高150mの丘陵上に二条城として新城を築きました。しかし、大坂夏の陣で失態し改易。西方藩も廃藩となり廃城。
見所
主郭の東下は横堀状の曲輪で北側に虎口が開口しています。主郭切岸は高低差、鋭さともにかなりのもの。主郭を巡る土塁に関東では珍しい石積みが残りますが、訪城当日は発掘調査で本丸に立ち入りできず😿
行き方は、西方城を目指してください。西方城の駐車場からすぐです。
2021年09月29日 アッサー
西方城
思ったより、整備されていて歩きやすく、遺構も残っていて、ワクワクします。江戸期の二条城は、発掘の最中でした。これからもっと注目される城跡だと思います。
2021年04月22日 副将軍お城エリコ
真名子城[西方城 周辺城郭]
西方城から0.9km行った県道37号線より東に300m行った墓地の所に登り口が有ります。防獣フェンスを開けて入って行きます。最初の堀切、二番目の堀切と続きます。半円形の堀切。その奥に竪堀。藪がひどく竪堀は確認出来ず。進ん行くと主郭に到着。石切場と二重堀切は、足場が藪がひどく道が解りませんでした。残念です。
2021年04月22日 副将軍お城エリコ
二条城[西方城 周辺城郭]
西方城の南側に二条城が有りますが、鹿駆除の為今は、城跡に入る事が出来ません。
2021年03月25日 皆川志摩守
西方城
本丸への通路は比較的整備されていますが攻めるのは冬場のほうがいいかと
2021年03月03日 【籠城中】下野守智ぞう
粟野城[西方城 周辺城郭]
奪われ、奪っての激戦の城であり、最終的に城を治めた皆川広照は北条に属していた為に、秀吉の関東攻めに真田・上杉軍に攻められ落城😖💦
縄張りは2つの尾根にある曲輪、尾根に囲まれた感じで段曲輪がある。攻め手は段曲輪から上がってきて、2つの尾根から攻撃を受けさらに本丸方面からも攻撃を受け、一網打尽って感じかな‼️
あるメグラーさんは粟野城をまるで七尾城のよう!と言っています
城中腹に皆川広照配下の粟野城城主の斎藤秀隆さんの墓がひっそりありますので是非御詣りしてあげて下さい
本丸まであがりさらに上に物見台があり、第二次大戦の時にソ連軍の爆撃機を見張る施設跡も残っています。
それだけに眺めは最高‼️なので是非登って見てください。
粟野城矢倉台に謎の天守閣、ローラー滑り台がありますので、最高に楽しいのでお尻が熱くなりますので敷くものを持参で楽しんでみてください!
2021年02月08日 三輪左近衛少将直虎
布袋山城[西方城 周辺城郭]
布袋岡城は戦国時代に皆川氏が築いた山城です。皆川氏の勢力圏の最前線にあり眼前は敵国である宇都宮氏の勢力圏が広がる要衝でした。戦国時代末期に宇都宮国綱の攻撃により布袋岡城は落城し皆川広照は命からがら山伝いに逃走したと伝わります。
山への入口がわからず東側から直登しましたが、西側から道があるようです。尾根を登り切ると城跡らしい雰囲気がしてきて山頂で本丸跡の案内表示を見つけて安心しました。帰路は同じ東側へ下り往路とは別の尾根を選択しましたが、これが正解で広々とした段郭に堀切、横堀といった遺構が目白押しでした。全体的に遺構はよく残されていますが、麓近くは民家敷地となるので敷地に立ち入らぬように注意しましょう。
2021年02月08日 三輪左近衛少将直虎
真名子城[西方城 周辺城郭]
戦国時代に宇都宮氏が皆川氏に備える支城として重臣の岡本秀卓を城将とした山城です。付近は宇都宮氏と皆川氏の勢力範囲が接する土地で実戦を強く意識した城が多く残されているのも興味深く思いました。
南麓から登山口があり道標も案内板も設置されているのがありがたいです。見知らぬ土地の山城へ登るときには登山道の入口がわからないと無駄の時間を費やしてしまいますが、真名子城へ登る者への配慮はとても親切に思えました。城跡の周りはゴルフ場に取り囲まれていますが、建設時に真名子城や西方城は保存されるような配慮がされたようで、今も素晴らしい遺構を目にすることができます。
南尾根から登る途中にはいくつかの堀切があり主郭は木々に遮られて眺望こそ利きませんでした。帰路は西斜面を下り豪快な二重堀切を見ることができました。西麓には根小屋跡も残ります。
2021年01月11日 篠沼大膳大夫義久
西方城
東北道下をくぐり、長徳寺手前に城跡見学駐車場あり。昔は薮城だったみたいですが、綺麗に整備されてまして、フィトンチッド効果を得つつ、不思議な穴を横目に曲がり竪堀を上るとこからは感動の嵐。とにかく素晴らしく、また来ようと思いました。
2020年12月20日 龍馬備中守【】
神楽岡城[西方城 周辺城郭]
栃木県の都賀町にある神楽岡城♪南北に伸びる独立台地上の上に位置します☆
歴史は不明点が多くて西方城を築いた西方氏に属した城と伝わります☆西方氏の一族の藤平紀伊守泰隆の居城だったとされています☆南側にある三之宮神社も藤平紀伊守泰隆の勧進によるとされていて戦国時代末期には皆川広照の支配下にあったが布袋岡城と共に宇都宮国綱に攻め落とされています☆
【歩いてみて感じた事】
北側の主郭方面に向かうに連れて台地は高さを増していきます☆北側先端に主郭を構えた連郭式は周りを横堀(堀底道)で遮断☆副郭、三郭、四郭は主郭から伸びる横堀(堀底道)を廻してグルリと囲い込みます☆この副郭、三郭、四郭は同列に位置しているのですが、一段高い場所で主郭に近い部分が副郭だと思われます☆副郭の下、三郭の南側には同様に主郭から続く横堀がグルリと廻り、もう一つ独立した郭があります☆馬出し状で造られてはいるのですが郭の脇には出撃する動線は片方のみで、これは馬出しでは無く、あくまで南側から攻めて来た寄せ手に対して高い位置から射撃する為の踊り場と思われます☆見た目としては確かに馬出し状で表現するならば片馬出しという表現が良いかな〜?そんな造りをしています☆恐らく兵移動の動線と思われます☆更にこの独立した郭の南西側には大きな郭が配置されていてこの郭の輪郭部に土を盛った古墳群があります☆恐らく櫓台として使われていた物と思われ、この郭下にはもう一段、長い郭を持ちます☆下から這い上がってくる寄せ手をこの櫓台と思われる場所から狙い撃つ事ができます☆
大手か❓という印象を受けました☆ただし、三之宮神社の北東側にも城内への動線がありこちらを通ると副郭、三郭、四郭へ繋がる道がある☆ので…こちらが大手本命かな☆
2020年12月19日 龍馬備中守【】
二条城[西方城 周辺城郭]
栃木県の栃木市にある二条城♪西方城と山続きの南東側の尾根先に位置します♪
二条城が築かれた時代は不明ですが関東には珍しい石積みが残る城郭で近世時代に入り使用されていたという事と見て取れます☆
ただし、元々はその場所に合った?西方城の支城、別城と言うよりは距離を見た時に西方城の一部だと感じました♪
それを関ヶ原の合戦後に入城した藤田信吉が改修して城として造り込んだ(私感)☆理由としてはこの二条城側が西方城の大手口に当たる為こちら側も何らかの形で造り込む必要がある事☆尾根を進み西方城へ入城していた事を考えるとスペース的に平時は居館跡として利用(二条城)有事の際には背後の山(西方城)へ籠り戦っていたのかも知れません☆何にせよ元々の形からは戦国動乱期に改修拡大を重ねた事で戦闘要塞と造り変わった事でしょう☆戦国期末期の顔をしています☆久々に行った二条城の藪は綺麗さっぱり☆素敵な城郭へ整備されておりました〜♪
あっ🤭石積み撮り忘れた🤣😂
2020年11月25日 M.I
西方城
木々の葉は落葉し、発掘調査のため木々が斬られており、城域が非常に見やすくなっており、正に今が見学のチャンスです。途上路途中を左に折れると、同じく発掘調査で綺麗になった二条城も見られます。特に主郭では土塁内外で石垣を堪能。西方城では、必ず縄張り図を持参して、現地で突合しましょう。土の城の良さが体感できます。特に北の丸前の馬出しの曲線は感動です。近くには真名子城もあります。
2020年11月12日 ️
二条城[西方城 周辺城郭]
関ヶ原の戦いで上杉家から徳川家に鞍替えした藤田信吉が城主です。
上杉贔屓にはそれだけでも攻める理由は十分ですが、西方城の駐車場からわずか数十m登るだけで、石積を配した土塁囲みの主郭と出会えます♪
コスパ高めで、今ならダニだらけだった薮もありませんので、お早めに攻めてください(^-^)/
2019年12月08日 森 可成
西方城
2019/12/08現地初登城。
Googleマップで確認された方はお気づきとは思いますが、周囲はゴルフ城…じゃなかった、ゴルフ場で囲まれています。
西の丸が消滅とありましたけれど、ゴルフ場の造成と無関係ではないと勘ぐってしまう。
実際、西方城及び二条城は官有地ではなく民有地だそうで…(2019/11/23説明会より)。
先達も言われてますけれど、長徳寺の側の登城者用駐車場を使うのがベスト。
只、駐車場へ至る道は幅員が狭く、対向車来たらすれ違えません。
加えて2019/12現在、砂防堰堤の築堤工事が行われているので、平日登城を予定している方は、工事車両の通行も念頭に入れておくと良いでしょう。
後…本丸から南ノ丸の間、枡形虎口の辺りから、西側のゴルフ場へ抜け出る所がありますけれど、2019/12/08登城時、熊か猪を捕獲する為と思われる罠が設置されていましたので、念の為注意を。
2019/12現在、西方城城及び二条城の一部で発掘調査が行われています。
但し、2019/12中旬辺りで調査を終了し、掘削部を埋め戻す予定との事なので、現況確認したい方は御早めに。
登城前は、土の城のイメージでしたけれど、説明会等での情報もあって、要所では石垣(規模的に石積の表現の方が妥当?)を用いてる様子が散見されます。
北の丸北側の虎口看板周辺や、本丸南側、八幡神社から南ノ丸へ至る道の周辺等に、不自然に転がる(置かれている?)石があるので、それらに注目です。
2018年11月14日 カーネル
西方城
東武金崎駅から西に行きたいが、改札は東にしかないので、200m北上して踏切を渡る
最初は住宅があるけど、抜けると眺めがよくなり、前方に横たわる山へ向かう。一番高いところに一部凹んでいるこころがあり、そこへ登ることになります
県道117号を進み、大沢田という白い看板で左折し、西方城の案内を頼りに右左折を繰り返して、長徳時を目指す
境内には城の見取り図もあります。山道を登ると「見どころ①~⑧」があるので、順番に見てまわる。案内・看板が充実しているし遺構もくっきりでした
一番奥が東の丸で、北に道を戻るつもりが右に道があるので、先に進むと登ってきた道にショートカットできました
1周するコースが、ありがたいお城でした。見どころが多く見学に時間を要し、駅から往復して130分でした
2016年04月10日 まー刑部卿
西方城
先人の言われる通り長徳寺(現在工事中)を目指すといいですが途中から案内表示板が出ています。お寺の手前に三段の駐車場(アスファルト舗装)があります。お寺の前に縄張り図と共にパンフレットもあります。お墓の脇から登城出来、途中からも案内表示板があるので迷わず行けます。パンフレットにも書かれていますが窯焼き跡を通り過ぎれば城跡はすぐそこです。また堀跡や虎口の表示板もあります。なおそばの二条城(西方藩陣屋跡)は駐車場はなく田畑荒らす動物を避けるため網目のブルーシートが東北道下(トンネル)に掛けられています。西方城訪城専用駐車場に停めて歩いて行かれるといいです。徒歩10分くらい。開山不動尊裏から立ち入ることが出来ますが本郭跡は手入れが入ってなく藪化しているため鎌など持っていくことをお勧めします。石垣が残っているようですがわかりませんでした。
2014年05月06日 土塁ルイ
西方城
東側から東北道をくぐり、直進した左側に訪城者用の駐車場があります。遺構の残存状態や縄張りなど予想以上に堪能できました。縄張図持参での訪城をお勧めします。
遺構
標高約221mの城山山頂に築かれている。西側と南東側はゴルフ場となり一部破壊されているが、主要部はよく残り、県内屈指の見ごたえある城といえる。深い堀切や断崖のような切岸が印象的だ。最大の特徴は縄張で、屈曲する竪堀をはじめ、堀や土塁を巧みに使うことで通路を折り曲げてある。枡形虎口も多く、道筋を複雑化することでくまなく横矢を掛けている。
駐車場となっている長徳寺から遊歩道がついており、屈曲する竪堀を抜けると北の丸北側の馬出に至る。馬出には大規模な横堀がめぐり、その北側は水の手になっている。
北の丸からは、南に向けて空堀で区切られた曲輪が並び、最高所が主郭となる。北の丸から二の丸に至る虎口も、見どころのひとつ。主郭南側の南の丸に至る道筋も虎口をはじめとして屈曲した道筋が続き、高い土塁や空堀とともに見ごたえがある。
主郭の東側尾根にも曲輪が続く。主郭から東の丸への道筋にある連続する枡形虎口も、大きな見どころだ。
西方城の東麓には、西方城の支城とされる二条城がある。どちらが先に築かれたかはっきりわかっていないが、平時は二条城、有事は西方城と使い分けをしていたという見方もある。
歴史
鎌倉時代後期に、宇都宮景綱の三男・武茂泰宗の子といわれる烏丸(西方)景泰が築いたと伝わる。しかし近年の研究では、武茂泰宗の子の貞泰こそが西方氏の始祖で、貞泰の子である宗泰のときに下野西方氏が成立したらしい。そうであれば、西方城は南北朝時代以降に築かれたと考えられる。天正元年(1573)頃に書かれたと推定される常陸の佐竹氏宛の書状に西方城の名が記されていることから、この頃には西方氏の城として機能していたことが推察される。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めでは、西方氏は秀吉の陣に出仕し、秀吉に敵対していなかった。しかし、戦後処理(宇都宮仕置)で西方氏の所領は結城氏に与えられ、所領を失った西方氏は宇都宮氏から代替措置として与えられた赤羽(芳賀郡市貝町)へ移った。西方氏が去ったのを機に、西方城は廃城になったとみられている。
交通
・東北自動車道鹿沼ICから車で約25分参考文献
・『関東の名城を歩く 北関東編』吉川弘文館、2011年・現地案内板