不摩城(ふまじょう)
不摩城の基本情報
通称・別名
- 秋葉城、部屋子城
所在地
- 栃木県栃木市鍋山町根古谷
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 足利有綱
築城年
- 仁安2年(1167)
主な改修者
- -
主な城主
- 木村氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
皆川城(栃木県栃木市)[7.1km]
西方城(栃木県栃木市)[7.9km]
唐沢山城(栃木県佐野市)[11.1km]
栃木城(栃木県栃木市)[12.6km]
蓬山城(栃木県佐野市)[13.6km]
加園城(栃木県鹿沼市)[13.8km]
赤見城(栃木県佐野市)[14.0km]
壬生城(栃木県下都賀郡)[14.7km]
佐野城(栃木県佐野市)[15.3km]
御城(栃木県小山市)[15.5km]
不摩城の口コミ情報
2025年07月18日 マグロ常陸介祐平
豊代館[不摩城 周辺城郭]
能の演目「鉢木」で知られる、佐野源左衛門常世の館とされています。「いざ鎌倉」で有名ですね。
お城は、東西約110m、南北約150mの単郭の居館で、断片的ですが、土塁は高いところで2m程の高さがあります。埋められたのか、堀は確認できません。居館としては規模の大きな部類で、極貧で鉢の木を火にくべて僧の姿の時頼をもてなす感じではありません。近くの願成寺には、常世の墓があります。
豊代地区は鎌倉時代、佐野(上佐野)氏の所領で、時頼の死から9年後の記録(文永9年)として、佐野増綱による田名綱の土地と中村の屋敷の譲状内容が伝わるようです(会沢地区の小曽戸家文書、田名綱と中村は付近の地名)。館の詳しい来歴は、わかっていないようですが、勝手な推測ですが、佐野家の家臣武沢氏(上佐野氏の子孫?)又は長尾氏(佐野家の家臣と思われる願成寺の住職の先祖?)が戦国期まで使用していたかもしれません。願成寺の無縁墓には、戦国期のものと思われる宝篋印塔が見られます。
鉢の木の舞台となったのはこの地以外にも、群馬県高崎市上佐野町(館跡とされる常世神社がある)や新潟県見附市が伝承地とされています。
2025年07月18日 マグロ常陸介祐平
藤沢城[不摩城 周辺城郭]
島津から小曽戸に姓を改めた小曽戸親治が、永正年間(1504~1521年)に築城したとされるようです。代々佐野氏に仕え、鍋山衆の筆頭でした。お城に設置された案内板は「藤沢城物語り」と銘打ち、城主小曽戸氏の歴史や、戦国期に活躍した小曽戸図書之助が上杉氏と北条氏の合戦において北条氏政の本陣に迫る活躍をし、大中寺の和睦の際には敵の大将氏政に武勇を称えられ、上杉謙信から感状を与えられたことが書かれています。
先人様の2021年の口コミには、「散策路があって歩きやすい」と書かれていますが、現在は薮城となっていました。朽ちた木で固められた散策路を登ると矢場の削平地があり、その先には案内板がある堀底と思われる道に出ます。手前に戻り「堀切」の矢印の先には湾曲した空堀となっていました。この堀は、郭を囲む堀と思われ、堀切のようには思えません。その先にあるかもしれませんが、笹薮が酷く断念しました。
不摩城より後に築城された支城のようですが、麓には今もご子孫が住まわれる居館部があり、城の別名も地域を代表する「鍋山城」となっています。不摩城程の要害性も感じられず、印象からはこちらが本城で、不摩城が詰城のように感じられました。なお、福山藩士となった小曽戸(島津)氏とこの地に帰農した小曽戸氏は、江戸時代を通じて交流があったようです。
2025年07月16日 マグロ常陸介祐平
不摩城
藤姓足利氏の足利俊綱の弟の戸矢子(足利)有綱が仁安2年(1167年)に築いたとされています。有綱は、佐野氏の先祖にあたります。有綱の後、この地を妻の戸矢子尼、娘の加賀局が継ぎ、加賀局の婿である島津忠久の孫の島津忠佐が領有することになります。薩摩や信濃の島津氏とは遠い親戚ということになります。忠佐から七代目の正親が梅沢を名乗り、その子親治から小曽戸氏と改めています。佐野氏が改易になると、小曽戸氏は、岩槻藩阿部正次に仕官し、阿部氏の転封により福山藩士となっています。小曽戸氏には鍋山時代の古文書が多く伝わりますが、幕末に島津に復姓したことにより「島津文書(早稲田大学所蔵)」と呼ばれ、地域の歴史を伝えています。
お城は、3つの郭で構成される連郭式で、西側の尾根とそれぞれの郭を堀切で仕切ります。堀切はそのまま竪堀のように降っています。東の郭の北側には腰郭が数段確認できます。単純な縄張りですが、堀切は見応えがあります。
お城には防獣柵を開けて入りますが、6頭程の鹿の群れに遭遇しました。他でも鹿には何度か遭遇しましたが、こちらの鹿さん達は、逃げたあとも視界に留まり、やたらと鳴き声をあげていました。記憶に残る出会いです。
2025年05月18日 気分爽快右大臣
不摩城
防獣柵を開け、砂防ダムの右脇を進み、右手の斜面を目指します。リア攻めマップが無いと、私には到達できない山城ですので、大変助かります。
南端の堀切をよじ登り、祠のある3郭に辿り着けました。大きめの郭が三っつと、それらを区切る堀切、主郭北の小規模な郭群(こちらは未踏)が主な遺構でしたが、尾根を断ち切る堀切は見応えがありました。
①東から見上げた城跡。三っつの堀切が見える
②南端の堀切と三郭
③南から二番目の堀切につながる竪堀
④南から三番目の堀切
⑤④につながる竪堀を下から
⑥⑤北の主郭横竪堀
⑦主郭切岸
⑧主郭北の横堀とそれにつながる竪堀
2025年05月01日 昌幸近江守更に吉
大塚城[不摩城 周辺城郭]
川沿いは等間隔に城が築城される傾向があります。渡河や川に並行して通る街道の監視、変事の通信網の役割をしていたのでしょう。在地豪族が制河権を取ろうと激しく争うわけです。この思川(おもいがわ)流域も例外ではありません。
大塚城は天亀〜天正年間に佐野氏の支城として大塚信濃守綱利により築かれました。東にあった粟野城(西方城の周辺城郭)が皆川氏に奪われた時に築かれたのかも知れません。一進一退を繰り返すもこの地域は皆川領となり、大塚氏の帰農と同時に廃城になったと思われます。
縄張りは連郭式で、「ここまで掘るのか?」と仰天する堀切が2条もあり、最奥の城域端には畝状竪堀が備わるというこの地域ではオリジナリティ溢れる縄張りを持っています。なお麓には居館跡があり土塁が残っています。
車は「清流の里かすお」に停め、徒歩で10分くらいで麓に到着します。今冬の山城攻めは栃木の城をメインに巡りましたが、最後の最後でご馳走が出てきたようで嬉しかったですね。堀切の上り下りは少々大変ですが、山城好きには是非訪門してもらいたいお城です。
【写真の説明】
①郭1-郭3間の堀切から続く竪堀。他の竪堀も同様に明瞭に残っている
②郭1の帯郭
③郭1-郭2間の堀切。郭2の土塁には石積みが見られる
④郭2-郭5間の堀切。郭2側は画面一杯に写る堀の深さ
⑤郭5から郭6へ。間に段郭を挟む
⑥6郭-7郭間の堀切。ここも遠慮ない深さ
⑦引っ掻き跡のように刻まれた畝状竪堀
⑧城域内外は堀切ではなく土塁で仕切っている
2025年03月09日 ᴿᴱᴰ 副将軍
大塚城[不摩城 周辺城郭]
4条の巨大堀切が圧巻の隠れた名城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。元亀・天正年代(1570年〜1592年)に大塚綱利により築かれたとも伝わります。
大塚氏は佐野氏に属した在地土豪とされ、佐野氏の支城として皆川氏の粟野城を攻略する拠点として機能したと考えられています。
見所
粕尾の谷戸部に入り込んだ標高約230mの丘陵上に築かれており、南北に伸びた尾根を堀切で区切った連郭式ですが、圧巻の大堀切が4条もあります。
特に最も北側の大堀切が深さ鋭さが最大で、更にその北側には数条の連続堀切があり側面は下野では珍しい畝状竪堀となっています。
また所々にこれも下野では珍しい石積みも点在しています。
南側の尾根先は段郭群が連なり、竪堀で周囲を堅めています。
南麓にある民家には土塁が残り居館跡であったと考えられています。
2024年11月04日 月末まで籠城ClaD
藤沢城[不摩城 周辺城郭]
丈の高い笹が密生していて堀の一部しか見られません。曲輪の中もまったく立ち入るスキもないほど。案内板を立てた当時は整備されていたのでしょうね…。
2023年12月09日 マグロ常陸介祐平
梅沢館[不摩城 周辺城郭]
藤沢城の南東約1kmにある島津氏(小曽戸氏)の一族、梅沢氏の居館です。華蔵寺の参道沿いから南東の道路沿いにL字に土塁が残っています。土塁からは単郭の城に見えますが、郭の内部は三段になっているように感じます。郭の南側は資材置き場や工場、住宅になっており立ち入ることは出来ません。
この城の周辺は、城の密度が濃い地域で、あまり時間をかけずに、この館の他小山義政終焉の地である粕尾城(遺構がよく残り、適度な薮漕ぎが楽しめる、写真7枚目)と櫃沢城(小山義政の供養塔がある、写真8枚目)を廻ることが出来ました(口コミ圏外のお城です)。
2023年11月28日 左近衛少将軍曹
阿土山城[不摩城 周辺城郭]
鎌倉時代に安戸氏が築いた山城。戦国時代には佐野氏の支城として改修され、広範囲で堀切や石積みが残る。
2023年02月10日 征夷大将軍ヒトリモン
不摩城
山で伐採していて、重機が城域より高い奥の方まで行っており、キャタピラの踏み固めた道で秋葉社の下までスムーズに登れました。ただ、先人の投稿にあるようなルートは破壊されてしまったのか?見つけられませんでした。
最後は直登して秋葉社に達したところで、作業員の方が来られ、「伐採作業中でどこで落石あるかわからないから…入口に出してないうちも悪いんだけど…」
との事です。
初訪城なので、遺構が破壊されているか私にはわかりませんが、どなたか確認していただければと思い口コミしました。
2022年05月10日 【籠城中】下野守智ぞう
大塚城[不摩城 周辺城郭]
清流の郷かすおに車を止めて日光・足尾方面に歩き、粕尾小学校を越え、理容店まで行かない場所に右に入る砂利道あり。そこを右折して歩くと左手に食い違い虎口のような土塁が見えますので、そこを進みます。
前方に山が見えますが、猪柵で囲まれてますが、一ヶ所針金で止められてますが、開けられる場所がありそこを開けて入ります。城への登山道はわかりづらいですが、うっすらとつづら折りの道がありますので、登ると城跡に到達します。
堀切や土塁、かなり状態良いです!本郭越えたあたりからの連続して現れる巨大堀切は、気をつけて降りてください‼️(3つめが凄すぎてビビり降りられませんでした)石積も見られますので探してみてください。
城跡は直線なんで迷う事はないかと。清流の郷かすおから歩く事を視野に入れても1時間弱で帰ってこれるかと。大塚城近くには、粕尾城や粟野城もありますんで体力に自信あればあわせて。
2022年03月17日 【籠城中】下野守智ぞう
不摩城
2022/03/17
先人さんの写真、秋葉城入口の石碑横のガソリンスタンド跡地に車を止めさせて頂き、道路挟んだ隣の家の人に許可を頂くために声をかけたらお爺さんが出てきて、すんなりオッケーしてくれます🎵
奥に進み石碑を頼りに城郭跡へ入口には猪柵あり。針金で固定してありますから。砂防ダムっぽい所を横目に進みますが、
台風19号の影響からか、道が良くわからなく、右側に回り込んで行くか、左側の道を真っ直ぐ行くか。初っぱなから岐路に
ハッキリ言って、安全パイを考えるなら左側。面白さを追求するなら、右側です
この城の地盤は砂利混じりで大変足場悪く滑りやすくなってます。右側ルート取られた方は誰かが巻いたピンクテープは当てにならないと思ったほうが良いですよ‼️
ピンクテープにしたがって進んだらエライところ通らされ、三回も滑落しました(笑)まあ面白かったけど
何とか城の郭に貼り付けましたが、メッチャヤバイ竪堀などがご褒美として待ってました(笑)
二本の竪堀の間に横堀がちょっとあって、丸馬だしみたいになってた部分あってメッチャ痺れました‼️これはヤバイ!
郭をよじ登ると、真ん中から左右に両側にキテれいる巨大竪堀が三本!!
滑りやすい地形を最大限に生かしてる!
いやー!栃木県メッチャヤバイ城ベスト10に赤丸急上昇っすよ!不摩城!
帰りに降り際に3つの巨大竪堀を下から見ながら安全パイルートから降りるのが素晴らしい🎵
危険犯したご褒美的な。
うん。右ルートを行く人は滑落100%なんで、なるべく一人では行かないほうが良いよ
2021年02月26日 副将軍お城エリコ
不摩城
秋葉神社の登り口先の獣柵を開け砂防ダムの脇を上がって行きます。右に曲がって進んで行くと右の上に1郭の先端の下竪堀と横堀が見えてきます。しかしここから1郭に登れそうもないので、今来た道を戻って砂防ダムの脇を登って行く事にしました。「右秋葉城」の石碑を見つけ、右の方へ進むと3郭の堀切の所に出ました。以前は階段状の道があった様ですが道がない!仕方なく堀切の脇を自力で登って3郭にたどり着いた。そこから堀切を見ながら2郭、1郭に進む。1郭の先端から見ても、ここから下へ降りれそうも有りません。又、3郭迄戻って堀切の脇を降り砂防ダムの脇を下って行きました。無事秋葉神社入り口に到着❗️
2021年01月16日 お太閤
藤沢城[不摩城 周辺城郭]
散策路があって歩きやすい。不摩城はこの藤沢城の支城。説明板や案内あり。
2019年03月24日 能登守急行サロベツ
不摩城
先人通り栃木駅よりコミュニティバス
出流観音行きで攻略。
終点まで行きお詣り後同じバスで栃木駅へ
片道¥300です。
2019年03月24日 能登守急行サロベツ
不摩城
先人通り栃木駅よりコミュニティバス
出流観音行きで攻略。
終点まで行きお詣り後同じバスで栃木駅へ
片道¥300です。
2017年06月13日 みやび姫
不摩城
夜のドライブがてら攻めるのは避けた方が無難。山道のカーブで鹿3頭に遭遇...闇夜に真っ赤な目だけ光って恐ろしかったです...
2016年05月02日 ⛫武蔵の加賀守の謙
不摩城
基本的には主要な三つの郭からなる連郭式の山城。
一番西側山の尾根を断ち切り、城域を区画する巨大な堀切がある。その堀切の上には削り残しの土塁と秋葉社のある小さな郭があり、西側の山側からの侵入を防ぐ為に普請されたものと思われる。
秋葉社のある郭の東側も大きな堀切で断ち、さらに奥には二番目の郭が表れる。こちらも堀切側には削り残しの土塁が付随する。
一番東側の郭に向かう途中にも大きな堀切があり、これを越えると東側先端の郭となる。 こちらも堀切側には土塁がある。一番東側の郭が最も広い。
東の郭東下には腰郭、帯郭があり、竪堀で区画されている。北側斜面にも複数段の腰郭が連なる。